エピクロス主義者の願望はいかなる意味で生存に条件づけられているか。私の場合は。

私はこれまでエピクロス主義を二通りに定義したが、どうも明晰さに欠くようである。そこで、再定義を行いたい。

まず、私がエピクロス主義の特徴づけとして用いた、「生存に条件付けられた願望」が一体どういうものなのか、詳細に説明したい。

そもそも、生存に「条件づけられている」のは願望という態度そのものなのか、願望する内容なのかに応じて、二つの態度を定義することができる。

定義

・A(t):時点tで自分が生きているという命題

・X(t):時点tで事象Xが起こるという命題

・態度(1):もしA(t)ならば、「X(t)」に真であって欲しい。

・態度(2):「A(t)ならばX(t)」という命題に真であって欲しい。

前者の態度は、「…であって欲しい」という願望の態度が丸ごと、「もしA(t)ならば」という生存の条件の下に置かれているが、後者は「もしA(t)ならば」が願望の中身に入ってしまっている。後者の願望は、実際にtに自分が生きているか否かに関係なく、無条件に抱くものである。

態度(1)の形態でしか願望を持たない人をα、態度(2)の願望もとる人をβと定義しよう。

 

まず、αは生死に対して全く中立であることに注意すべきである。αが時点tのXをYにまして欲するのは、あくまで時点tでαが生きている場合だけであり、αが行う比較は、AかつXとAかつYの比較の形態しかとらない。α自身の生と死、つまりAかつA(=A)と、Aかつnot A(=矛盾)の比較は意味をなさない。

αの選好は、αが同時に生きている事態の集合{AかつX| XはAと排反でない}上に限られているのである。

 

対して、βも決して死を避ける理由はないが、場合によって死を望むことがある。

αの抱く命題の他に、βが真であって欲しいと願う命題は、「A(t)ならばX(t)」であるが、これは「not A(t) または ( A(t)かつX(t) )」と同値である。つまりtで死んでいてもβの願望はかなうので、βにも死を避ける理由はないだろう。

しかし、彼には死を望む理由がある。例えば彼が、命題「A(t)ならば not X(t)」に真であってほしいと欲するとしよう。(例として、Xとして「自分が悲惨な苦痛を味わう」という事態が挙げられる)

もしXという事態がもし時点tで生きていれば決して避けられないならば、彼はA(t)かつX(t)(生きて悲惨な苦痛を味わう)もしくは、not A(t)(死んでいる)の二択を迫られる。彼が真であってほしいと願う命題は、前者において偽であり、後者において真であるから、彼は死を願うだろう

この態度は、前回の記事で述べたような、Xに対する否定の態度ということができるだろう。Xになるくらいなら死んだほうがマシだ、というのだから。

人は死を絶対的に望みうるが、生は相対的にしか望みえない。 - Silentterroristの日記

 

以上のα、βは、私が以下で定義したエピクロス主義αとβの特徴と一致するのが確認できる。

エピクロス主義について(6/28微修正) - Silentterroristの日記

エピクロス主義者は死のタイミングに対してどういう願望を持つか(7/17修正) - Silentterroristの日記

 

 

前回の記事で述べたように、いかなる人もある程度を超えた苦痛や悪に対しては否定の態度をもつことから、エピクロス主義者と言えどもその例外ではなく、αのエピクロス主義的な条件付けられた願望に加え、βの無条件の否定願望を持つのではないかと思われる。つまり、現実的なエピクロス主義はやはりβであろう。

 

このβの生死、善悪に対する態度は以下の通り整理できる。

X:βが否定する、つまりそれが起こるくらいなら死んだほうがいいと考える事態として、4つの事態を定義する。

 定義

・D:βが死んでいる

・AX:βが生きており、同時にXが真である

・AB:βが生きており、Xは偽であるが、βにとっての害悪Bが生じている

・AG:βが生きており、Xが偽かつ、βにとっての善Gが生じている

 

βは上4つの事態を他に比べてどのように選好するだろうか?

