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私の反出生主義について

私は次の態度を取ることにおいて反出生主義者である。

・子供が生まれることは、生まれないことに比べて(子供自身にとってではなく)道徳的に悪い

しかも、この態度は、私が下の記事で定義した(私自身の)エピクロス主義の延長なのである。

エピクロス主義者の願望はいかなる意味で生存に条件づけられているか。私の場合は。 - Silentterroristの日記

この記事では、この反出生主義がどのようにエピクロス主義の延長として帰結するか、そして私の反出生主義の内容の一部について述べたい。

 

まず、道徳は一般に、将来の自分に対する思慮の延長であることを説明する。

これは、将来の自分は、他人もより近いものの、(今の)自分にとっての他者であることに変わらず、他人と(今の)自分の中間に位置する存在だからである。

他者とは、自分と同様に経験が展開される場であり、しかも自分は、その他者という場も他者の経験も、決して経験できないところのものである。私は他人として経験することはできないし、他人が経験したことも決して知りえない。したがって他人は他者である。

将来の自分も、彼の経験が展開される場は今の自分とは隔絶されている。というのも、今の私にとって将来の私の経験は、やはり現時点での想像、すなわち今の私の経験の形態を取らざるを得ないし、将来の私も今の私の経験を将来時点での記憶として、将来のものとしてのみ経験できるからである。したがって、将来の自分も他者であることには変わりがない。

ただ、それにも関わらず、我々は現在の自分と将来の自分を括る共通の自己を措定し、あたかも時間を通じて同一の経験主体があるかのごとく考えがちである。この傾向がなぜ生じるかについては、例えば進化的な適応性等、いくつも理由があげられるだろうが、他人に比べ将来の自分を近しい他者であると我々が考えることは確かである。

したがって、将来の自分に対する思慮は、利己的態度と、他人の尊重を本質とする道徳的態度の中間をなすものであり(道徳の発達理論が示すところである)、将来の自分の利害を考慮するのと同様に、他人の利害を考慮する態度こそが道徳である

 

では、本題に戻り、私が定義したエピクロス主義の延長として反出生主義が導かれることを示す。

私は自分自身がとるエピクロス主義を、次の通り定義した。

1.2.を除き死ぬこと、生き続けることのいずれもより望みはしない。
2.ただ、あまりにも将来が過酷なら生き続けない方がいい。
3.もし生き続けるならば、出来るだけ善く生きたほうが良い。

 

これらは以下のように言い換えられる。

① ②を除き、将来の自分が存在することは、望みも忌避もしない。

②ただ、将来の自分がある程度以上の不幸を被ることになる場合、彼がそもそも存在しないことを望む

③将来の自分が存在することになる場合、彼が極力幸福であることを望む

(幸福とは、より多くの善を享受でき、悪を避けられることである)

 

ここで、将来の自分を、他人、とくに生まれるかもしれない子供に置き換えると以下のとおりである。

Ⅰ.Ⅱを除き、子供が実際に生まれることは、道徳的に望ましくも、悪くもない

Ⅱ.ただ、子供が生まれるならば一定水準以上に不幸になる場合、彼がそもそも生まれないことが道徳的に望ましい

Ⅲ.もし子供が生まれる場合は、彼が極力幸福になることが道徳的に望ましい

 

Ⅰ~Ⅲを総合すると、あらゆる可能性を考慮する場合、子供が生まれないほうが道徳的に望ましいという(私の)反出生主義の主張が導かれる。

なぜなら、子供が幸福になる可能性があろうとも、Ⅰ.よりその子供が生まれることは道徳的に望ましくはない。対して、子供が一定水準以上に不幸になる場合、Ⅱ.より子供が生まれないほうが道徳的に望ましいからである。後者の可能性が少しでもある以上、子供が生まれない方が道徳的に望ましい。

 

※なお、(私の)エピクロス主義についても同様に、将来の自分が極度な不幸に陥る可能性が否定しきれないため、私は将来の私自身が存在しないことを僅かであれ願うだろう。しかし、生まないだけで済む反出生主義とはことなり、エピクロス主義の場合は自殺という多大なコストを払わないといけない。そのためやむなく生きているのである。

これはエピクロス本人の態度とは異なる。彼は否定の態度を持たず、生きることを、必要でも避けるべきでも無い快として捉えていたようである。

 

以上のとおり、生まれることになる子供に対する(私の)反出生主義は、将来の私自身に対する(私の)エピクロス主義の延長なのである

 

しかし、Ⅰ~Ⅲの特徴づけはあまりにも形式的で、内容を欠いている。善悪については以前に定義したものの、Ⅱの「一定水準の不幸」については説明が必要だろう。

私は、この不幸を「自分が生まれた(生存した)ことは悪いことだった(※)」とする出生(生存)に対する否定に限りたいと思う。少なくとも、己が生まれたことに対して否定を行う人に対する最大の尊重は、(否定的な判断そのものを否定し、肯定を押し付けるのではなく)その人が生まれる(た)ことを道徳的な悪として忌避する、もしくは痛ましく思うことにあるだろう。ただ、すでに生まれてしまった人に対しては、その人が生まれたのも悪くないと自発的に思えるように、出来る限りの協力をするに越したことはない。しかし、これは出生を痛ましく思うことと矛盾しないのである。

※この態度はしばしば「生まれない方がよかった」という表現で表明される。しかし、生まれた当人にとって、生まれて不幸になった経験を、そもそも生まれなかったという非経験と比較するのは不可能であるとするのが私の立場である。上の表明を行う人は、生まれなかったという非経験を無、つまり肯定も否定も一切ないニュートラルの基準として、生まれて不幸になった経験を否定しているのだから、彼は、正確には「生まれたことは悪いことだった」という絶対的な否定を行っているのである。

 

より過酷な状況下にある人は、上のような出生否定を行う余裕すらないかもしれない。もし仮に精神的な余裕が生じた場合、出生否定を行うである人の不幸もこの「一定水準の不幸」には含めたい。

しかし、苦しみながらも、己の存在には決して否定的ではない人々の不幸は、出生を道徳的に望ましくないとする理由にはならないだろう。彼が、出生を肯定もしくは是認する以上は、彼を尊重する人が、彼が生まれたことを痛ましいと考える理由も全くないのである。

したがって、ある人の出生を道徳的に否定する理由になる「不幸」としては、その人が自身の出生を否定するという不幸を除いて存在しないのである。

 

以上で述べた、子供の結果的な「不幸」を理由に出生を道徳的な悪とする主張は、私の反出生主義の主張の一部をなすに過ぎない。私は最終的な結論として、「子供を生むことは不正である」と主張したいと考えているが、今回の主張は最も基本的であれ、数ある根拠のうち一つでしかない。他の根拠については後日述べたいと思う。