否定について

我々は、よく否定という言葉を口にする。自己や現状の否定だとか、否定的(ネガティブ)だとかよく言われることがあるが、そもそも否定とはどういう意味なのだろうか。
否定の原義は、ある命題が真でない、つまり偽であると主張することである。地球が平たいという命題を否定するとは、地球が平たくないと主張することに等しいし、うわさを否定するとは噂の内容が事実と異なると主張することである。
しかし、否定的に評価するだとか、ネガティブな性格等という場合、否定の意味は少し違ってくる。ある事態を否定的に評価するとは、それが事実ではないと主張することではない。むしろその事態が事実であることを認めつつ、そうあってはならないと主張することが、否定的な評価の意味である。
ある人がネガティブな性格であるというのも、全ての命題に対して偽ではあるまいかと疑いにかかる懐疑主義のことではなく、あらゆることに対して、そのありのままを認識しつつも否定的な評価を下す態度の事である。

ここでいう否定は、「~ではない」という論理的な否定とは異なる意味のもので、どちらかというと「~であってはならない」とする倫理的な意味合いの強い態度であるといえる。その倫理的な性格から、否定は悪しとする価値判断を帯びる。「~であってはならない」と考える人は、その事態を悪いものだと評価し、その事態が無くなることを望む。
逆に、肯定にも、ある命題を真だと認める論理的な意味もあれば、倫理的な意味もある。否定が「~であってはならない」とする態度ならば、肯定は「~であってもよい」、もしくは「~であってよかった」とする是認の態度だろう。何らかの事態を肯定することは、それが善い、もしくは悪くはないとする価値判断を含意するのである。


ただ、善悪といっても、絶対的に善い/悪いのか、何か他の事態に比べて相対的に善い/悪いのか、二つの意味があるだろう。絶望や苦悩に喘ぐ事態は、マシな事態を引き合いに出すまでもなく端的に悪いのに対して、平凡な食事をしているという事態は、ご馳走にありつける事態と比較して悪いに過ぎない。このような悪の意味の違いに応じて、否定にも絶対否定と、相対的に過ぎない否定がある。

うち、後者の相対的な否定は、場合によっては肯定的ですらある。今の食事が贅沢なご馳走に比べて悪いということは、現状を改善できる可能性が残されているということである。もし、今の質素な食事を否定するだけではなく、料理の手間をかけるなど、否定から逃れる(改善の)ための努力を伴うならば、それは現状改善のきっかけでありむしろ望ましいものである。
対して、前者の否定はどこまでも憂鬱である。後者のように改善の可能性が意識されなければ、現状の劣悪さ、煩わしさは希望を削ぐばかりであり、終いには「こんなにひどい現実は改善するに値しない」という更なる否定にもつながってしまうだろう。

肯定も同様である。相対的な現状肯定は、現状を他の事態に対して望ましいとする現状満足に他ならない。この態度が行き過ぎると改善がなされなくなるだろう。対して絶対的な肯定は、「このように素晴らしい現実に生きていてよかった」とする現実に対する感謝や愛とでもいうべきもので、幸福の源泉ですらある。

 

ここで注意すべき点がある。
①否定することは、それ自体不快で残念なことである。例えば、もっと美味しい料理があるのに…と思いながら食事をしようならば食事の美味しさが失われるだろうし、より幸福に見える他人と自分を比較するのは、それ自体が不幸の原因である。
逆に、人の不幸で慰めを得る人のように、自分の現状が他と比較してマシであるとする肯定は、それ自体が幸せの足しになる。

②絶対的な肯定と相対的な否定とは両立する。それはつまり、現状は素晴らしくとも、なお改善の余地があると考えることであり、現実が愛せるほど素晴らしいから、さらに良くしようとする好循環である。この、肯定をベースとした部分的な否定の態度が、幸せに生きるのに最も適した実践的態度といえる。逆に、現状が他に比べれば最もマシだと考えながら、それでも不満を抱く人は、救われようのない不幸の人だろう。

③相対的な否定や肯定は、事態の良し悪しの問題であるのに対して、絶対的な否定や肯定は、どちらかというとその人の態度の問題である。例えば、誰でも、最低限度の衣食住が賄える暮らしよりも、贅沢な暮らしが出来るほうが良いゆえ、前者を相対的に悪いものだと否定するだろう。対して、否定的な人は最低限の暮らしでは満足せず不幸に感じるのに対して、肯定的な人であれば前者のような暮らしでも感謝して遅れることだろう。まさに、コップに水が半分しか入っていないのか、半分も入っていると捉えるかのごとき違いである。

 

②で言ったように、原則として肯定的な態度を保てる人が最も幸福である。にもかかわらず、ネガティブな人が数多くいるのはなぜだろうか。


まず、彼らがそもそも幸福を追求していないという理由が考えられる。「不幸であるにも関わらず」強く生きることに意義を見出す人、生を呪詛する人生に生きがいを感じている人等様々な人がいるだろう。彼らの生き方は確かに面白いが、大変であるばかりか自己憐憫の気も感じられ、少なくとも私には魅力的ではない。

