人は死を絶対的に望みうるが、生は相対的にしか望みえない。

悪は、質や程度によっては、無いほうがよいという相対的な忌避の対象であることを超えて、絶対に在ってはならないという否定の対象となる。そのような一線はなく、自分はどこまでも肯定的だと主張する者がいれば、是非、ありとあらゆる物理的、化学的、精神的手法を組み合わせた拷問の苦しみでも受けてみればいいだろう。

 

対して、善(=素晴らしいこと)の肯定は、その質や程度によらず、あったほうがいいというだけである。決して「善」が絶対に在らねばならない、つまり「善」が在らぬことが絶対にあってはならない、とはならない。そのような態度はもはや肯定ではなく、「善」の不在に対する否定である。そしてそもそも、その欠如が大きな悪であるような消極的な「善」が、素晴らしき善であるわけがない。

 

(私に言わせれば、善は自由な生を「より」活発に行うことを可能にするものであるのに対して、巨悪はそれを阻害するどころか、自由を規定する本性そのものを損ない、自由を不可能にするものである。そのような悪は、避けて死ぬほうがまだ自由であるが故に、自由を愛する者は死んでまで避けるものである。)

 

ゆえに、悪は一線を越えれば絶対に在ってはならないものとなるのに対して、善はどこまでも出来るだけ在ったほうがいいものに過ぎない。悪に対する否定と、善に対する肯定という態度は非対称的なのである。

 

ところで、生きて悲惨な経験をすることは、否定の対象になりえる悪であるのに対して、死んで良い経験ができないことは、機会損失すら被ることがない無の状態であるがゆえに、悪ではなく、たんなる善の不在である。

 

したがって、生き続ければ経験するであろう大きな悪は、(生きたくはないと願うだけではなく、)生きることが在ってはならない理由になるのに対し、生き続ければ経験するであろう大きな善は、(人によっては生きたいと願う理由にはなるかもしれないが)生き続けなければならない理由にならない。