「分かりやすい」文章の盲点

分かりやすい文章には、読者にとっての伝達効率や精度が良いという、特にビジネスに有用な長所がある一方で、没個性である、考える過程の楽しさを無視しているという書き手軽視の短所もある。

しかしこの短所は認識されず、巷ではビジネス以外の場面、例えば会話や、本の内容にも、この分かりやすさがますます求められるばかりである。
その結果、文章が書き手不在で読者中心の読み物となり、書き手が文章に自己表現したり、読者が書き手の意思や個性を垣間見る面白みが失われる。
このような事態を防ぐために、場面に応じて分かりやすさの優先度を下げたり、読者の都合よりも書き手自身の個性を重視した面白い文章を使い分ける工夫が必要である。
以上の文章を説明する。

1.分かりやすい文章の特徴
 まず、分かりやすい文章は結果の伝達に重点があり、次の性質を持つ。
(1)階層化された論理構造
 伝達効率を重視するため、説明する回数が最小となる、ツリー上の論理構造を取っている。全体的な結論が一番上の頂点となり、下に説明項、そのさらなる説明項が延々と続く。
(2)結論から根拠に辿っていく説明順序
 以上の論理構造における一番上の頂点から、その説明根拠を次々と辿っていく説明がなされる。
 分かりやすい文章は、文字通り、読者が内容を「分」類・「分」析しやすい文章である。

 

2.長所について
(1)内容
 分かりやすい文章の長所は、以下で述べるように、内容伝達のスピードと、客観的な理解可能性にある。
 ・まず、階層的な論理構造ゆえ少ない回数で説明が出来るため、読者が内容の繋がりを理解するのに時間がかからない。
 ・次に、言いたいことを先に述べるため、内容を主張する目的が読者にわかりやすい。
 ・最後に、1.(1)や1.(2)における規格化された文章構造ゆえ、同一の内容を文章化した場合に文体が書き手の癖に左右されない。したがって書き手との相性に左右されることなく、読者が内容を理解できる。


(2)長所が役立つ場面
 ・まず、その伝達効率ゆえに「速い」理解が求められる場面、つまりビジネスや緊急時の情報共有に役立つ。
 ・次に、客観的な理解可能性が求められる場合として、ビジネスのほか、例えば意見の異なる人と合意を形成するため、文書もしくは口頭で議論を交わす場面で有用である。なぜなら、内容について合意にいたるのには、論理の形式を含め出来るだけ多くの前提を共有したほうが都合が良いし、ツリー型の論理構造は、誤りやその影響を指摘するのに適しているからである。

 

3.短所について
 以下の通り、分かりやすい文章には、考えた結果の効率的で客観的な伝達の長所とは裏腹に、考える過程の趣深く個性的な表現に向かないという短所がある。


(1)内容
 ・まず、その規格的な形式ゆえに、書き手の個性が表現される余地が少ない。まとめる仕方は一意ではないにせよ、文章は単調で没個性的なものとならざるを得ない。
 ・結果の伝達に最適な形式で書かれているため、書き手の個性の一つである、思考のプロセスとは異なる順序や切り口で書かれる。したがって、書き手は思考の個性に反した不自然な文章の書き方を強いられ、文章を書くことが思考の補助にならない。また、自らの個性に従い趣くがままに文章を書く、楽しさが損なわれる。
 ・1.(2)で述べた論理構造にそぐわない内容は、「分かりやすく」文章化できず、捨象せざるを得ない。
例えば、階層的な論理構造は、全体を部分に還元できることを前提とするため、雑多な具体物に関して一つの一般的判断を下す、帰納的な推論を行うのに適する。しかし、数学的な論理のように抽象を具体物に還元せずに直線的な演繹を行う場合や、哲学におけるように単純な要素に還元不可能な全体物を扱う場合、無力である。

 