その他の、幸せになりたいのにネガティブな人は、③で述べた通り性格や気質に負うところが大きいだろう。だが、そればかりではなく、以下に述べる「無用な比較」により現状を否定している人が多いのではないかと思う。


相対的な否定は改善につながればむしろポジティブなものであることは述べたが、もし改善のしようがなければ①で述べた通り、それ自体がネガティブな感情の原因になる。「無用な比較」とは、改善につながらない、不可能な空想と現状の比較である。
例えば、遺伝的に身長が低いなど、変えようの無い身体的なコンプレックスがそれである。彼は、自身の身長が低いという現状を、背が高い他人と比較して否定する。しかし、彼自身にとって、比較対象の事態、つまり彼が他人並みの身長になることは不可能であり、彼は現状を無理な理想と比較しているのである。解消が不可能もしくは困難なコンプレックスの大半は、こういった不可能な理想との無用な比較という形態を取る。

この類の否定的な感情は、無の否定と呼んで差し支えないと思う。背が低かったり、髪が薄かったり、恋人がいなかったり…これらは、それ自体としてはなんら苦痛を生み出さ「ないこと」である。にも関わらず、背が高く、髪がふさふさで恋人がいる…というような「有ること」と比較されることで否定され、苦悩が生み出されるのである。

食料や水が無い結果としての飢えや渇きは、確かに有る感覚であり、これらを否定することは理に適っている。しかし、そもそも何の苦しみも伴わないことを、否定する理由はどこにあるだろうか。無の否定とは一種の迷いであり、この迷いゆえネガティブな劣等感を自ら作り出してしまっているのである。

我々はいかにこの迷いから自由になれるだろうか。それは、何かが無い現状を、有る理想と比較するのをやめなければ達成できない。ではそもそも、なぜ我々は現状を実現できもしない理想と比較するのだろうか。それは、実現不可能性の認識が確固としていないからである。
我々はしばしば、世の大多数が手にしているものを自分が持ちえないことに対して劣等感を感じる。しかし例えば、我々は大富豪の贅沢と己を比較して、富に恵まれぬ己自身に劣等感を抱きはしない、彼らが我々とあまりにかけ離れ、比較の範囲を超えていると感じるからである。前者の場合に劣等感を感じるのは、普通の人が手にしているものを、自分が手にしてもおかしくないとする錯覚から、自分と普通の人とを(無意味にも関わらず)比較してしまうからだろう。

したがって、自分に無いものが、絶対に手に入れられないのだとする諦めを徹底することが、この迷いから抜け出る唯一の方法だろう。諦めというと一見否定的に聞こえるが、否定を克服するという肯定的な意義も備えているのである。

 

無の否定とは異なるが、過去に対する後悔のあまり、現実の過去や現在を否定するのも無用な比較の一種である。この場合も、現実とは異なる選択を過去に行った場合に実現されたであろう現在は、今の私が生きる現実と断絶されているという認識が甘いからこそ、盆に返った覆水を夢見て覆水を嘆くのである。

 

上記は少ない例に過ぎないが、否定的態度は迷妄や誤謬をしばしば原因とする。したがって、現実の必然性と可能性をありのままに正しく認識することが、その克服につながり、幸福に生きることに大いに資するのである。

私はなぜ、そして何を「考える」か

私は一般的に無益と思われることをよく考える。一般的に皆が考えるのは、仕事や生活のどちらかを問わず、日常を要領よく生きるためには何をすればいいか、つまり「どのように」(how)の問題である。しかし、どのように行うかを問う前提となるのがなぜ行うのか(why)の問題であり、さらにはそもそもなんであるか(what)の問題がすべての前提となる。私は世間の人々はhowの問題にとらわれるあまり、残り二つのwhyやwhatの問題がおざなりになっているのではないかと常日ごろ考えるところである。
 例えば、仕事をするにしても皆は、どうすれば仕事がうまく行くかに関心があるようだが、この問いは仕事を行うことを前提としている。「現状では」個人的に仕事をせざるをえないとしても、とりわけ現代的な形態で人間が仕事を行うのは自明ではない。それゆえに、そもそも、なぜ仕事をしなければならないのかに興味を持つのである。それにこたえるためには、さらに、仕事、とくに近代的な賃労働がいかなるものかが問われねばならない。
 ではなぜ、「なぜ」を問うべきのだろうか。それは、「どのように」が前提とすること、仕事の例で言えば、「仕事をする」という前提が必ずしも正しくないからである。例えば、ブラック労働や過労死の例を挙げるまでもなく、仕事をすることが常に善い事とは限らない。また、AIやロボット技術の発展によって、供給を賄うための労働の必要性も薄れているのである。もし、仕事をすることが悪いことだったら、不必要なことであれば、「どうすれば仕事がうまくいくか」のみを考え仕事を続けることは、要領が良いどころか、全く良いことではないだろう。
このように、日常で問われる「どのように行うか」という問いは、「行うこと」をすでに前提しているのであるから、この前提を吟味しないでは、せっかく要領よく生きるために問うた「どのように」に対する解が、かえって人生を損ねてしまう恐れがあるのである。
私が行う「考えること」とは、以上のように通念に潜む前提を吟味することである。それが結果的に「なぜ」や「なんであるか」という問いの形態をとるのである。

