生存しているから快楽が必要に過ぎないのか、快楽を経験するために生存するのか。

エピクロス主義者は死のタイミングに対してどういう願望を持つか - Silentterroristの日記

昨日のブログで、「β:生きている間に起きる、ないしは経験できる出来事のみを肯定もしくは否定の対象とする」エピクロス主義者達は、もし生存すれば快い経験を楽しむことが保証されれば、そして生きて快楽を経験したいと積極的に望まれる場合、これから派生して、より長く生存することに対する願望を持つと述べた。

 

この生存に対する願望は、その結果経験する快楽に対する願望から派生しているため、「快楽を経験するために生存したいという願望」である、と言える。これは、仮定に過ぎない生存を条件として快楽を求めている点で、「生存する(ことが決まっている)以上は快楽を経験したい」という願望に比べ、快楽により独立した善さを認める願望である。エピクロス主義者に限らず、果たして快楽は、生存する理由になるほど積極的な善なのだろうか。そして、βの定義だけではこの願望を持つ可能性は否定できなかったが、エピクロス主義者は持ちうるのだろうか。

 

この問いに答えるには、快楽そのものの特徴を探らなくてはいけない。

快楽は何かが在ることに伴う(積極的な)経験なのだろうか、それとも何か(苦)の不在に伴う(消極的な)経験なのだろうか。

まず、快楽も快適と快感とに大分される。快適さは、苦や煩わしさの不在以上の何物でもない。なぜなら強度に上限があり、苦が無いときには、常にその同じ強度が達成されるからである。もし快適が積極的な何かに関する経験だとしたら、苦が無い時も、その何かの多少に応じて快適の強度は変わるだろうが、実際にはより快適な状態はあり得ない。正の定数を乗じても変わらないのは零だけであり、零なのは苦である。

 

他方で、快感の強度には際限がない。しかし、いくら強い快感でも、長続きすることはなく、むしろ強度に反比例して期間が短くなるのが経験の示すところである。(例えば、エクスタシーや、性的なオルガズムはほんの一瞬である)

また快感はその種類に応じて、美食欲、性欲等の諸々の欲望が満たすが、欲には満たされる限度があり、満たす欲望がなくなっては快感はほとんど得られなくなる

 

以上が示唆するのは、快感が欲の充足に過ぎないということである。欲の充足は快感の単なる結果ではなく、それなくして快感があり得ないほど、快感と一体なのである。また快感の強度に際限がないのは、(限りある)欲の充足という変化の速さに比例するからであり、これは快感の強度と期間が反比例するという事実を説明する。

ところで、欲が充足されていない状態は、不満や欠乏という苦そのものである。したがって快感は苦の減衰と言い換えることもでき、やはり快適と同様に消極的な経験である。

 

さて、快適については、苦を含めて経験の全く無い死んだ状態に対する本源的な願望を持つ理由が無いのと同様、生きて苦の無い経験をすることを望む理由はどこにもない

また、快感は苦の減衰なので、苦の存在を前提とする。ちょうど、苦を我慢した分が快感として返済されるがごとく、全体としては何の得もしていないのである。従って、快感に満ちた生を望む理由も無いだろう。

 

さらにエピクロス主義に関して言えば、当のエピクロス本人も、快を身体の苦痛や精神の動揺無き事として、消極的に定義している。一般的にも、エピクロス主義としても、快楽が生存する理由にはならず、逆に生存しているからこそ快楽が必要でしかないのである。

 

それでは、苦はどうだろうか。苦は、生存を忌避する理由になりうるか、それとも生存すると決まっている限り、苦をできるだけ避けるに過ぎないのだろうか。

もし、苦も何かの不在に伴う消極的な経験だとしたら、快楽と同様に後者が成立し、生存しても悲惨な苦しか待ち受けていないエピクロス主義者が、生存そのものを忌避する願望を持つ理由がなくなってしまう。

 

しかし、苦は快楽と異なり、何かの存在に伴う積極的な経験である。苦の強度には際限がないし、強い苦は強い快感と異なり持続する。

一見、苦は欲したり必要とするものが無いことに伴う消極的な経験であるように思われるかもしれない。だが、そもそも何かが無いことが苦となるのは、その何かに対する欲望が在り、そして己が飢えた者として在るからである。苦の経験は、それを十分に満たすものが存在しないような欲望が、存在することによるのである。