(2)短所が致命的となる場面
 ・教育等、「なぜこう考えたか」という思考の過程の伝達に重点がある場合
 ・書き手が、書くこと自体の楽しさや、限定された読者に向けた自己表現のために文章を書く場合。または逆に読者が書き手の個性を感じるために文章を読む場合。
 ・演繹的(直線的)な論理の筋道を述べる場合や、哲学などの分野で、明晰に語れないことを、「分かりえないものとして」語ろうとする場合。
 
4.分かりやすさの氾濫
 とりわけインターネットを通じて誰もが発信者になれるようになって以降、2.(2)で述べた、分かりやすさが必要な場面以外においても、分かりやすさが追求され、濫用されるようになった。その背景と弊害について述べる。


(1)文章を書くことの(読まれる)手段化、分かりやすさの目的化
 現代社会では、文章がかつてないほどにデフレ化している。それは二つの要因による。(根拠は挙げられていない)
 ・インターネットを通じ、文章を発信できる人口が増えたこと。
 ・薄利多売もしくは承認欲のため、「一つの文章がより多くの読者を欲している(文章の供給を賄う需要がより多くなっている)こと」
 後者を具体的に述べる。物書きが生計を立てるために必要とする記事一つ当たりの読者数が以前に比べ大幅に増している。そして、SNSなどの非営利の文章の書き手も、より多い閲覧数による自己承認を求め、閲覧数が目的化するほどである。
 それゆえ、文章を書くことが、読まれる(そして、金を稼ぐか承認を得る)ための手段となる傾向にある。
 読者は理解できることを、文章を読むための第一の必要条件として求める。したがって、読者が重視され、高い伝達効率と客観的な理解可能性を持つ「分かりやすい」文章に対して、より多くの読者がつく。
 したがって、分かりやすさは全般的にもとめられる傾向にある。

 

(2)弊害
 3.(2)で述べたように分かりやすさが文章の魅力を損なうような場面で、分かりやすさが追求された場合、本来の目的が分かりやすさのために犠牲となる問題が生じる。
・難解な思想を分かりやすく書こうとしたところで、本質の大部分が捨象された簡略な思想しか伝わらない。
・大多数からの承認のため分かりやすく文章を発信しても、承認してほしいと欲していたその人自身の個性は、皆が読んでくれる文章の内にはなく本末転倒である。
全般的には、次の弊害がある。
・書き手が文章を書いていても楽しくない。
・読者も、とっつきやすさや分かり易さの恩恵には与りつつも、単調で没個性な文章・論理展開に飽きてくる。
以上より、書き手が文章を書くのを楽しみつつ自己表現し、読者が文体に書き手の個性を感じるのを楽しむという、読み書きの楽しさが損なわれる。

 

5.分かりやすさと、面白さの使い分け
 まず、分かりやすさには対価を伴うことを認識のうえ、目的に応じて優先度を下げることが必要である。
 特に書く文章の分かりやすさと、書く面白さとはトレードオフにあることを意識しつつ、読者や聞き手へのサービスと、自己表現の愉しみのどちらに重きを置くかに応じて、両者を使い分ける必要がある。

 

以上のように分かりやすい形式で文章を書いたつもりだが、やはり書いていてつまらなかった。ここはビジネスの場とは異なり、自由に言論・表現ができる場なのだから、今後も以前と同様、分かりにくくとも面白い文章を書いていきたいと思っている。

生の「意味」について

私は、先日のブログ:

エピクロス主義者の願望はいかなる意味で生存に条件づけられているか。私の場合は。 - Silentterroristの日記

で下記の態度を表明した。

①将来どんないいことが約束されていても、死んでも生きてもどちらでもいい。

同時に、大多数の人が①の態度をとらない理由を、生きたいがために善いことを経験しようとするか、善いことを経験するために生きようとするからだと言った。

しかし、善を生きるからこそ必要とされるものだとする、私の善悪観からすれば、後者の理由はありえないのである。

ただ、理由をもって生きている人がいることは確かである。善い経験が理由ではないとすれば、何が理由で彼らは生きているのだろうか。私に言わせれば、彼らは自らの生に意味を持たせるために生きている。このように主張したいところだが、まず意味を定義しよう。

 