【論文要約】(人生の意味について)

以下は、Richard Taylor の論文 『The Meaning of Life』を私なりに要約したものである。

 

人生の意味について直接考えるのは困難である以上、無意味について考える方が容易いだろう。
その典型がシジフォスの岩転がしという神話である。
彼は神々を裏切り、次を永遠に繰り返すように罰せられた。
・岩を丘のてっぺんまで転がし、直後に岩が転げ落ちたのを、再び丘の上まで転がす

 

これを要素に分解すると次のとおりである。
不本意ながらも
②多大な労力を払い
岩を丘の頂上まで転がす。
③しかし、その後すぐ岩が落ちて元通りになり
④以上同じことを永遠に繰り返さないといけない。

 

シジフォスの岩転がしを無意味にしているのは、①~④のどれだろうか。

まず、②や④は異なる。もし②や④が成り立たなかったとして、
転がすのが岩の代わりに石でも、異なる岩を次々と転がそうとも、
岩転がしが無意味であることにかわりはないからである。

では、③はどうだろうか。
もし、岩を丘の頂上まで転がした後も元通りにならず、岩がてっぺんに持ち上げられたという成果が残るならば、岩を転がすのにも一見意味があるように見える。これを客観的な意味と呼ぼう。

しかし、一度岩を上まで転がし、目的が達成されれば残るのは永遠の退屈のみである。③の不成立によりもたらされる客観的意味も、永続的ではないのである。

最後に①はどうだろうか。もし①が不成立で、岩を転がすこと自体に喜びを感じる非合理な欲求をシジフォスが持っていれば、彼のこの欲求が満たされるだけではなく、岩を転がし続けることに肯定的な使命感や意味を見出すことができるだろう。しかし、彼の行為に客観的な意味がないことには変わりがない。したがって、①の不成立にもたらされる意義は主観的な意味と呼んで区別すべきだろう。

では、一般に、我々人間の人生に認められる意味は主観的、客観的意味のどちらだろうか。

ある面では、我々人類の活動には客観的な意味が認められるように思える。例えば様々な文明の偉業、偉大な科学的発見や建造などが挙げられるだろう。しかし、これらは新しいものにとって代わられ時代遅れとなったり、物理的に摩耗してしまう。これらの客観的意味も、シジフォス同様一時的なものに過ぎないのではないか。

また、仮にこれら功績の偉大さが残るとしても、ある目標を達成しては、それが何もなかったように新しい目標に目移りするのを延々と繰り返す点において、次々と偉業が達成されることによる進歩も単なる見せかけであり、本質的には単なる繰り返しに過ぎないと言えるのではないだろうか。

以上の点で、我々の営みもシジフォスと酷似していると言える。

しかし、我々の営みを、「何が結果として実現されたか」という客観的な観点ではなく、「我々が何を意志し、何をすることに興味を持つか」という主観的な観点からとらえれば、そこには少なくとも主観的な意味は見出せる。

例えば、仮に古代の建造物を建てた人々が、現代においてそれが朽ち果てているのを見たとしても、彼らが建造するに際して見出した意味は損なわれないだろう。この意味は、何が建てられたかという結果ではなく、建物を自らの意志に従い建築するという活動の過程にあるからである。

同様に、人生全体も意志された活動であり、その意味は生きる過程の内にある。では生きること、意志することとは何だろうか。それは、次々と新しい目標、成果を達成しようと努めることである。
人生の意味は、達成した目標や成果そのものではなく、意志に従い目標や成果を達成しようとする過程の中にあるのだ。

 

(要約終わり)

 

(感想)

著者が人生が有すると主張する「主観的な意味」はそもそも意味と言っていいものなのだろうか。「言葉の意味」からの類比から、意味というのは常に外部との関係である。人生の意味が人生であるというのは、リンゴという言葉の意味が、まさに同じその言葉であるというがごとき、同語反復ではないのだろうか。

したがって、それは意味というも、端的な善だろう。つまり人生の意味が人生の内にあるのではなく、人生がそれ自体として(外部の何を引き合いに出すまでもなく)善いということである。

外部とのつながり、という原義に立ち返ってみれば、「客観的な意味」のほうが意味と呼ぶのにふさわしい。例えば、ピラミッドを作る労働の過程は、その意味である完成物のピラミッドとは別物だからである。

したがって、著者は本来の意味で人生が有意味であることは言えていない、むしろシジフォスの例におけるのと同様、無意味であることを示しているように思われる。

 