まず、Xに対する否定から、βはAXを必ず避けようとするため、AX<D, AB, AGだろう。

そして、生きている(A)以上悪よりも善を経験することを望むであろうから、AB<AGであろう。

それでは、DとAB、AGの関係はどうだろうか。

 

ここで、βに次の質疑応答がなされるかもしれない。

Q:「あなたは死ぬ(D)のと、生きて少し悪い経験をする(AB)のとどちらがいいか」

β:「どちらでもいい」

Q:「あなたは生きて少し悪い経験をする(AB)のと、生きていい経験をする(AG)のとどちらがいいか」

β:「生きるならいい経験をしたほうがいい(AG)」

Q:「DとABのどちらでもよく、ABよりAGのほうが良いのなら、DよりAGのほうが良いのではないか?」

β:「いや違う、死ぬのと生きていい経験をするのも、どちらでもいい」

 

質問者Qとβの認識の齟齬は、Qがβの「どちらでもいい」という発言を同等に望ましい(=)の意で解釈していたのに対して、βは比較不可能である(順序が定義されていない)の意味で言っていたことによる。

つまり、DはABやAGと比較出来ないという意味で、良くも悪くもないのである。

 

これでβの態度がより明らかになったものと思われる。彼は、生きているという条件のもと、「悪がより少なく、善がより多くあってほしいという願望」をもつ。そして、前提条件である生死に対しては、次を除けばどちらを望みも避けもしない

ただし、否定の対象となるほどに大きな悪に対しては、生きてそれを経験するくらいなら死んだほうがいいと判断するのである。

 

 

そして私もβのエピクロス主義者ではないかと思われる。

①将来どんないいことが約束されていても、死んでも生きてもどちらでもいい。

②ただ、あまりにも将来が過酷なら自殺を考えないでもない。(実行は難しそうだが)自殺に及ぶほど将来が過酷ではなく、仮にそうなっても実行は絶望的なので、私は恐らく生き続けるのだろう。

③生き続ける以上は、出来るだけ善く生きたほうが良いから、その努力をするまで、と。

②、③は大多数が共有する態度だろう。だが、大多数の人は①の態度をとらず、生きたいがために善いことを経験しようとするか、善いことを経験するために生きようとする。しかし、私は善を消極的に捉える倫理観、死生観から①の態度を取るのである。

人は死を絶対的に望みうるが、生は相対的にしか望みえない。

悪は、質や程度によっては、無いほうがよいという相対的な忌避の対象であることを超えて、絶対に在ってはならないという否定の対象となる。そのような一線はなく、自分はどこまでも肯定的だと主張する者がいれば、是非、ありとあらゆる物理的、化学的、精神的手法を組み合わせた拷問の苦しみでも受けてみればいいだろう。

 

対して、善(=素晴らしいこと)の肯定は、その質や程度によらず、あったほうがいいというだけである。決して「善」が絶対に在らねばならない、つまり「善」が在らぬことが絶対にあってはならない、とはならない。そのような態度はもはや肯定ではなく、「善」の不在に対する否定である。そしてそもそも、その欠如が大きな悪であるような消極的な「善」が、素晴らしき善であるわけがない。

 

(私に言わせれば、善は自由な生を「より」活発に行うことを可能にするものであるのに対して、巨悪はそれを阻害するどころか、自由を規定する本性そのものを損ない、自由を不可能にするものである。そのような悪は、避けて死ぬほうがまだ自由であるが故に、自由を愛する者は死んでまで避けるものである。)

 

ゆえに、悪は一線を越えれば絶対に在ってはならないものとなるのに対して、善はどこまでも出来るだけ在ったほうがいいものに過ぎない。悪に対する否定と、善に対する肯定という態度は非対称的なのである。

 

ところで、生きて悲惨な経験をすることは、否定の対象になりえる悪であるのに対して、死んで良い経験ができないことは、機会損失すら被ることがない無の状態であるがゆえに、悪ではなく、たんなる善の不在である。

 

したがって、生き続ければ経験するであろう大きな悪は、(生きたくはないと願うだけではなく、)生きることが在ってはならない理由になるのに対し、生き続ければ経験するであろう大きな善は、(人によっては生きたいと願う理由にはなるかもしれないが)生き続けなければならない理由にならない。