人生の意味は、言葉の意味に類比して定義できる。言葉は、対象を指示することによって、あるいは指示に限らず、言語使用において機能を持つがゆえに、意味を持つ。言葉の意味するものとして、対象ないし機能があげられるならば、言葉の意味とは、意味すること、言葉と、対象ないし機能の関係であろう。

ところで、言語はそれだけでは無意味である。確かに文法上の機能は言語内に含まれるが、言語外の何かが指示されないことには、助詞や接続詞のみから成るナンセンスしかありえないだろう。したがって、直接的、間接的を問わず、言葉は言語外の対象との関係を通じて初めて意味を持ちうる

人生についても同様のことがいえるだろう。人生は、それ自体としてみれば経験の遷移である。単なる経験の集まりに過ぎない人生が意味を持ちえるのは、単なる記号に過ぎない言語が意味を持ちえるのと同様に、人生の外の何かと関係することによってである

外とは(彼が存在すると信じる)他者や、客観世界かもしれないし、イデア界のような経験を超えた超越的世界かもしれない。関係するとは、影響を及ぼすか、単に観照的に知ることにあるかもしれない。ともかく、経験の外に世界があると信じ、人生と外の世界の間に見出せた関係こそが、意味なのである。

ゆえに、意味は生の内部と外部の接する境界に存在すると言えるだろう。

 

対して、善は、下記のブログで私が定義した意味では、生の活動をより自由な在り方に近づけるものであり、善の意味はあくまで生の内部で完結している。善の目的は、自由に生きること、それ以上の何物でもないのであり、そこに他者や、客観世界に及ぶ道徳的意味は一切登場しない。

自由および善の消極性について - Silentterroristの日記

 

このように善と意味は全く性質を異にした倫理的意義を持つが、同じものが同時に善でありかつ意味を持つ可能性はあるし、意味が生きる活力になる人にとっては、何かが意味を持つことが同時に善をなす。したがって善と意味は別物ではあれど、善いものと意味あるものは共通部分をしばしば持つのである。

 

さて、「意味のために生きることの意味が、これで明らかになっただろう。それは、生の外部とのつながりがより緊密になるように、より長く生存して人生全体の内容を豊富にすることである。

ただし、人生全体の意味が期間に比例して多くなるわけではない。これまでのポリシーに反した生き方によって、人生の意味が減ずることさえある。しかし、より長く生存しないことには、人生をより有意味にすることが出来ないことは確かである。

 

果たして、この意味が皆が「善のために生きる」とする「善」の内容を説明するものだろうか。それを確かめるためには、この典型的な「善」を挙げればよい。将来世代や人類に貢献する、家族を作る、性交する、アニメの世界を堪能する、世界を呪詛する、真理を探究する…どれを挙げても、生や経験の外部へ向けての影響や態度を志向した理由である。美味しいものを食べるために生きる、より気持ちよい自慰をするために生きる、というのはあまり聞かない。もしそういう人がいるにせよ、これまでに経験しなかった未知の世界に触れたいという志向がそこにはある。

彼らが言う「善」の成分のうち、生きているから必要となる善ではなく、そのために生きる意味こそが、彼らが生きる理由なのである。

 

最後に、なぜ意味が求められるかが説明されるべきだろう。私が定義した意味が取るに足らなければ、彼らが意味のゆえに生きることは説明できない。

私は主張する、善が自由な生を送るのに足りないから、生がそれ自体としては満足がいかないものだからこそ、生の外部を参照して、人生を耐えうるものとすべく意味が要請されるのだと。この意味で、意味は善に対する次善なのである。

大多数の人の生は労苦や苦痛で一杯であり、現在の自由、そして将来の自由にも程遠い。しかし、彼らに不自由な生よりも自由な死を選ぶ潔さは無い、したがって自らの生き続けることを合理化する理由として、意味が要請されるのである。意味は溺れる人がつかむ藁にも等しい、ニーチェが言うように我々は苦痛には耐えられても、意味が無いことには耐えられないのである。