「主観的な意味」を意味を呼んで良いかを除けば、私は筆者に同意する。人生の「客観的な意味」は空虚である。

例えばピラミッドを作る労働者にとって、労働の意味が出来上がるピラミッドだとしても、そのピラミッドには何の意味があるだろうか。それは所詮ファラオの自己満足にしかならず、たいした意味を持ちはしない。そうなると、無意味なピラミッドに費やされた労働者の労働の意味も空虚になるのではないか。

自らの労働だけを見るならば、それに意味があるように見えるかもしれないが、一たび俯瞰視して労働の成果物たるピラミッドの意味を考えるやいなや、意味は消失してしまうのである。意味はこのように、より俯瞰的な観点に立ち、意味を考える主語を広げるに従い消失してしまうものである。

 

経験について

私が経験という言葉で言い表すのは、一般に心、もしくは精神と呼ばれる場で生じる全ての出来事である。

知覚はもちろん、認識、想像、感情、思考などの精神的活動、およびこれらの対象(客観、イメージ、好き嫌い、命題、言葉)全てが経験というカテゴリーに入る。

しかし、本当に全てが経験なのかというと、そうではない。もしそうだとすれば、この言葉は無限定で無意味な概念になってしまうだろう。

 

それではなにが経験に該当しないか。
①たとえば、(概念ではなく、それが表象する対象としての)が挙げられる。我々は、神という言葉を使って意味のある言明が出来るし、神に対するおぼろげな観念も持っている。だから、概念、もしくは観念としての神は経験に含まれる。しかし、神という言葉、概念の指示対象には、われわれが知覚したり、認識するものの如何なる対象も該当しない。要するに、神は、(自然界に実在するモノとは異なり)概念や観念として経験されるに過ぎないのである。

②(自分とまったく同様に、心や意識を持った存在としての)他人や、その他人の経験する内容も、経験には含まれない。確かに我々は他人が身体として言動を起こす様は知覚できるし、他人の発する言葉を理解することもできる。しかし、他人が感じたり、考えることをそのまま知ることはできないし、そのような精神活動の主体としての他人そのものも認識できない
われわれが(意識を持った)他人が存在するという場合、それはあくまで、他人と同様に身体として言動を起こす自分自身が、意識を持っているという事実からの類推に他ならないし(この類推が合理性を欠くとはいえ)、他人が経験する内容を知っていると言う場合、それもあくまで、他人の発する言葉と自分の経験を照らし合わせることによる想像に過ぎない。
つまり、他人や他人の経験も、想像や思考の上の措定物としてしか経験されない

物自体=経験から独立した(経験されずとも在る)存在も、定義から知覚や認識できないものなので、経験不可能なものである。ただし、この場合も「物自体」という言葉や概念を用いて思考することは(認識内容を欠いた概念を用いる思考に如何ほどの有用性があるかどうかはともかく)可能である以上、「物自体」という概念は経験に含まれる。

 

以上のような、経験不可能な存在を、「超越物」と定義しよう。
注意すべきは、我々は超越物を直接経験することはできないが、(超越物を指すかのごとく用いられる)概念や、(超越物を表象するかのごとく想定される)観念を、一つの経験として構成することはできることだ。前者を構成することを措定、後者を構成することを想像と呼ぶことにし、前者の構成物を措定物、後者の構成物を想像と呼ぶことにする。

これら措定物や想像は、実在物(知覚できる対象など)の概念や観念と異なり、表象という機能を欠いている。なぜなら、それらが指す対象は、経験のどこを探してもないからだ。しかし、それらはあたかも何かの対象を意味するかのように扱われることで、特定の「機能」を持つ。「意識を持った他人」という措定は、他人を単なる身体として道具扱いせず、自分と同じ人格として道徳的に尊重する基礎となるし、「神」という措定も、戒律を守らせる規範的な機能を持つ。言うまでもないが、何かの対象を表象するだけが、概念や観念の機能ではないのである。

 

さて、ここで私の立場を明らかにしよう。まず、経験が存在する全てであり、経験以外のものは、存在するとも存在しないともいえない。それらは、存在概念と無縁の対象である。
また、経験に機能のバリエーションはあれど、「どれが本物でどれが虚構」というように差別をせず、あらゆる経験に等しく存在資格を認める、とする立場であり、私はそれを経験主義と呼ぶことにする。

得体の知れない超越物の措定や想像に、直接的な知覚対象や、存在証明のある対象と同等の実在性を認める経験主義は、寛容であると同時に、矛盾がない限り「何でもあり」の立場である。なぜなら、措定物は知覚や認識とは別につくられたものだから、その存在を実証や論証できないだけではなく、反証も論駁もできないからである。
例えば、超越物を措定するような哲学や神を措定する宗教でさえ、それら超越物があくまで措定であって知覚や認識の対象でないことに自覚的である限りは、経験主義と矛盾することはない。
経験主義はあくまでも多種多様な経験のカテゴライズを正しく行い、在りもしない経験やカテゴリーの錯誤を排除しようとする姿勢に過ぎず、特定の主張を支持、もしくは否定するものではないのである。