自由および善の消極性について

先日書いた記事:

そもそも、善き生とは何か。また、必ずしもその継続を願うとは限らない、より直接的な理由 - Silentterroristの日記

では、善を自由に生きることを可能にする手段として定義した。

しかし、この定義は消極的に過ぎるのではないか。そもそも善、特に最高善は他のいかなるもののためでもなく、それ自体のために追求されるものではないかという疑問もありうる。もしそのような最高善があるとすれば、あらゆる善がそのために追求される、自由がそれにあたるだろう。

しかし、自由も主観的には、そこに善さを見出す余地がないほど消極的である。もしある人が完全に自由な状態にあるとすれば、善として意識されうる何物も無いはずである。なぜなら、現実に不自由だからこそ自由が当為として、自由を阻むものが悪として意識されるからである。

自由の丁度良い類比として健康がある。むしろ、健康は我々が動物として生きる限りの自由と言っても差し支えないだろう。健康は客観的には、身体の器官が円滑に機能し、生命活動が滞りなく行われている積極的な状態を意味するが、主観的には、痛みや病気など、生存の障害となるものが全く無い状態を指す。それは確かにあるのだが、目が目それ自身を見ることができないように、積極的な何かとして意識・認識されることはない。したがって、健康はかけがえのないものであるが、その善さは失って初めて痛感される消極的なものに過ぎないのである。

健康も自由も、そうある当事者にとっては単なる無であり、善さがあてがわれる対象たりえない。確かに不健康、不自由な時には、健康や自由が渇望されるだろうが、得られたら消滅するものは、積極的な存在に着せられる善と呼ぶにふさわしくない。自由はあくまで、自由でしか無い

ただ、健康と同様、自由の消極性はあくまで主観の上であり、客観的には本性に従って活動できている積極的な状態を表す。したがって、無だからと言って、何事も無ければ自由が自動的に達成されると考えるのは誤りである。

健康が、外的な生活環境や食糧に恵まれて初めて維持できるように、自由も、本性に従った活動を可能にする積極的な環境や対象無くして成立しない。これらを私は善と呼ぶのである。これら善いものは、主観的にも積極的に対象として意識される。したがって善そのものも積極的な何かと思われがちだが、やはり自由という無の手段として消極性を免れないのである。

そもそも、善き生とは何か。また、必ずしもその継続を願うとは限らない、より直接的な理由

前回の記事では、善き生は生存してまで継続したいと願うものである、とする主張に対し反論を試みたものの、主張の一つの根拠を批判するのみであり、主張そのものを否定出来てはいない。エピクロス主義を擁護するならば、もっと直接的な反論が必要だろう。

その前に、そもそも善き生とは何を指すのか、定義を与える必要がある。なお、これまでの記事では極力、主観的な見解を前提として話をすすめるのを避けてきたが、ここでは私自身の生命観を前面に出すこととしたい。

 

まず、善は生きる誰かに対して決まるものであるから、生の定義を先に行う。生きるとは、(最も動物的な意味においては)客観的には身体が生理学的に化学反応ないし物理的に運動することで、主観的にはいろいろ知覚し、体験することである。この、身体と精神の表裏一体の変化を活動と呼ぶ。生とはこの活動(の名詞形)である。(ここでは、「生」を生きた結果ないし軌跡という意味では使わない。)

活動の仕方にもいろいろある。植物と動物の生命活動は明らかに異なるものだろう。生きる者は、一定の仕方で活動を行うべく方向づけられている。この一定の活動様式が、本性と呼ばれるものである。

しかし、方向づけられているからと言って、実際に自らの本性に即して活動が出来るとは限らない。日光が無ければ、植物は光合成を経て生長することが出来ないし、四肢が損傷すれば動物はその名のとおり動くことも出来ない。したがって自らの本性に由り活動すること、つまり自由に生きることは当為に過ぎず、現実には外的な環境制約により不自由な生が強いられているのである。だから、本性に従って活動すべく方向づけられている生者は、自由に生きる障害が無くなることを望み、そのために努めるのである。

