エピクロス主義について

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※文章のまとまりのなさ、体裁の悪さはご容赦願います

最近私が興味を持っている思想家はエピクロスである。それは、一面において彼の倫理観と私の立場が一致しているからである。以下では、彼の倫理のこの一側面を紹介し、さらにはその内容がどれだけ同意できるものかを吟味したうえで、考えられうる批判に対する擁護を行いたい。

周知のとおり、エピクロス主義は、哲学的論証を通じて幸福、すなわち苦や恐怖から解放された心の平安を実現しようとする立場である。我々が克服する必要のある恐怖の最たるものは、死の恐怖である。そこで、彼は死が恐れるに足るものではないことをとりわけ強調している。その論理は、以下のとおりである。
経験(知覚)できるのは生きている間の出来事のみである
は生きている状態が終わった後に訪れる
③経験できないことは、恐れるに足らない
ゆえに、死が恐れるに足らないと彼は主張する。

 

まず、定義を明確にすべき概念がある。


・「生きている」というのは、知覚機能が働く程度に生命活動が維持されている状態を指す。脳死などの例を挙げるまでもなく、知覚が生じているか否か、生きているか否かは程度問題であり、明確な線引きは可能ではないが、ここでは問題としない。


・では、肝心の「死」は何を意味するのだろうか。
死という言葉の用法は次の三つの意味に大別することができる。
(1)ある時点において、既にその人が生き終えてしまった、現在完了形の死
(2)ある瞬間において、生きている状態が丁度終了すること(時制なき動詞としての死)
(3)ある時点において、その人の生命活動が終焉に向かいつつある現在進行形の死
上3つの定義で明確に違うのは、(1)および(2)の死が生じる時点において、死ぬ本人が生きるのを止めているのに対して、(3)の死は、死ぬ本人が生きている間に生じる点である。(3)については主張②が成立しないので、エピクロスはこの種類の死、つまり死にゆくこと(で経験する苦)に対する恐怖は排除できていないのである。

 

・「恐れるに足らない」という表現も、どうも主観的である。単に悪いことではないという意味なのか、それとも起こるか否かに関して完全に選好が中立であることを意味するのかはっきりしないが、ここでは後者の意味に解釈する。

 

さて、①、②は否定しようのない事実であるが、③は一定の倫理的立場を示している。事象を②の死に限定せず一般化すると、①と③の対偶による三段論法により、次の通り倫理的言明を導ける。


(α)選好の対象となるのは、生きている間に起きる出来事のみである。


要するに、私が上で規定したエピクロス主義者は、「生存に条件づけられた選好」しか持たないのである。

(この立場に、私はかなり強く賛同できた。というのも、私は、己の生存とは独立にあり続け、もしくはかつてあった世界の存在を認めず、それは単なる信仰の対象でしかないと考えているからだ。もし、私の立場を前提するならば、私が死んだ後の世界は存在しないのだから、すべての出来事は私が生きている間にしか起こらない。ゆえに、(α)は必ず真なのである。)

 

ここで、(α)の条件を満たす選好、あるいは願望はあまりに限定され過ぎてはいまいかという批判が考えられる。
(α)は自身が死んだ後の出来事に対してどうでもいいという態度を取ることを要求しているので、「私の死後も」愛する人に幸せでいてほしい、国や社会に発展してほしい、もしくは自身が手掛けていたプロジェクトに実現してほしい、と言った願望を排除する。自分自身が生きている期間に限って、幸せ、夢や目標の成就を願う、つまり自らが死んだ後のことはどうでもいいなど、なんと冷淡で不道徳だろうか。

 

私は、この批判に対して次のようにエピクロス主義を擁護したい。
私の死後に起こる出来事、例えば死後にわたる愛する家族の幸福も、「愛する家族が将来幸福になる期待として現在の出来事として間接的に願うことが出来るのではないだろうか。その人は、己が生きている限り、将来にわたり家族が幸せになる確率が極力高くなることを願い、その可能性をある一つの制約(※後述)のもと、極力高めるように行動するのである。この態度は(α)に反しない。

 

ただ、ある事象が将来「実際に起こること」を願うこと(x)は、現時点を基準とした「起こる確率」の最大化を願うこと(y)とは別物だと反論されるかもしれない。私はxとyが同一だと再反論するつもりはない。ただ、xの願望を持つ人が、現時点においてはyの願望を持つこと、そしてyの願望のみを持つ人とまったく同じ努力、つまり起こる確率の最大化を試みるであろうことは、明らかである。両者は、「いま」何を望み、何を行うかという点で(後述の※以外に)相違がないため、ほとんど同じであると言って差支えない。

エピクロス主義者も、彼なりに将来(に対する期待)に想いを馳せることはできるのである。これは少なくとも、「死んだ後は野となれ山となれ」という無責任で投げやりな態度とは全く異なるものである。

 

ただ、最後に(※)の但し書きについて注意しなければならない。
例)ある人が、己の死後に渡っても家族が幸せになる確率を最大化したいと願っているとし、その人がより長く生きて努力すればするほど、その確率は高くなるとする。
この場合、彼は(家族を助けるために)己自身がより長く生きることを望むだろう。
しかし、エピクロス主義者は異なる。彼は、己が生存する限り、将来にわたり家族の幸福を確実にしようと努めても、逆に家族の幸福を確実にするべく自ら行為するために、己がより長く生存したいという願望を持たないのである。
なぜなら、エピクロス主義者が持つ、家族の幸せを確実にしたいという願望は、あくまで彼が生きている限り有効であるため、この「限り」以降に家族の幸せがより確実になってほしいという願望は存在しない。したがって、その「限り」以降に、家族を助けるために生きたいと願う理由もないのである。

 

このような、ある将来に向けての願望の実現に向けて努力しようとする態度と、そのために敢えて生存を望みはしない態度は、常識的には両立しがたいように見える。もし両立するにしても、後者の態度を取る場合、前者の願望や努力は非常に不真面目なものとして映るだろう。

不真面目というのはある意味正しいかもしれない。というのも、快楽主義的傾向の強いエピクロス主義者にとってはおそらく、何かを願望すること、そしてその実現に向けて努力することですら、一つの刹那的な楽しみあるいは有意義(感)なのであろうから。(彼は、願望する何かの実現を直接追求してはいない、むしろ何かを願望し、そしてその実現に向けて努力する己の態度や活動の現在を楽しむのである。)

刹那的な快楽は、それが持続することも、したがってそれを生存して経験し続けることも要請しない。ゆえに、願望する何かのために彼は己の生存し続けることを、敢えて欲しないのである。

 

エピクロス主義者は、このように、我々の常識とは別種の、刹那的で快楽主義的な「願望」を持ち、それに向けての「努力」を行う。彼は徹底して将来でなく現在に生き、他人や世界でなく己のために生きる。しかし、倫理的な在り様がいかに異なろうとも、そのために己が敢えて生存しようとしない(※)点を除き、我々と同じように道徳的にふるまうことが出来るのである。