 

反出生主義の擁護

私の反出生主義について - Silentterroristの日記

前回は、私の主観の延長として反出生主義を提示したに過ぎない。したがって、この客観的な妥当性に関してはなんも説明がなされていない。一般に道徳は、常識や、実際の道徳的実践と一致するとは限らないが、もし常識や実際の道徳的実践に反する場合はその説明が必要だろう。この記事では、私の反出生主義の主張の一部が、常識や実際の道徳的実践とも整合していることを示す

 

①私の反出生主義

私の立場は以下の通りである。うち、Ⅲ.は明らかに皆の認めるところだろう。対してⅣ.は一般的には同意を得るのが容易ではない。そこで、Ⅰ,Ⅱの常識や実際の道徳的実践との整合を示す。

 

Ⅰ.Ⅱを除き、子供が実際に生まれることは、道徳的に望ましくも、悪くもない。

Ⅱ.ただ、子供が生まれるならばある水準以上に不幸になる場合、彼がそもそも生まれないことが道徳的に望ましいような、一定水準が存在する。

Ⅲ.もし子供が生まれる場合は、彼が極力幸福になることが道徳的に望ましい

Ⅳ.Ⅱ.の「一定水準の不幸」とは、「自分が生まれた(生存した)ことは悪いことだった」とする出生(生存)に対する否定である。

 

②Ⅱの正当化

Ⅱ.はそのままでも支持を得られるだろうが、次のより容易に受け入れられる主張からⅡ.を示すことができる。

2.生き続けてもある水準以上に不幸になる場合、そもそも生き続けないことが本人にとって、そして道徳的に望ましいような、一定水準が存在する。

この主張は、臨床医療の現場でしばしば認められるところである。ある種の極端な不幸、例えば生き続けても苦しむだけで何もできないような状況に対しては、そもそも人生を継続しないほうが本人にとって良いとされることがしばしばある。

子供が生まれることは、子供が一定期間生き続けることを含意するし、そもそも生まれる過程自体が段階的に高度化する生存過程である。もし子供が重度の障がい等により、生まれつき2.のような不幸を経験することが決まっているとしたら、少しでも生き続けてはならないだろう。しかし子供が生まれてしまう以上は、これが不可能であるから、彼がそもそも生まれてしまうことが、道徳的にあってはならないことなのである。

 

③ⅠおよびⅢの擁護

Ⅰ.については、直接的な正当化は不可能ではあるが、一般的な道徳的実践に反していないことをもって擁護したい。

Ⅰ.に対する反対意見は次のとおりである。
1.幸福な子供が生まれることは、生まれない場合に比べて道徳的に望ましい

例えば、もし、あるカップルに子供が生まれれば幸せになるであろう可能性が高いとする。そんな中で子供を生むと決めたカップルの理由付けを、1とⅠのどちらがが妥当に説明するだろうか。

このカップルの場合、子供を産めばその子供は幸福になるであろうことがわかっている。1は、幸福な子供が生まれるであろうことが、道徳的に望ましいと主張している。したがって、1.によれば、幸福な子供が生まれるであろうことが、このカップルが子供を生むべき道徳的な理由の一つになるということになる。

だが、彼らは実際には、生まれる子供が幸福になるであろうことが道徳的に望ましいから、子供を生むべきとは考えない。逆に、子供を生みたいと考えるから、生まれる子供が幸福になることが道徳的に望ましいと考えるのである。

つまり、1.が仮に正しいのだとしても、それは道徳規範や理由として全く機能していないと言える。

対して、ⅠはⅢとともに上の動機および理由づけを説明する。Ⅰによれば、幸せな子供が生まれるであろうことは、生まれないことに比べて道徳的に望ましくも悪くもないゆえに、実際に子供を生むための道徳的理由にはならない。子供を生む道徳的理由はなく、生みたいだけなのである。

そして、子供を生みたいと考え、生まれる可能性が高くなってこそ、Ⅲより子供が幸福になることが道徳的にも望ましくなるのである。

したがって、上記の例は、1よりもⅠおよびⅢが一般的な道徳的実践に合致していることを示している

私の反出生主義について

私は次の態度を取ることにおいて反出生主義者である。

・子供が生まれることは、生まれないことに比べて(子供自身にとってではなく)道徳的に悪い

しかも、この態度は、私が下の記事で定義した(私自身の)エピクロス主義の延長なのである。

エピクロス主義者の願望はいかなる意味で生存に条件づけられているか。私の場合は。 - Silentterroristの日記

この記事では、この反出生主義がどのようにエピクロス主義の延長として帰結するか、そして私の反出生主義の内容の一部について述べたい。

 

まず、道徳は一般に、将来の自分に対する思慮の延長であることを説明する。

これは、将来の自分は、他人もより近いものの、(今の)自分にとっての他者であることに変わらず、他人と(今の)自分の中間に位置する存在だからである。

他者とは、自分と同様に経験が展開される場であり、しかも自分は、その他者という場も他者の経験も、決して経験できないところのものである。私は他人として経験することはできないし、他人が経験したことも決して知りえない。したがって他人は他者である。