彼が主張したように、意味は近代までは生無き宗教や真理の楽園に求められた。そして彼がこれらの「神」々に死刑判決を下した後の現代も、「社会」や「他者」という生の外部に意味が求められ続けているのである。

 

求められる理由に限らず、この意味はどこまでも次善的である。先に述べた、意味が生の境界にあって生、経験で完結しないということから、生の内部で完結する善が自体的な意義を持つのに対して、意味が単なる外在的なものでしかないことがわかる。そして自体的な善が自由に属するのに対し、外在的な意味は生の外の何かのため、即ち他律に属するのである。

 

しかし、ここまで意味を批判しておきながらも、私は意味を求める人「間」の性は否定はしない、むしろ、意味こそ我々が「個人」ではなく「人間」である限りの善ではあるかもしれない。したがって、動物的な善が、人間的な善に必ずしもならなくても重要であるように、人間的な善の一つである意味も、それが個人的な善に必ずしもならなくても重要であることには変わりはないのである。

意味は必要だが、意味が必要ないほど善が十分であることに越したことはなく、善も必要だが、善が必要ないほど自由であることに越したことはないのである。

エピクロス主義者の願望はいかなる意味で生存に条件づけられているか。私の場合は。

私はこれまでエピクロス主義を二通りに定義したが、どうも明晰さに欠くようである。そこで、再定義を行いたい。

まず、私がエピクロス主義の特徴づけとして用いた、「生存に条件付けられた願望」が一体どういうものなのか、詳細に説明したい。

そもそも、生存に「条件づけられている」のは願望という態度そのものなのか、願望する内容なのかに応じて、二つの態度を定義することができる。

定義

・A(t):時点tで自分が生きているという命題

・X(t):時点tで事象Xが起こるという命題

・態度(1):もしA(t)ならば、「X(t)」に真であって欲しい。

・態度(2):「A(t)ならばX(t)」という命題に真であって欲しい。

前者の態度は、「…であって欲しい」という願望の態度が丸ごと、「もしA(t)ならば」という生存の条件の下に置かれているが、後者は「もしA(t)ならば」が願望の中身に入ってしまっている。後者の願望は、実際にtに自分が生きているか否かに関係なく、無条件に抱くものである。

態度(1)の形態でしか願望を持たない人をα、態度(2)の願望もとる人をβと定義しよう。

 

まず、αは生死に対して全く中立であることに注意すべきである。αが時点tのXをYにまして欲するのは、あくまで時点tでαが生きている場合だけであり、αが行う比較は、AかつXとAかつYの比較の形態しかとらない。α自身の生と死、つまりAかつA(=A)と、Aかつnot A(=矛盾)の比較は意味をなさない。

αの選好は、αが同時に生きている事態の集合{AかつX| XはAと排反でない}上に限られているのである。

 

対して、βも決して死を避ける理由はないが、場合によって死を望むことがある。

αの抱く命題の他に、βが真であって欲しいと願う命題は、「A(t)ならばX(t)」であるが、これは「not A(t) または ( A(t)かつX(t) )」と同値である。つまりtで死んでいてもβの願望はかなうので、βにも死を避ける理由はないだろう。

しかし、彼には死を望む理由がある。例えば彼が、命題「A(t)ならば not X(t)」に真であってほしいと欲するとしよう。(例として、Xとして「自分が悲惨な苦痛を味わう」という事態が挙げられる)

もしXという事態がもし時点tで生きていれば決して避けられないならば、彼はA(t)かつX(t)(生きて悲惨な苦痛を味わう)もしくは、not A(t)(死んでいる)の二択を迫られる。彼が真であってほしいと願う命題は、前者において偽であり、後者において真であるから、彼は死を願うだろう

この態度は、前回の記事で述べたような、Xに対する否定の態度ということができるだろう。Xになるくらいなら死んだほうがマシだ、というのだから。

人は死を絶対的に望みうるが、生は相対的にしか望みえない。 - Silentterroristの日記

 

