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エピクロス主義者は死のタイミングに対してどういう願望を持つか(7/17修正)

エピクロス主義者は、死が経験できる出来事ではないがゆえに、死に対して中立、つまり避けることも欲することもないのであった。

 

ただ、死は我々がいかなる選択をしようと遅かれ早かれ必ず訪れる。彼らはこの不可避な運命に対する恐怖心、もしくはそれを生み出す誤謬を哲学的考察により解消することに主眼を置いたのだろうが、果たして我々の選択が及びうる問題、つまり死がより早くもしくはより遅く訪れる(より長くもしくは短く生存する)ことに対して、彼らは一体どういう態度を取るのだろうか。

 

私は、エピクロス主義者を「α:生きている間に起きる、ないしは経験できる出来事のみを選好の対象とする」人々と定義した。

しかし、より長く生存することそのものは、経験される出来事ではない。そもそも、ちょうど水を入れる器のように、生存は出来事を経験出来るための前提条件なのであり、それ自体が経験をなすわけではないからである。

従って、彼らは、いつまで生きるかについて特段の本源的な望みを持ちはしない。

ここで「本源的」と言ったのは、生存することが、その結果とは独立に望ましくも望ましくなくも無いという意味である。これは、生存の結果生じる(生きている間の)出来事を望むが故に、その手段として生存を望む、派生的な願望と区別される。

 

では、彼らは生存する期間について派生的な願望を持ちうるだろうか。

もし持ちうるのだとしたら、その願望の根源は、生存することである出来事を経験する願望、もしくは生存しないことである出来事の経験を避けたいという願望にあるだろう。なぜなら、ある出来事に対する願望が派生するのは、その結果に対する願望からであり、エピクロス主義者が考慮する生存の結果は、生きて経験出来ることに限られるからである。

つまり、彼らがより長く生存することを派生的に望むとしたら

①:生存してある種の(言うまでもなく、快い)経験をすることを本源的に望んでいるからであり、

逆に彼らがより短く生存することを望む場合

②:生存して苦しい経験をすることを本源的に忌避しているからである。

 

さて、私がαとして特徴づけたエピクロス主義者たちは願望①、②を持たない。なぜなら、経験する出来事の「選好」は生きて経験する出来事の間に成り立つものであり、生きて経験する善い出来事と、経験できる出来事が無く、好みを持つことすら出来ない死んだ状態との間にそもそも選好の比較が成り立たないからである。しかし、①はともかく②を持たない、つまりどんなつらい苦境が待ち受けていても、生き続けたくないとする(派生的な)願望を持たない人は、極めて稀にしかいないだろう。

私はその類の人々に少なくとも該当はしないし、興味も持たない。私が与えたαの「選好」による特徴づけは限定的に過ぎたようである。

 

エピクロス主義者の定義を見直すとすれば、相対的な比較を絶対的な価値判断に変えればいいだけの話だ。「β:生きている間に起きる、ないしは経験できる出来事のみを肯定もしくは否定の対象とする」人々と定義する。

βのエピクロス主義者がもし生き続けても、酷く苦しい出来事しか待っていないとしよう。彼は生き続けない場合との比較(選好)によらず、生き続けた場合の悲惨な経験に対する絶対的な否定から、生存を忌避する願望を持つ。対して、すぐ死ぬことに対しては、それ自体としても、それがもたらす結果(何も起きないこと)からも、忌避または希求する願望は生まれないから、生存を忌避する派生的願望②だけが残るのである。

(なお、βもαと同様、長く生きることそれ自体は経験ではないがゆえに、本源的願望は持ちえない)

 

逆に、もし生き続けた場合に生が幸せな出来事で充たされることが保証されている場合も、その快楽を経験することが積極的に望まれる場合(7/17追記)、βのエピクロス主義者は同様の理由から派生的願望①を持つと思われる。

 

ただし、前者と後者の場合で非対称な点が一つだけある。

もし前者の場合で、生存を忌避する願いがあるにも関わらず、その願いがかなえられなかったら、つまり自殺の手段を奪われる等して生き続けることを強いられれば、彼には、願いがかなえられない害悪のみならず、生き続けて悲惨な経験をする害悪が降りかかる。

対して後者の場合、彼の願いに反して、より長く生存できなかったとしても、彼は願いがかなえられなかったのを残念に思うだけで(これも一応害悪ではある)、早く死んでしまった後に、死ななければ経験できた素晴らしい出来事に対する機会損失に苦しまなくていいのである。

以上より、βのエピクロス主義者は、より長い生よりもより早い死に寛容であると言える。