将来の自分も、彼の経験が展開される場は今の自分とは隔絶されている。というのも、今の私にとって将来の私の経験は、やはり現時点での想像、すなわち今の私の経験の形態を取らざるを得ないし、将来の私も今の私の経験を将来時点での記憶として、将来のものとしてのみ経験できるからである。したがって、将来の自分も他者であることには変わりがない。

ただ、それにも関わらず、我々は現在の自分と将来の自分を括る共通の自己を措定し、あたかも時間を通じて同一の経験主体があるかのごとく考えがちである。この傾向がなぜ生じるかについては、例えば進化的な適応性等、いくつも理由があげられるだろうが、他人に比べ将来の自分を近しい他者であると我々が考えることは確かである。

したがって、将来の自分に対する思慮は、利己的態度と、他人の尊重を本質とする道徳的態度の中間をなすものであり(道徳の発達理論が示すところである)、将来の自分の利害を考慮するのと同様に、他人の利害を考慮する態度こそが道徳である

 

では、本題に戻り、私が定義したエピクロス主義の延長として反出生主義が導かれることを示す。

私は自分自身がとるエピクロス主義を、次の通り定義した。

1.2.を除き死ぬこと、生き続けることのいずれもより望みはしない。
2.ただ、あまりにも将来が過酷なら生き続けない方がいい。
3.もし生き続けるならば、出来るだけ善く生きたほうが良い。

 

これらは以下のように言い換えられる。

① ②を除き、将来の自分が存在することは、望みも忌避もしない。

②ただ、将来の自分がある程度以上の不幸を被ることになる場合、彼がそもそも存在しないことを望む

③将来の自分が存在することになる場合、彼が極力幸福であることを望む

(幸福とは、より多くの善を享受でき、悪を避けられることである)

 

ここで、将来の自分を、他人、とくに生まれるかもしれない子供に置き換えると以下のとおりである。

Ⅰ.Ⅱを除き、子供が実際に生まれることは、道徳的に望ましくも、悪くもない

Ⅱ.ただ、子供が生まれるならば一定水準以上に不幸になる場合、彼がそもそも生まれないことが道徳的に望ましい

Ⅲ.もし子供が生まれる場合は、彼が極力幸福になることが道徳的に望ましい

 

Ⅰ~Ⅲを総合すると、あらゆる可能性を考慮する場合、子供が生まれないほうが道徳的に望ましいという(私の)反出生主義の主張が導かれる。

なぜなら、子供が幸福になる可能性があろうとも、Ⅰ.よりその子供が生まれることは道徳的に望ましくはない。対して、子供が一定水準以上に不幸になる場合、Ⅱ.より子供が生まれないほうが道徳的に望ましいからである。後者の可能性が少しでもある以上、子供が生まれない方が道徳的に望ましい。

 

※なお、(私の)エピクロス主義についても同様に、将来の自分が極度な不幸に陥る可能性が否定しきれないため、私は将来の私自身が存在しないことを僅かであれ願うだろう。しかし、生まないだけで済む反出生主義とはことなり、エピクロス主義の場合は自殺という多大なコストを払わないといけない。そのためやむなく生きているのである。

これはエピクロス本人の態度とは異なる。彼は否定の態度を持たず、生きることを、必要でも避けるべきでも無い快として捉えていたようである。

 

以上のとおり、生まれることになる子供に対する(私の)反出生主義は、将来の私自身に対する(私の)エピクロス主義の延長なのである

 

しかし、Ⅰ~Ⅲの特徴づけはあまりにも形式的で、内容を欠いている。善悪については以前に定義したものの、Ⅱの「一定水準の不幸」については説明が必要だろう。

私は、この不幸を「自分が生まれた(生存した)ことは悪いことだった(※)」とする出生(生存)に対する否定に限りたいと思う。少なくとも、己が生まれたことに対して否定を行う人に対する最大の尊重は、(否定的な判断そのものを否定し、肯定を押し付けるのではなく)その人が生まれる(た)ことを道徳的な悪として忌避する、もしくは痛ましく思うことにあるだろう。ただ、すでに生まれてしまった人に対しては、その人が生まれたのも悪くないと自発的に思えるように、出来る限りの協力をするに越したことはない。しかし、これは出生を痛ましく思うことと矛盾しないのである。

※この態度はしばしば「生まれない方がよかった」という表現で表明される。しかし、生まれた当人にとって、生まれて不幸になった経験を、そもそも生まれなかったという非経験と比較するのは不可能であるとするのが私の立場である。上の表明を行う人は、生まれなかったという非経験を無、つまり肯定も否定も一切ないニュートラルの基準として、生まれて不幸になった経験を否定しているのだから、彼は、正確には「生まれたことは悪いことだった」という絶対的な否定を行っているのである。

