自由および善の消極性について

先日書いた記事:

そもそも、善き生とは何か。また、必ずしもその継続を願うとは限らない、より直接的な理由 - Silentterroristの日記

では、善を自由に生きることを可能にする手段として定義した。

しかし、この定義は消極的に過ぎるのではないか。そもそも善、特に最高善は他のいかなるもののためでもなく、それ自体のために追求されるものではないかという疑問もありうる。もしそのような最高善があるとすれば、あらゆる善がそのために追求される、自由がそれにあたるだろう。

しかし、自由も主観的には、そこに善さを見出す余地がないほど消極的である。もしある人が完全に自由な状態にあるとすれば、善として意識されうる何物も無いはずである。なぜなら、現実に不自由だからこそ自由が当為として、自由を阻むものが悪として意識されるからである。

自由の丁度良い類比として健康がある。むしろ、健康は我々が動物として生きる限りの自由と言っても差し支えないだろう。健康は客観的には、身体の器官が円滑に機能し、生命活動が滞りなく行われている積極的な状態を意味するが、主観的には、痛みや病気など、生存の障害となるものが全く無い状態を指す。それは確かにあるのだが、目が目それ自身を見ることができないように、積極的な何かとして意識・認識されることはない。したがって、健康はかけがえのないものであるが、その善さは失って初めて痛感される消極的なものに過ぎないのである。

健康も自由も、そうある当事者にとっては単なる無であり、善さがあてがわれる対象たりえない。確かに不健康、不自由な時には、健康や自由が渇望されるだろうが、得られたら消滅するものは、積極的な存在に着せられる善と呼ぶにふさわしくない。自由はあくまで、自由でしか無い

ただ、健康と同様、自由の消極性はあくまで主観の上であり、客観的には本性に従って活動できている積極的な状態を表す。したがって、無だからと言って、何事も無ければ自由が自動的に達成されると考えるのは誤りである。

健康が、外的な生活環境や食糧に恵まれて初めて維持できるように、自由も、本性に従った活動を可能にする積極的な環境や対象無くして成立しない。これらを私は善と呼ぶのである。これら善いものは、主観的にも積極的に対象として意識される。したがって善そのものも積極的な何かと思われがちだが、やはり自由という無の手段として消極性を免れないのである。