ここで、自由に生きることを可能にする諸々の事物が「善」として、生きる者に必要とされる。逆に、自由に生きることを阻害する諸々の事物が「悪」として忌避されるのである。したがって、厳密には、生を形容するのは自由もしくは不自由であり、善悪はそれらの原因もしくは手段に過ぎないのである。「善き生」という概念も、自由たるのに十分な善に恵まれた生に他ならない。

 

以上が、生および善の定義であるが、生に関して極めて動物的な定義しか行っていない。生体反応が活発に行われていれば、動物として生きているとはいえるのかもしれないが、他人に対してなんの感情もいだかない人は、人間として生きているとは言い難い。そして人間的に生きている人でも、個性を殺して大衆に追従していては、個人的な生を送っているとは言えない。

したがって、生には動物的生→人間的生→個人的生の階層があり、上で述べた例のように、前の意味で生きていても、後ろの意味では生きていないという場合がある。前の生は後ろの生の前提であって、より基本的ではあるが、ある個人にとって最も本質的なのは個人的な生である、なぜならその人は動物もしくは人間の一員よりも、ほかならぬその人個人として生きているからだ。

生の内容が階層に応じて異なるとなると、本性や善悪もしかりである。動物的生を規定する本性が「本能」であれば、人間的生の場合は「人間性」、個人的生の場合は「個性」である。そして、これら本性はしばしば相反するのである

例えば、動物的な生命活動は、(死が予定されていても、リミットが来るまでは)その本性から生の継続に固執するが、これは人間としての尊厳にしばしば反する。臨床医療におけるような、家族と愛し合ったり、ものを考えることすら出来なくなる事態は人間としての本性を否定するものであり、人間的生としてはそうまでして生きることは忌避されてしかるべきものである。個性についても同様に、厭世的だったり、社会に不適合的である場合は、自殺や引きこもり等の非動物的、非人間的な生が送られるだろう。

 

さて、最初の問い:「善き生は生存してまで継続したいと願うものであるか否か」に戻る。

まず、善は生きる以上自由になるために必要とされるに過ぎないから、その善さのために生の継続が願望されることはないと言うことは出来る。善は現実に継続的に生きることになる場合に限り求められるものにすぎず、継続して生きることが決まっていない(願望の)段階では、何の意味も持たないからである。ましてや、継続して生きる理由にはならない。

もし生存が、その結果善い生を送りたいという期待とは別の動機により予定されれば、継続する生が善きものになることも願望されるだろう。したがって、結果的に善く生きることが願望される。しかし、その善さゆえに生の継続が願望されているわけではないのである。

例えば、動物的な生は、(もし阻害されなければ)生存しようと努力する本性のまま、衝動的に継続されるだろう。そして、こうして生き続けること、本能に生かされ続けることを前提として、我々は将来善に恵まれることを願うのである。しかし決して将来善いことがあるから生き続けているのではなく、おそらく生き続けるであろうから将来の善いことを期待しているだけなのである。

人間的生や個人的生は無条件でその継続を志向するものではないし、エピクロス主義者の個人的生のように、生の継続をその個性上求めることがない場合もある。

このような場合のように、もし生き続けることを願わなければ、その生が善いことを願う理由もない。したがって、善い生を生き続けることは、単に生き続けることよりも望ましくはない。よって、善い生生き続けることも願わないのである。

したがって、最初の問いの答えは否である。

善き生は、敢えて生存し続けてまで継続したいものか

私はこれまでエピクロス主義者について特徴づけを行い、彼らの生に対する姿勢や、持ちうる願望について考察してきた。そこでは、彼らの願望が刹那的な快楽の形態の独特なものに制限されていること、生き続けることを忌避することはあれ、積極的には求めないという生存への消極性を明らかにした。

なぜわざわざ4つも記事を書いてまで彼らの態度について考察したかというと、私が彼らに賛同する点が多く、思想により精神の安静を確立する彼らの立場が魅力的に思えたからである。

 