 

より過酷な状況下にある人は、上のような出生否定を行う余裕すらないかもしれない。もし仮に精神的な余裕が生じた場合、出生否定を行うである人の不幸もこの「一定水準の不幸」には含めたい。

しかし、苦しみながらも、己の存在には決して否定的ではない人々の不幸は、出生を道徳的に望ましくないとする理由にはならないだろう。彼が、出生を肯定もしくは是認する以上は、彼を尊重する人が、彼が生まれたことを痛ましいと考える理由も全くないのである。

したがって、ある人の出生を道徳的に否定する理由になる「不幸」としては、その人が自身の出生を否定するという不幸を除いて存在しないのである。

 

以上で述べた、子供の結果的な「不幸」を理由に出生を道徳的な悪とする主張は、私の反出生主義の主張の一部をなすに過ぎない。私は最終的な結論として、「子供を生むことは不正である」と主張したいと考えているが、今回の主張は最も基本的であれ、数ある根拠のうち一つでしかない。他の根拠については後日述べたいと思う。

道徳について

今回の記事は何の要旨も持たない。ただ、道徳について考えをまとめるために、言葉に記すことにする。書きたいことを赴くがままに欠いたので、まとまりの無さは容赦いただきたい。

 

まず、道徳を定義するために次の問題を考える。利己的な態度と道徳的な態度を分かつものは何だろうか。
子供のころは、道徳指導として、よく他人のことを考えなさいと言われた。これは他人の立場から見た善し悪しを考慮して行動しろ、という意味であるが、これは道徳的に振る舞うための必要条件ではあれ十分条件ではない。
というのも、他人にとっての利害を知ることは、利己主義を徹底するためにも有用だからである。自分の利益は、他人が状況に応じてどう行動するかに大きく左右される。そこで、賢明な利己主義者は、他人の利害を計算のための情報として用い、より正確な利害計算を行おうと試みるだろう。彼は確かに他人の利害を考えてはいるが、考えたことをあくまで自分のことを考えるための手段、情報としている過ぎず、目的として扱っていないのである。
もし、彼が他人にとっての善悪を知るのみならず、自分にとっての善悪と同様、追求もしくは忌避の対象として、それで初めて彼は道徳的であるということが出来る。自らの善を追求して悪を避けることは、己が自由であろうとすることであった。同様に他人の善を追求して悪を避けることは、他人が自由になれるよう努めることである。したがって、他人を(自らの自由を実現する手段とみなすのではなく、)自分と同様に自由を追求する主体として尊重する、つまり他人の自由を願う態度こそが、道徳的である

道徳的なふるまいとは、万人にとっての善悪を自らの善悪とし、善が最大限、悪が最小限となるように行動することであり、道徳的善や悪とはそのために行うもしくは避ける必要のある行為を指す。

道徳はかくして、自他ともに万人を分け隔てなく尊重するという点において普遍的であり、誰が道徳的判断を下しても(情報が完全なら)結論が同じという点において客観的である。

 

※確かに現実に存在する道徳規範はしばしば、えこひいき、独善的や感情的の誹りを免れず、普遍性や客観性を備えていない。これは、道徳を論じる側の先入観で判断が歪められたり、事実判断や価値判断を行う際の情報の不足により、何が善いかについて誤った判断が下されるからである。
そもそも、一人一人の利害を把握し、計算すること(R.M.Hareにしたがい、これを批判的なレベルの道徳と呼ぶ)は、可能性としては考えることができても現実には全く不可能である。我々が出来ることと言えば、どの行為がどの結果に結びつくか因果関係をできるだけ正確に把握し、コミュニケーションを通じて各々の利害を極力分かり合うことで、道徳的判断を完全なものに近づけるくらいである。
また、この啓蒙と対話のプロセスですら、時間と思考力に非常に多くの思考力がなければ実現できないものである。したがって、当てはめるだけで即席の判断ができるよう、どういう場合になにをすべきかを命じる道徳規則が作られ、先に述べた完全な道徳的判断の代用とされるのである。(これを直感的レベルの道徳と呼ぶ)我々が普段道徳と呼ぶものは、この簡易的な規則のことである。

ともかく、普遍性・客観性とはかけ離れているという批判は、あくまで現実の不完全な道徳規範にあてはまるものであり、当為としての完全な道徳的判断については成り立たないのである。

 

