そもそも、善き生とは何か。また、必ずしもその継続を願うとは限らない、より直接的な理由

前回の記事では、善き生は生存してまで継続したいと願うものである、とする主張に対し反論を試みたものの、主張の一つの根拠を批判するのみであり、主張そのものを否定出来てはいない。エピクロス主義を擁護するならば、もっと直接的な反論が必要だろう。

その前に、そもそも善き生とは何を指すのか、定義を与える必要がある。なお、これまでの記事では極力、主観的な見解を前提として話をすすめるのを避けてきたが、ここでは私自身の生命観を前面に出すこととしたい。

 

まず、善は生きる誰かに対して決まるものであるから、生の定義を先に行う。生きるとは、(最も動物的な意味においては)客観的には身体が生理学的に化学反応ないし物理的に運動することで、主観的にはいろいろ知覚し、体験することである。この、身体と精神の表裏一体の変化を活動と呼ぶ。生とはこの活動(の名詞形)である。(ここでは、「生」を生きた結果ないし軌跡という意味では使わない。)

活動の仕方にもいろいろある。植物と動物の生命活動は明らかに異なるものだろう。生きる者は、一定の仕方で活動を行うべく方向づけられている。この一定の活動様式が、本性と呼ばれるものである。

しかし、方向づけられているからと言って、実際に自らの本性に即して活動が出来るとは限らない。日光が無ければ、植物は光合成を経て生長することが出来ないし、四肢が損傷すれば動物はその名のとおり動くことも出来ない。したがって自らの本性に由り活動すること、つまり自由に生きることは当為に過ぎず、現実には外的な環境制約により不自由な生が強いられているのである。だから、本性に従って活動すべく方向づけられている生者は、自由に生きる障害が無くなることを望み、そのために努めるのである。

ここで、自由に生きることを可能にする諸々の事物が「善」として、生きる者に必要とされる。逆に、自由に生きることを阻害する諸々の事物が「悪」として忌避されるのである。したがって、厳密には、生を形容するのは自由もしくは不自由であり、善悪はそれらの原因もしくは手段に過ぎないのである。「善き生」という概念も、自由たるのに十分な善に恵まれた生に他ならない。

 

以上が、生および善の定義であるが、生に関して極めて動物的な定義しか行っていない。生体反応が活発に行われていれば、動物として生きているとはいえるのかもしれないが、他人に対してなんの感情もいだかない人は、人間として生きているとは言い難い。そして人間的に生きている人でも、個性を殺して大衆に追従していては、個人的な生を送っているとは言えない。

したがって、生には動物的生→人間的生→個人的生の階層があり、上で述べた例のように、前の意味で生きていても、後ろの意味では生きていないという場合がある。前の生は後ろの生の前提であって、より基本的ではあるが、ある個人にとって最も本質的なのは個人的な生である、なぜならその人は動物もしくは人間の一員よりも、ほかならぬその人個人として生きているからだ。

生の内容が階層に応じて異なるとなると、本性や善悪もしかりである。動物的生を規定する本性が「本能」であれば、人間的生の場合は「人間性」、個人的生の場合は「個性」である。そして、これら本性はしばしば相反するのである

例えば、動物的な生命活動は、(死が予定されていても、リミットが来るまでは)その本性から生の継続に固執するが、これは人間としての尊厳にしばしば反する。臨床医療におけるような、家族と愛し合ったり、ものを考えることすら出来なくなる事態は人間としての本性を否定するものであり、人間的生としてはそうまでして生きることは忌避されてしかるべきものである。個性についても同様に、厭世的だったり、社会に不適合的である場合は、自殺や引きこもり等の非動物的、非人間的な生が送られるだろう。

 

さて、最初の問い:「善き生は生存してまで継続したいと願うものであるか否か」に戻る。

まず、善は生きる以上自由になるために必要とされるに過ぎないから、その善さのために生の継続が願望されることはないと言うことは出来る。善は現実に継続的に生きることになる場合に限り求められるものにすぎず、継続して生きることが決まっていない(願望の)段階では、何の意味も持たないからである。ましてや、継続して生きる理由にはならない。

もし生存が、その結果善い生を送りたいという期待とは別の動機により予定されれば、継続する生が善きものになることも願望されるだろう。したがって、結果的に善く生きることが願望される。しかし、その善さゆえに生の継続が願望されているわけではないのである。

例えば、動物的な生は、(もし阻害されなければ)生存しようと努力する本性のまま、衝動的に継続されるだろう。そして、こうして生き続けること、本能に生かされ続けることを前提として、我々は将来善に恵まれることを願うのである。しかし決して将来善いことがあるから生き続けているのではなく、おそらく生き続けるであろうから将来の善いことを期待しているだけなのである。

人間的生や個人的生は無条件でその継続を志向するものではないし、エピクロス主義者の個人的生のように、生の継続をその個性上求めることがない場合もある。

このような場合のように、もし生き続けることを願わなければ、その生が善いことを願う理由もない。したがって、善い生を生き続けることは、単に生き続けることよりも望ましくはない。よって、善い生生き続けることも願わないのである。

したがって、最初の問いの答えは否である。