(対して、無欲な人でも快(適)を享受できる。)

例えば、小児性愛者は、犯罪となる欲の充足が事実上不可能であることよりも、己の欲望に苦しんでいる。彼は出来るならば、相手を傷つける罪を犯さずには充たせない欲の除去されることを切実に願っているだろう。

 

快楽は消極的なのに対して苦は積極的である、ゆえに、快楽のために敢えて生存することを願う理由はないのに対して、苦を避けるために生存することも避けることを願うのは不自然ではないのである。

エピクロス主義者は死のタイミングに対してどういう願望を持つか(7/17修正)

エピクロス主義者は、死が経験できる出来事ではないがゆえに、死に対して中立、つまり避けることも欲することもないのであった。

 

ただ、死は我々がいかなる選択をしようと遅かれ早かれ必ず訪れる。彼らはこの不可避な運命に対する恐怖心、もしくはそれを生み出す誤謬を哲学的考察により解消することに主眼を置いたのだろうが、果たして我々の選択が及びうる問題、つまり死がより早くもしくはより遅く訪れる(より長くもしくは短く生存する)ことに対して、彼らは一体どういう態度を取るのだろうか。

 

私は、エピクロス主義者を「α:生きている間に起きる、ないしは経験できる出来事のみを選好の対象とする」人々と定義した。

しかし、より長く生存することそのものは、経験される出来事ではない。そもそも、ちょうど水を入れる器のように、生存は出来事を経験出来るための前提条件なのであり、それ自体が経験をなすわけではないからである。

従って、彼らは、いつまで生きるかについて特段の本源的な望みを持ちはしない。

ここで「本源的」と言ったのは、生存することが、その結果とは独立に望ましくも望ましくなくも無いという意味である。これは、生存の結果生じる(生きている間の)出来事を望むが故に、その手段として生存を望む、派生的な願望と区別される。

 

では、彼らは生存する期間について派生的な願望を持ちうるだろうか。

もし持ちうるのだとしたら、その願望の根源は、生存することである出来事を経験する願望、もしくは生存しないことである出来事の経験を避けたいという願望にあるだろう。なぜなら、ある出来事に対する願望が派生するのは、その結果に対する願望からであり、エピクロス主義者が考慮する生存の結果は、生きて経験出来ることに限られるからである。

つまり、彼らがより長く生存することを派生的に望むとしたら

①:生存してある種の(言うまでもなく、快い)経験をすることを本源的に望んでいるからであり、

逆に彼らがより短く生存することを望む場合

②:生存して苦しい経験をすることを本源的に忌避しているからである。

 

さて、私がαとして特徴づけたエピクロス主義者たちは願望①、②を持たない。なぜなら、経験する出来事の「選好」は生きて経験する出来事の間に成り立つものであり、生きて経験する善い出来事と、経験できる出来事が無く、好みを持つことすら出来ない死んだ状態との間にそもそも選好の比較が成り立たないからである。しかし、①はともかく②を持たない、つまりどんなつらい苦境が待ち受けていても、生き続けたくないとする(派生的な)願望を持たない人は、極めて稀にしかいないだろう。

私はその類の人々に少なくとも該当はしないし、興味も持たない。私が与えたαの「選好」による特徴づけは限定的に過ぎたようである。

 

エピクロス主義者の定義を見直すとすれば、相対的な比較を絶対的な価値判断に変えればいいだけの話だ。「β:生きている間に起きる、ないしは経験できる出来事のみを肯定もしくは否定の対象とする」人々と定義する。

βのエピクロス主義者がもし生き続けても、酷く苦しい出来事しか待っていないとしよう。彼は生き続けない場合との比較(選好)によらず、生き続けた場合の悲惨な経験に対する絶対的な否定から、生存を忌避する願望を持つ。対して、すぐ死ぬことに対しては、それ自体としても、それがもたらす結果(何も起きないこと)からも、忌避または希求する願望は生まれないから、生存を忌避する派生的願望②だけが残るのである。

(なお、βもαと同様、長く生きることそれ自体は経験ではないがゆえに、本源的願望は持ちえない)

 

逆に、もし生き続けた場合に生が幸せな出来事で充たされることが保証されている場合も、その快楽を経験することが積極的に望まれる場合(7/17追記)、βのエピクロス主義者は同様の理由から派生的願望①を持つと思われる。