以上のα、βは、私が以下で定義したエピクロス主義αとβの特徴と一致するのが確認できる。

エピクロス主義について(6/28微修正) - Silentterroristの日記

エピクロス主義者は死のタイミングに対してどういう願望を持つか(7/17修正) - Silentterroristの日記

 

 

前回の記事で述べたように、いかなる人もある程度を超えた苦痛や悪に対しては否定の態度をもつことから、エピクロス主義者と言えどもその例外ではなく、αのエピクロス主義的な条件付けられた願望に加え、βの無条件の否定願望を持つのではないかと思われる。つまり、現実的なエピクロス主義はやはりβであろう。

 

このβの生死、善悪に対する態度は以下の通り整理できる。

X:βが否定する、つまりそれが起こるくらいなら死んだほうがいいと考える事態として、4つの事態を定義する。

 定義

・D:βが死んでいる

・AX:βが生きており、同時にXが真である

・AB:βが生きており、Xは偽であるが、βにとっての害悪Bが生じている

・AG:βが生きており、Xが偽かつ、βにとっての善Gが生じている

 

βは上4つの事態を他に比べてどのように選好するだろうか?

まず、Xに対する否定から、βはAXを必ず避けようとするため、AX<D, AB, AGだろう。

そして、生きている(A)以上悪よりも善を経験することを望むであろうから、AB<AGであろう。

それでは、DとAB、AGの関係はどうだろうか。

 

ここで、βに次の質疑応答がなされるかもしれない。

Q:「あなたは死ぬ(D)のと、生きて少し悪い経験をする(AB)のとどちらがいいか」

β:「どちらでもいい」

Q:「あなたは生きて少し悪い経験をする(AB)のと、生きていい経験をする(AG)のとどちらがいいか」

β:「生きるならいい経験をしたほうがいい(AG)」

Q:「DとABのどちらでもよく、ABよりAGのほうが良いのなら、DよりAGのほうが良いのではないか?」

β:「いや違う、死ぬのと生きていい経験をするのも、どちらでもいい」

 

質問者Qとβの認識の齟齬は、Qがβの「どちらでもいい」という発言を同等に望ましい(=)の意で解釈していたのに対して、βは比較不可能である(順序が定義されていない)の意味で言っていたことによる。

つまり、DはABやAGと比較出来ないという意味で、良くも悪くもないのである。

 

これでβの態度がより明らかになったものと思われる。彼は、生きているという条件のもと、「悪がより少なく、善がより多くあってほしいという願望」をもつ。そして、前提条件である生死に対しては、次を除けばどちらを望みも避けもしない

ただし、否定の対象となるほどに大きな悪に対しては、生きてそれを経験するくらいなら死んだほうがいいと判断するのである。

 

 

そして私もβのエピクロス主義者ではないかと思われる。

①将来どんないいことが約束されていても、死んでも生きてもどちらでもいい。

②ただ、あまりにも将来が過酷なら自殺を考えないでもない。(実行は難しそうだが)自殺に及ぶほど将来が過酷ではなく、仮にそうなっても実行は絶望的なので、私は恐らく生き続けるのだろう。

③生き続ける以上は、出来るだけ善く生きたほうが良いから、その努力をするまで、と。

②、③は大多数が共有する態度だろう。だが、大多数の人は①の態度をとらず、生きたいがために善いことを経験しようとするか、善いことを経験するために生きようとする。しかし、私は善を消極的に捉える倫理観、死生観から①の態度を取るのである。

人は死を絶対的に望みうるが、生は相対的にしか望みえない。

悪は、質や程度によっては、無いほうがよいという相対的な忌避の対象であることを超えて、絶対に在ってはならないという否定の対象となる。そのような一線はなく、自分はどこまでも肯定的だと主張する者がいれば、是非、ありとあらゆる物理的、化学的、精神的手法を組み合わせた拷問の苦しみでも受けてみればいいだろう。

 

対して、善(=素晴らしいこと)の肯定は、その質や程度によらず、あったほうがいいというだけである。決して「善」が絶対に在らねばならない、つまり「善」が在らぬことが絶対にあってはならない、とはならない。そのような態度はもはや肯定ではなく、「善」の不在に対する否定である。そしてそもそも、その欠如が大きな悪であるような消極的な「善」が、素晴らしき善であるわけがない。