私の次なる関心は、エピクロス主義者のように極めて関心が制限されていて、生存に消極的であっても、(むしろそうだからこそ)善き生が送れることを示し、見習うべきところを見習って生きることにある。ちょうど、スピノザが人格神に対する信仰無しでも幸福に生きれることを示し、そのように生きるように努めたように。

しかし、エピクロス主義的な幸福、アタラクシアには、人格神なき幸福よりも、はるかに多くの懐疑が付きまとう。まずはこれらからエピクロス主義を擁護するところから始めないといけないだろう。

 

一つ目は分析哲学者Steven Luperが主張したもので、善いと呼べるような生は、生存してまで生きたいものではないか、(そしてエピクロス主義者の生は違う)というものである。彼は、生存する理由にならない、エピクロス主義者の願望を詳細に分類・分析している。その中でも自身の生存に条件付けられた願望(conditional desires)の例を挙げ、それらが真の願望とはなりえないこと、そして生を善きものにしないことを主張している。

 

例えば彼は、「自身が生きている間に限って」子供に幸せになってほしいと願い、将来世代には無関心な、エピキュリアンの冷淡な願望を挙げる。

エピクロス主義について(6/28微修正) - Silentterroristの日記

彼は、私が上の記事で挙げた、「自身が生きている間に限って」子供の将来の幸福や、将来世代の厚生のために努めたいとする願望の可能性は考慮するが、自身が死んだ後の子供や将来世代への無関心と両立することは、心理学的に不可能だと主張する。

私は、無関心どころか、死後の存在を信じずとも上記の願望、というより快楽はありうる(むしろその快のために死後の世界やそこに生きる他者が措定される)と考えるが、心理学的な検証無しには反論が出来ない。

しかし、仮にこのような願望がありえても、(私も同意するように)それは将来の子供や将来世代のために「努力すること」を欲しているだけであり、将来の子供や将来世代の幸せは間接的にしか願っていないと、彼は主張する。

そして、エピクロス主義者の願望は自身の生の境界を超えないものに終始している、と彼は総括する。

 

確かに全くその通りであるが、自身の生の境界を超えないような願望、例えば生きている間に起こる事象に対する願望でも、生を有意義にするものは確かに存在する。自分の能力を存分に発揮したり、自由に行う活動(に対する願望)がそれである。そして、意義は(全てとは言わずとも)善の一種である。

生の境界を超えずして獲得されないのは、生の善さではなく、意味である。なぜなら、意味とは生(経験)の外部との関係に他ならないのだから。

意味以外の形態を取る善はいくらでもあるし、意味も必ずしも善きものとは限らない。世界に対する呪詛に意味を見出す犬儒主義者もいるのである。

 

したがって、彼の主張は、生の境界で自己完結した願望しか持たないエピクロス主義者の生が善くなりえない理由にはならない。

生存しているから快楽が必要に過ぎないのか、快楽を経験するために生存するのか。

エピクロス主義者は死のタイミングに対してどういう願望を持つか - Silentterroristの日記

昨日のブログで、「β:生きている間に起きる、ないしは経験できる出来事のみを肯定もしくは否定の対象とする」エピクロス主義者達は、もし生存すれば快い経験を楽しむことが保証されれば、そして生きて快楽を経験したいと積極的に望まれる場合、これから派生して、より長く生存することに対する願望を持つと述べた。

 

この生存に対する願望は、その結果経験する快楽に対する願望から派生しているため、「快楽を経験するために生存したいという願望」である、と言える。これは、仮定に過ぎない生存を条件として快楽を求めている点で、「生存する(ことが決まっている)以上は快楽を経験したい」という願望に比べ、快楽により独立した善さを認める願望である。エピクロス主義者に限らず、果たして快楽は、生存する理由になるほど積極的な善なのだろうか。そして、βの定義だけではこの願望を持つ可能性は否定できなかったが、エピクロス主義者は持ちうるのだろうか。

 