 

ただし、前者と後者の場合で非対称な点が一つだけある。

もし前者の場合で、生存を忌避する願いがあるにも関わらず、その願いがかなえられなかったら、つまり自殺の手段を奪われる等して生き続けることを強いられれば、彼には、願いがかなえられない害悪のみならず、生き続けて悲惨な経験をする害悪が降りかかる。

対して後者の場合、彼の願いに反して、より長く生存できなかったとしても、彼は願いがかなえられなかったのを残念に思うだけで(これも一応害悪ではある)、早く死んでしまった後に、死ななければ経験できた素晴らしい出来事に対する機会損失に苦しまなくていいのである。

以上より、βのエピクロス主義者は、より長い生よりもより早い死に寛容であると言える。

エピクロス主義者は「願望」することよりも、楽しく生きることに真面目である

私は先日のブログ:エピクロス主義について(6/28微修正) - Silentterroristの日記で、「エピクロス主義者」を、下記の通りの選好しか持たない人々として定義した。

(α)選好の対象となるのは、生きている間に起きる出来事のみである。

そして、彼らが死後の事象に対し間接的に「願望」を持ちえるものの、それは刹那的な快楽(楽しみあるいは有意義感)という特殊な形態をとっており、非エピクロス主義者の有する、己の生存に条件付けられず、逆に己が生存する理由となるような願望とは異質なものであることを述べた。

(上記のブログでは言及していなかったが、彼らは生きている(と彼らが自身が信じる)間に起こる事象に対しては、通常の願望を持ちうる。)

 

ここでは、エピクロス主義者がもつこの特殊な「願望」がいかなるものか、より詳しく説明したいと思う。

この刹那的な快楽としての「願望」は、(何かを)願望する(desire)のではなく、願望する現在を楽しむ(enjoy desiring)態度を指す名詞である。

では、そもそも願望はどのように、現在の快楽になりうるのだろうか。

a)まず、願望は、苦労の割に合う範囲でその実現可能性を高める方法がある場合(※)は、願望を実現しようとする努力を伴う。少ない困難で願望を実現できるのに、それに向けて何も努めて行わない場合、それはもはや願望とは言えない。願望は、それを実現しようとする努力と表裏一体である。

b)そして、願望の実現に向けて努めることはしばしば、(その困難がもたらす苦を上回る)充実感や困難を乗り越える自信といった快を伴ったり、努めて行う活動そのものが快いことがあるのである。

このように、(※)の条件が満たされる場合、願望はそれを実現しようとする努力を通じて間接的に、刹那的な快楽を生み出すのである。そして、一般的な願望が、エピクロス主義者の有する生存に条件づけられた「願望」であっても、a)やb)の正しさに変わりはないのである。

 

ただ、この「願望」は努力を通じてこそ快楽となるので、enjoy desiringよりも、enjoy working for one's desires という表現のほうが的確だろう。

ここで「願望」と、「願望」に向けての努力が主客転倒していることが見て取れるだろう。本来、努力は「願望」する事態の実現可能性を最大化する手段であった。だが、「願望」の快楽は「願望」そのものよりも、それに向けた努力という活動のうちにある。

もしエピクロス主義者が快楽を求めるのなら、彼らは願望を実現するために努力をするのではなく、むしろ快く努力(活動)できるために、努力の方向を決める目標として願望を必要とするのである。

 

以上に述べたことはあまりにも抽象的で、直感にそぐわないので、実例を二つあげよう。

・あるエピキュリアンXが、己の生ある限りYの幸福を願う、つまり現在および将来にわたってYにとっての善を行おう(A)と努めるとする。

ここで、Xは第一に他者Yが幸せになってほしいから、Yのためになることをしたいのではない。逆に、まず(「Yのような人」のためになることをするという)活動A、つまりある特定の人の愛し方をしたいがゆえに、それを可能ならしめるYという愛すべき人を選び、Yが幸福になるという願望を目標として抱くのである。(そんなの愛と呼べるのか、と常識人は反応するだろう。)

 