 

(私に言わせれば、善は自由な生を「より」活発に行うことを可能にするものであるのに対して、巨悪はそれを阻害するどころか、自由を規定する本性そのものを損ない、自由を不可能にするものである。そのような悪は、避けて死ぬほうがまだ自由であるが故に、自由を愛する者は死んでまで避けるものである。)

 

ゆえに、悪は一線を越えれば絶対に在ってはならないものとなるのに対して、善はどこまでも出来るだけ在ったほうがいいものに過ぎない。悪に対する否定と、善に対する肯定という態度は非対称的なのである。

 

ところで、生きて悲惨な経験をすることは、否定の対象になりえる悪であるのに対して、死んで良い経験ができないことは、機会損失すら被ることがない無の状態であるがゆえに、悪ではなく、たんなる善の不在である。

 

したがって、生き続ければ経験するであろう大きな悪は、(生きたくはないと願うだけではなく、)生きることが在ってはならない理由になるのに対し、生き続ければ経験するであろう大きな善は、(人によっては生きたいと願う理由にはなるかもしれないが)生き続けなければならない理由にならない。

自由および善の消極性について

先日書いた記事:

そもそも、善き生とは何か。また、必ずしもその継続を願うとは限らない、より直接的な理由 - Silentterroristの日記

では、善を自由に生きることを可能にする手段として定義した。

しかし、この定義は消極的に過ぎるのではないか。そもそも善、特に最高善は他のいかなるもののためでもなく、それ自体のために追求されるものではないかという疑問もありうる。もしそのような最高善があるとすれば、あらゆる善がそのために追求される、自由がそれにあたるだろう。

しかし、自由も主観的には、そこに善さを見出す余地がないほど消極的である。もしある人が完全に自由な状態にあるとすれば、善として意識されうる何物も無いはずである。なぜなら、現実に不自由だからこそ自由が当為として、自由を阻むものが悪として意識されるからである。

自由の丁度良い類比として健康がある。むしろ、健康は我々が動物として生きる限りの自由と言っても差し支えないだろう。健康は客観的には、身体の器官が円滑に機能し、生命活動が滞りなく行われている積極的な状態を意味するが、主観的には、痛みや病気など、生存の障害となるものが全く無い状態を指す。それは確かにあるのだが、目が目それ自身を見ることができないように、積極的な何かとして意識・認識されることはない。したがって、健康はかけがえのないものであるが、その善さは失って初めて痛感される消極的なものに過ぎないのである。

健康も自由も、そうある当事者にとっては単なる無であり、善さがあてがわれる対象たりえない。確かに不健康、不自由な時には、健康や自由が渇望されるだろうが、得られたら消滅するものは、積極的な存在に着せられる善と呼ぶにふさわしくない。自由はあくまで、自由でしか無い

ただ、健康と同様、自由の消極性はあくまで主観の上であり、客観的には本性に従って活動できている積極的な状態を表す。したがって、無だからと言って、何事も無ければ自由が自動的に達成されると考えるのは誤りである。

健康が、外的な生活環境や食糧に恵まれて初めて維持できるように、自由も、本性に従った活動を可能にする積極的な環境や対象無くして成立しない。これらを私は善と呼ぶのである。これら善いものは、主観的にも積極的に対象として意識される。したがって善そのものも積極的な何かと思われがちだが、やはり自由という無の手段として消極性を免れないのである。

そもそも、善き生とは何か。また、必ずしもその継続を願うとは限らない、より直接的な理由

前回の記事では、善き生は生存してまで継続したいと願うものである、とする主張に対し反論を試みたものの、主張の一つの根拠を批判するのみであり、主張そのものを否定出来てはいない。エピクロス主義を擁護するならば、もっと直接的な反論が必要だろう。

その前に、そもそも善き生とは何を指すのか、定義を与える必要がある。なお、これまでの記事では極力、主観的な見解を前提として話をすすめるのを避けてきたが、ここでは私自身の生命観を前面に出すこととしたい。