しかし、以上に述べた道徳的なふるまいが、同時に(個人的な)善、つまり私個人が自由に生きるために有用な手段となるとは限らない。言うまでもなく、自他の立場が相違している以上、自他にとっての善悪も異なるからである。
もちろん、子供や親友の幸せを願う場合のように、道徳を持ち出すまでもなく他者を限定的に尊重することはある。だが、この尊重は、選択的な愛情に基づくものであり、ごく限定的なものに過ぎない。対して道徳は、万人を分け隔てなく、自分と同等に尊重することを命じるのである。
したがって、皆は実際には道徳的に振る舞おうとはしない。そのため、道徳は「~すべき」という規範性を持つのである。この規範性も道徳独特の特徴である。もし皆が完全に道徳的に振る舞う場合、食べ物を食べて水を飲め、と言うのが無意味なのと同様に、「~べき」と道徳が命じるまでもないだろう。現実には皆が道徳的に振る舞わないからこそ、道徳は当為として存在意義を持つのである。
この規範性ゆえに、道徳は各々の自由、本性に対する否定を伴う。道徳的言明に用いられる言辞はいずれも、「~すべき」、「~ねばらならい」、「~してはならない」と言うように、何かをする、もしくはしないことに対する否定である。反対に、道徳に「~すれば素晴らしい」というような肯定的言辞は一切登場しない。個人の自由に反して道徳にしたがわせるのには、道徳的な善の肯定では力不足であり、否定の力が必要だからである。したがって道徳はそれ自体としてみれば、己の自由の否定であり、それはすなわち悪である


では、そもそもなぜ、このように自由を損なう悪である道徳が、規範として存在しているのだろうか。一見、道徳は、無いほうがいい規範として望まれず、効力を持たないように思われる。
それは、私一人だけが道徳的に振る舞うことは私にとって悪いことだが、私を含め万人が道徳的に振る舞うことはほとんどの場合、総じて私にとっても善だからである。したがって、皆は、自他がともに道徳にふるまうことを、そして振る舞わせる規範的な力(制裁等)が存在することを望むのである。
例えば囚人のパラドックスにおいて、各々が自由に、非協力的な振る舞いをする場合、両者は非協力的な選択を行い、双方ともに損をするだろう。しかしもし、各々が全体最適が実現される協力的な行動(※)を取るように(事後制裁による脅しなどにより)強制されていれば、各々は協力的な行動を取り、この強制が無い場合に比べて得をする。

※一方が非協力的な選択を取ることによる利得が極めて大きい場合は一方が協力、他方が非協力的な選択を行い、のちに埋め合わせをするような合意がなされるだろう。

だが、突出した力を持つ者等、一方的に相手の利益を侵害できる立場にある人にとって道徳は(仮に皆が従うものであっても)自らを縛る足かせに過ぎず、皆が道徳に従うことが万人にとって善いことであるとは限らない。道徳が要請されるのは、皆のパワーバランスがある程度均衡していて、大半の人が害する側と害される側の両方になりうるからである。

 

では、道徳を守らせる規範的な力はどういうものだろうか。
この力の一つは、違反した場合の制裁に紐づく法律であったり、相互監視の形態を取る。これらは、非道徳的な振る舞いに制裁を与えられる環境を作ることで、個人的で利己的な善を、道徳的な善に近づけようとするものである。
ただし、制裁を以てしても、皆を道徳的に振る舞わせるには不十分である場合もある。例えば、自らの利益のため道徳的な悪行をはたらいたことを隠すに十分な怜悧さを持ち合わせた人にとって、制裁は無力だろう。したがって、彼らには利己心に訴える制裁とは別の規範的な力が必要とされる。
そのために、習慣付けや情緒等への訴えを通じて、環境ではなく個人を、道徳的に行動するように変えるのである。例えば、しつけや初等的な道徳教育は、自らの利益を多少損なおうとも道徳的に振る舞うことを、少年期のうちに習慣づけることを目的としたものである。また、犯罪や戦争の被害を受けた人、恵まれない人々の様子を仔細に報道するのは、彼らの立場を考慮するように、情に訴えるものだろう。

 

道徳は以上に述べた通り、有用かつ有効である。しかし、それがあくまで各々が、互いに害することなく個人的な善や自由を追求するための手段であることを忘れてはならない。もし道徳を目的化した場合、つまり道徳的善が、自分自身にとっての善であるかのように最優先に求めてしまうと、以下に述べる弊害がある
まず、道徳的判断の形式は不変であるが、その内容は状況に応じて変わるものである。先ほど述べた簡易的な道徳規則が以前は道徳的に妥当であったとしても、時代や社会が変わり、現状にそぐわなくなることも多い。この場合は、再度道徳的な議論を根気よく行い、新たな規則で置き換えるべきである。だが、もし規則に従うことが目的化している場合、時代錯誤の道徳規則が残ったままとなってしまう。(日本人によくありがちなバカげた話である。)
以上は直感的レベルの道徳規則についての話であるが、批判的レベルの完全な道徳を遵守するのも、善いこととは言えない。先にのべた通り、道徳は、他の人が従うという恩恵を除けば、あくまで不自由を強いる悪である。道徳的善は誰にとっての善でもない。「誰にとって」という自己中心性を排する点に、道徳の本質があるからである。しかし我々の生は自身の個体を確固たる中心としており、それゆえに道徳は生を根本的に否定するものである
したがって利害の中心を持たぬ、無人称的な善の追求は、極めて生気に欠けている。そこには個性というものが、私が私ゆえに追求するものが無いのである。