一般人には、上のエピキュリアンの感覚は理解できないかもしれない。そこで、一般人も抱くような「願望」の例を挙げよう。

ボードゲームのプレーヤーには、対戦相手に勝ちたいという願望がある。

彼は、勝利を目的にボードゲームで対戦するというより、対戦する過程で知性を思い存分発揮し、知的な駆け引きをするという勝利に向けての過程を楽しむために、勝利したいという願望ないし目標を持つことが多い。

もちろん、負けず嫌いで勝利の優越感を味わいたいだけの人、ゲームの腕をひたすら上げたい人、仕事で対局している人など、前者の人もいるだろう。しかし、彼らは勝つための手段と化してしまったゲームを純粋に楽しんでいるとはいえない。試合を楽しむことを第一義とするアマチュアの大半は、ほとんど後者の勝利「願望」を持っているのではないかと思われる。

 

最初の具体例を見ればなおさら、先のブログで述べたように、エピクロス主義者の願望は不真面目なものだと批判したくなる人は多いだろう。確かに、彼らにとって願望は、自分の活動、さらには生を楽しく在らしめるべく導くための手段である。

だが、彼らは不真面目に「願望」する代わりに、真面目に生を楽しんでいるのである。二つ目の具体例の勝利「願望」も、プロの勝利に対する(願望を超えた)執念に比べればいささか切実さに欠けるものではある、しかしその代わり、勝利を手段とするほどに、勝利「願望」を持つ人は真面目にゲームを楽しんでいるのである。

 

エピクロス主義、もしくはその含意する快楽主義は決して、今が楽しければそれでいいや、等といういい加減な妥協では無い。通常は生きることがその手段となるほどに尊い目的をも、徹底的に手段とするくらいに、自らが楽しく生きることに真剣な立場なのである。

エピクロス主義について

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※文章のまとまりのなさ、体裁の悪さはご容赦願います

最近私が興味を持っている思想家はエピクロスである。それは、一面において彼の倫理観と私の立場が一致しているからである。以下では、彼の倫理のこの一側面を紹介し、さらにはその内容がどれだけ同意できるものかを吟味したうえで、考えられうる批判に対する擁護を行いたい。

周知のとおり、エピクロス主義は、哲学的論証を通じて幸福、すなわち苦や恐怖から解放された心の平安を実現しようとする立場である。我々が克服する必要のある恐怖の最たるものは、死の恐怖である。そこで、彼は死が恐れるに足るものではないことをとりわけ強調している。その論理は、以下のとおりである。
経験(知覚)できるのは生きている間の出来事のみである
は生きている状態が終わった後に訪れる
③経験できないことは、恐れるに足らない
ゆえに、死が恐れるに足らないと彼は主張する。

 

まず、定義を明確にすべき概念がある。


・「生きている」というのは、知覚機能が働く程度に生命活動が維持されている状態を指す。脳死などの例を挙げるまでもなく、知覚が生じているか否か、生きているか否かは程度問題であり、明確な線引きは可能ではないが、ここでは問題としない。


・では、肝心の「死」は何を意味するのだろうか。
死という言葉の用法は次の三つの意味に大別することができる。
(1)ある時点において、既にその人が生き終えてしまった、現在完了形の死
(2)ある瞬間において、生きている状態が丁度終了すること(時制なき動詞としての死)
(3)ある時点において、その人の生命活動が終焉に向かいつつある現在進行形の死
上3つの定義で明確に違うのは、(1)および(2)の死が生じる時点において、死ぬ本人が生きるのを止めているのに対して、(3)の死は、死ぬ本人が生きている間に生じる点である。(3)については主張②が成立しないので、エピクロスはこの種類の死、つまり死にゆくこと(で経験する苦)に対する恐怖は排除できていないのである。

 

・「恐れるに足らない」という表現も、どうも主観的である。単に悪いことではないという意味なのか、それとも起こるか否かに関して完全に選好が中立であることを意味するのかはっきりしないが、ここでは後者の意味に解釈する。

 

さて、①、②は否定しようのない事実であるが、③は一定の倫理的立場を示している。事象を②の死に限定せず一般化すると、①と③の対偶による三段論法により、次の通り倫理的言明を導ける。


(α)選好の対象となるのは、生きている間に起きる出来事のみである。


要するに、私が上で規定したエピクロス主義者は、「生存に条件づけられた選好」しか持たないのである。

(この立場に、私はかなり強く賛同できた。というのも、私は、己の生存とは独立にあり続け、もしくはかつてあった世界の存在を認めず、それは単なる信仰の対象でしかないと考えているからだ。もし、私の立場を前提するならば、私が死んだ後の世界は存在しないのだから、すべての出来事は私が生きている間にしか起こらない。ゆえに、(α)は必ず真なのである。)