 

まず、善は生きる誰かに対して決まるものであるから、生の定義を先に行う。生きるとは、(最も動物的な意味においては)客観的には身体が生理学的に化学反応ないし物理的に運動することで、主観的にはいろいろ知覚し、体験することである。この、身体と精神の表裏一体の変化を活動と呼ぶ。生とはこの活動(の名詞形)である。(ここでは、「生」を生きた結果ないし軌跡という意味では使わない。)

活動の仕方にもいろいろある。植物と動物の生命活動は明らかに異なるものだろう。生きる者は、一定の仕方で活動を行うべく方向づけられている。この一定の活動様式が、本性と呼ばれるものである。

しかし、方向づけられているからと言って、実際に自らの本性に即して活動が出来るとは限らない。日光が無ければ、植物は光合成を経て生長することが出来ないし、四肢が損傷すれば動物はその名のとおり動くことも出来ない。したがって自らの本性に由り活動すること、つまり自由に生きることは当為に過ぎず、現実には外的な環境制約により不自由な生が強いられているのである。だから、本性に従って活動すべく方向づけられている生者は、自由に生きる障害が無くなることを望み、そのために努めるのである。

ここで、自由に生きることを可能にする諸々の事物が「善」として、生きる者に必要とされる。逆に、自由に生きることを阻害する諸々の事物が「悪」として忌避されるのである。したがって、厳密には、生を形容するのは自由もしくは不自由であり、善悪はそれらの原因もしくは手段に過ぎないのである。「善き生」という概念も、自由たるのに十分な善に恵まれた生に他ならない。

 

以上が、生および善の定義であるが、生に関して極めて動物的な定義しか行っていない。生体反応が活発に行われていれば、動物として生きているとはいえるのかもしれないが、他人に対してなんの感情もいだかない人は、人間として生きているとは言い難い。そして人間的に生きている人でも、個性を殺して大衆に追従していては、個人的な生を送っているとは言えない。

したがって、生には動物的生→人間的生→個人的生の階層があり、上で述べた例のように、前の意味で生きていても、後ろの意味では生きていないという場合がある。前の生は後ろの生の前提であって、より基本的ではあるが、ある個人にとって最も本質的なのは個人的な生である、なぜならその人は動物もしくは人間の一員よりも、ほかならぬその人個人として生きているからだ。

生の内容が階層に応じて異なるとなると、本性や善悪もしかりである。動物的生を規定する本性が「本能」であれば、人間的生の場合は「人間性」、個人的生の場合は「個性」である。そして、これら本性はしばしば相反するのである

例えば、動物的な生命活動は、(死が予定されていても、リミットが来るまでは)その本性から生の継続に固執するが、これは人間としての尊厳にしばしば反する。臨床医療におけるような、家族と愛し合ったり、ものを考えることすら出来なくなる事態は人間としての本性を否定するものであり、人間的生としてはそうまでして生きることは忌避されてしかるべきものである。個性についても同様に、厭世的だったり、社会に不適合的である場合は、自殺や引きこもり等の非動物的、非人間的な生が送られるだろう。

 

さて、最初の問い:「善き生は生存してまで継続したいと願うものであるか否か」に戻る。

まず、善は生きる以上自由になるために必要とされるに過ぎないから、その善さのために生の継続が願望されることはないと言うことは出来る。善は現実に継続的に生きることになる場合に限り求められるものにすぎず、継続して生きることが決まっていない(願望の)段階では、何の意味も持たないからである。ましてや、継続して生きる理由にはならない。

もし生存が、その結果善い生を送りたいという期待とは別の動機により予定されれば、継続する生が善きものになることも願望されるだろう。したがって、結果的に善く生きることが願望される。しかし、その善さゆえに生の継続が願望されているわけではないのである。