この問いに答えるには、快楽そのものの特徴を探らなくてはいけない。

快楽は何かが在ることに伴う(積極的な)経験なのだろうか、それとも何か(苦)の不在に伴う(消極的な)経験なのだろうか。

まず、快楽も快適と快感とに大分される。快適さは、苦や煩わしさの不在以上の何物でもない。なぜなら強度に上限があり、苦が無いときには、常にその同じ強度が達成されるからである。もし快適が積極的な何かに関する経験だとしたら、苦が無い時も、その何かの多少に応じて快適の強度は変わるだろうが、実際にはより快適な状態はあり得ない。正の定数を乗じても変わらないのは零だけであり、零なのは苦である。

 

他方で、快感の強度には際限がない。しかし、いくら強い快感でも、長続きすることはなく、むしろ強度に反比例して期間が短くなるのが経験の示すところである。(例えば、エクスタシーや、性的なオルガズムはほんの一瞬である)

また快感はその種類に応じて、美食欲、性欲等の諸々の欲望が満たすが、欲には満たされる限度があり、満たす欲望がなくなっては快感はほとんど得られなくなる

 

以上が示唆するのは、快感が欲の充足に過ぎないということである。欲の充足は快感の単なる結果ではなく、それなくして快感があり得ないほど、快感と一体なのである。また快感の強度に際限がないのは、(限りある)欲の充足という変化の速さに比例するからであり、これは快感の強度と期間が反比例するという事実を説明する。

ところで、欲が充足されていない状態は、不満や欠乏という苦そのものである。したがって快感は苦の減衰と言い換えることもでき、やはり快適と同様に消極的な経験である。

 

さて、快適については、苦を含めて経験の全く無い死んだ状態に対する本源的な願望を持つ理由が無いのと同様、生きて苦の無い経験をすることを望む理由はどこにもない

また、快感は苦の減衰なので、苦の存在を前提とする。ちょうど、苦を我慢した分が快感として返済されるがごとく、全体としては何の得もしていないのである。従って、快感に満ちた生を望む理由も無いだろう。

 

さらにエピクロス主義に関して言えば、当のエピクロス本人も、快を身体の苦痛や精神の動揺無き事として、消極的に定義している。一般的にも、エピクロス主義としても、快楽が生存する理由にはならず、逆に生存しているからこそ快楽が必要でしかないのである。

 

それでは、苦はどうだろうか。苦は、生存を忌避する理由になりうるか、それとも生存すると決まっている限り、苦をできるだけ避けるに過ぎないのだろうか。

もし、苦も何かの不在に伴う消極的な経験だとしたら、快楽と同様に後者が成立し、生存しても悲惨な苦しか待ち受けていないエピクロス主義者が、生存そのものを忌避する願望を持つ理由がなくなってしまう。

 

しかし、苦は快楽と異なり、何かの存在に伴う積極的な経験である。苦の強度には際限がないし、強い苦は強い快感と異なり持続する。

一見、苦は欲したり必要とするものが無いことに伴う消極的な経験であるように思われるかもしれない。だが、そもそも何かが無いことが苦となるのは、その何かに対する欲望が在り、そして己が飢えた者として在るからである。苦の経験は、それを十分に満たすものが存在しないような欲望が、存在することによるのである。

(対して、無欲な人でも快(適)を享受できる。)

例えば、小児性愛者は、犯罪となる欲の充足が事実上不可能であることよりも、己の欲望に苦しんでいる。彼は出来るならば、相手を傷つける罪を犯さずには充たせない欲の除去されることを切実に願っているだろう。

 

快楽は消極的なのに対して苦は積極的である、ゆえに、快楽のために敢えて生存することを願う理由はないのに対して、苦を避けるために生存することも避けることを願うのは不自然ではないのである。

エピクロス主義者は死のタイミングに対してどういう願望を持つか(7/17修正)

エピクロス主義者は、死が経験できる出来事ではないがゆえに、死に対して中立、つまり避けることも欲することもないのであった。

 

ただ、死は我々がいかなる選択をしようと遅かれ早かれ必ず訪れる。彼らはこの不可避な運命に対する恐怖心、もしくはそれを生み出す誤謬を哲学的考察により解消することに主眼を置いたのだろうが、果たして我々の選択が及びうる問題、つまり死がより早くもしくはより遅く訪れる(より長くもしくは短く生存する)ことに対して、彼らは一体どういう態度を取るのだろうか。