 

ここで、(α)の条件を満たす選好、あるいは願望はあまりに限定され過ぎてはいまいかという批判が考えられる。
(α)は自身が死んだ後の出来事に対してどうでもいいという態度を取ることを要求しているので、「私の死後も」愛する人に幸せでいてほしい、国や社会に発展してほしい、もしくは自身が手掛けていたプロジェクトに実現してほしい、と言った願望を排除する。自分自身が生きている期間に限って、幸せ、夢や目標の成就を願う、つまり自らが死んだ後のことはどうでもいいなど、なんと冷淡で不道徳だろうか。

 

私は、この批判に対して次のようにエピクロス主義を擁護したい。
私の死後に起こる出来事、例えば死後にわたる愛する家族の幸福も、「愛する家族が将来幸福になる期待として現在の出来事として間接的に願うことが出来るのではないだろうか。その人は、己が生きている限り、将来にわたり家族が幸せになる確率が極力高くなることを願い、その可能性をある一つの制約(※後述)のもと、極力高めるように行動するのである。この態度は(α)に反しない。

 

ただ、ある事象が将来「実際に起こること」を願うこと(x)は、現時点を基準とした「起こる確率」の最大化を願うこと(y)とは別物だと反論されるかもしれない。私はxとyが同一だと再反論するつもりはない。ただ、xの願望を持つ人が、現時点においてはyの願望を持つこと、そしてyの願望のみを持つ人とまったく同じ努力、つまり起こる確率の最大化を試みるであろうことは、明らかである。両者は、「いま」何を望み、何を行うかという点で(後述の※以外に)相違がないため、ほとんど同じであると言って差支えない。

エピクロス主義者も、彼なりに将来(に対する期待)に想いを馳せることはできるのである。これは少なくとも、「死んだ後は野となれ山となれ」という無責任で投げやりな態度とは全く異なるものである。

 

ただ、最後に(※)の但し書きについて注意しなければならない。
例)ある人が、己の死後に渡っても家族が幸せになる確率を最大化したいと願っているとし、その人がより長く生きて努力すればするほど、その確率は高くなるとする。
この場合、彼は(家族を助けるために)己自身がより長く生きることを望むだろう。
しかし、エピクロス主義者は異なる。彼は、己が生存する限り、将来にわたり家族の幸福を確実にしようと努めても、逆に家族の幸福を確実にするべく自ら行為するために、己がより長く生存したいという願望を持たないのである。
なぜなら、エピクロス主義者が持つ、家族の幸せを確実にしたいという願望は、あくまで彼が生きている限り有効であるため、この「限り」以降に家族の幸せがより確実になってほしいという願望は存在しない。したがって、その「限り」以降に、家族を助けるために生きたいと願う理由もないのである。

 

このような、ある将来に向けての願望の実現に向けて努力しようとする態度と、そのために敢えて生存を望みはしない態度は、常識的には両立しがたいように見える。もし両立するにしても、後者の態度を取る場合、前者の願望や努力は非常に不真面目なものとして映るだろう。

不真面目というのはある意味正しいかもしれない。というのも、快楽主義的傾向の強いエピクロス主義者にとってはおそらく、何かを願望すること、そしてその実現に向けて努力することですら、一つの刹那的な楽しみあるいは有意義(感)なのであろうから。(彼は、願望する何かの実現を直接追求してはいない、むしろ何かを願望し、そしてその実現に向けて努力する己の態度や活動の現在を楽しむのである。)

刹那的な快楽は、それが持続することも、したがってそれを生存して経験し続けることも要請しない。ゆえに、願望する何かのために彼は己の生存し続けることを、敢えて欲しないのである。

 

エピクロス主義者は、このように、我々の常識とは別種の、刹那的で快楽主義的な「願望」を持ち、それに向けての「努力」を行う。彼は徹底して将来でなく現在に生き、他人や世界でなく己のために生きる。しかし、倫理的な在り様がいかに異なろうとも、そのために己が敢えて生存しようとしない(※)点を除き、我々と同じように道徳的にふるまうことが出来るのである。