例えば、動物的な生は、(もし阻害されなければ)生存しようと努力する本性のまま、衝動的に継続されるだろう。そして、こうして生き続けること、本能に生かされ続けることを前提として、我々は将来善に恵まれることを願うのである。しかし決して将来善いことがあるから生き続けているのではなく、おそらく生き続けるであろうから将来の善いことを期待しているだけなのである。

人間的生や個人的生は無条件でその継続を志向するものではないし、エピクロス主義者の個人的生のように、生の継続をその個性上求めることがない場合もある。

このような場合のように、もし生き続けることを願わなければ、その生が善いことを願う理由もない。したがって、善い生を生き続けることは、単に生き続けることよりも望ましくはない。よって、善い生生き続けることも願わないのである。

したがって、最初の問いの答えは否である。

善き生は、敢えて生存し続けてまで継続したいものか

私はこれまでエピクロス主義者について特徴づけを行い、彼らの生に対する姿勢や、持ちうる願望について考察してきた。そこでは、彼らの願望が刹那的な快楽の形態の独特なものに制限されていること、生き続けることを忌避することはあれ、積極的には求めないという生存への消極性を明らかにした。

なぜわざわざ4つも記事を書いてまで彼らの態度について考察したかというと、私が彼らに賛同する点が多く、思想により精神の安静を確立する彼らの立場が魅力的に思えたからである。

 

私の次なる関心は、エピクロス主義者のように極めて関心が制限されていて、生存に消極的であっても、(むしろそうだからこそ)善き生が送れることを示し、見習うべきところを見習って生きることにある。ちょうど、スピノザが人格神に対する信仰無しでも幸福に生きれることを示し、そのように生きるように努めたように。

しかし、エピクロス主義的な幸福、アタラクシアには、人格神なき幸福よりも、はるかに多くの懐疑が付きまとう。まずはこれらからエピクロス主義を擁護するところから始めないといけないだろう。

 

一つ目は分析哲学者Steven Luperが主張したもので、善いと呼べるような生は、生存してまで生きたいものではないか、(そしてエピクロス主義者の生は違う)というものである。彼は、生存する理由にならない、エピクロス主義者の願望を詳細に分類・分析している。その中でも自身の生存に条件付けられた願望(conditional desires)の例を挙げ、それらが真の願望とはなりえないこと、そして生を善きものにしないことを主張している。

 

例えば彼は、「自身が生きている間に限って」子供に幸せになってほしいと願い、将来世代には無関心な、エピキュリアンの冷淡な願望を挙げる。

エピクロス主義について(6/28微修正) - Silentterroristの日記

彼は、私が上の記事で挙げた、「自身が生きている間に限って」子供の将来の幸福や、将来世代の厚生のために努めたいとする願望の可能性は考慮するが、自身が死んだ後の子供や将来世代への無関心と両立することは、心理学的に不可能だと主張する。

私は、無関心どころか、死後の存在を信じずとも上記の願望、というより快楽はありうる(むしろその快のために死後の世界やそこに生きる他者が措定される)と考えるが、心理学的な検証無しには反論が出来ない。

しかし、仮にこのような願望がありえても、(私も同意するように)それは将来の子供や将来世代のために「努力すること」を欲しているだけであり、将来の子供や将来世代の幸せは間接的にしか願っていないと、彼は主張する。

そして、エピクロス主義者の願望は自身の生の境界を超えないものに終始している、と彼は総括する。

 

確かに全くその通りであるが、自身の生の境界を超えないような願望、例えば生きている間に起こる事象に対する願望でも、生を有意義にするものは確かに存在する。自分の能力を存分に発揮したり、自由に行う活動(に対する願望)がそれである。そして、意義は(全てとは言わずとも)善の一種である。

生の境界を超えずして獲得されないのは、生の善さではなく、意味である。なぜなら、意味とは生(経験)の外部との関係に他ならないのだから。

意味以外の形態を取る善はいくらでもあるし、意味も必ずしも善きものとは限らない。世界に対する呪詛に意味を見出す犬儒主義者もいるのである。

 

したがって、彼の主張は、生の境界で自己完結した願望しか持たないエピクロス主義者の生が善くなりえない理由にはならない。