 

私は、エピクロス主義者を「α:生きている間に起きる、ないしは経験できる出来事のみを選好の対象とする」人々と定義した。

しかし、より長く生存することそのものは、経験される出来事ではない。そもそも、ちょうど水を入れる器のように、生存は出来事を経験出来るための前提条件なのであり、それ自体が経験をなすわけではないからである。

従って、彼らは、いつまで生きるかについて特段の本源的な望みを持ちはしない。

ここで「本源的」と言ったのは、生存することが、その結果とは独立に望ましくも望ましくなくも無いという意味である。これは、生存の結果生じる(生きている間の)出来事を望むが故に、その手段として生存を望む、派生的な願望と区別される。

 

では、彼らは生存する期間について派生的な願望を持ちうるだろうか。

もし持ちうるのだとしたら、その願望の根源は、生存することである出来事を経験する願望、もしくは生存しないことである出来事の経験を避けたいという願望にあるだろう。なぜなら、ある出来事に対する願望が派生するのは、その結果に対する願望からであり、エピクロス主義者が考慮する生存の結果は、生きて経験出来ることに限られるからである。

つまり、彼らがより長く生存することを派生的に望むとしたら

①:生存してある種の(言うまでもなく、快い)経験をすることを本源的に望んでいるからであり、

逆に彼らがより短く生存することを望む場合

②:生存して苦しい経験をすることを本源的に忌避しているからである。

 

さて、私がαとして特徴づけたエピクロス主義者たちは願望①、②を持たない。なぜなら、経験する出来事の「選好」は生きて経験する出来事の間に成り立つものであり、生きて経験する善い出来事と、経験できる出来事が無く、好みを持つことすら出来ない死んだ状態との間にそもそも選好の比較が成り立たないからである。しかし、①はともかく②を持たない、つまりどんなつらい苦境が待ち受けていても、生き続けたくないとする(派生的な)願望を持たない人は、極めて稀にしかいないだろう。

私はその類の人々に少なくとも該当はしないし、興味も持たない。私が与えたαの「選好」による特徴づけは限定的に過ぎたようである。

 

エピクロス主義者の定義を見直すとすれば、相対的な比較を絶対的な価値判断に変えればいいだけの話だ。「β:生きている間に起きる、ないしは経験できる出来事のみを肯定もしくは否定の対象とする」人々と定義する。

βのエピクロス主義者がもし生き続けても、酷く苦しい出来事しか待っていないとしよう。彼は生き続けない場合との比較(選好)によらず、生き続けた場合の悲惨な経験に対する絶対的な否定から、生存を忌避する願望を持つ。対して、すぐ死ぬことに対しては、それ自体としても、それがもたらす結果(何も起きないこと)からも、忌避または希求する願望は生まれないから、生存を忌避する派生的願望②だけが残るのである。

(なお、βもαと同様、長く生きることそれ自体は経験ではないがゆえに、本源的願望は持ちえない)

 

逆に、もし生き続けた場合に生が幸せな出来事で充たされることが保証されている場合も、その快楽を経験することが積極的に望まれる場合(7/17追記)、βのエピクロス主義者は同様の理由から派生的願望①を持つと思われる。

 

ただし、前者と後者の場合で非対称な点が一つだけある。

もし前者の場合で、生存を忌避する願いがあるにも関わらず、その願いがかなえられなかったら、つまり自殺の手段を奪われる等して生き続けることを強いられれば、彼には、願いがかなえられない害悪のみならず、生き続けて悲惨な経験をする害悪が降りかかる。

対して後者の場合、彼の願いに反して、より長く生存できなかったとしても、彼は願いがかなえられなかったのを残念に思うだけで(これも一応害悪ではある)、早く死んでしまった後に、死ななければ経験できた素晴らしい出来事に対する機会損失に苦しまなくていいのである。

以上より、βのエピクロス主義者は、より長い生よりもより早い死に寛容であると言える。