幸福が何かを私はなぜ問うか

私は、私自身にとっての善や幸福は何かという問いに興味を持ち、さまざまな記事を書いてきた。この記事では、なぜそもそもこの問いに私が興味を持っているか説明をしたい。

まず、皆と同様に、私も善く幸福に生きたい。そして、皆は次に、どうすれば幸福に生きられるかを問題にする。例えば、進学や就職など人生の様々な選択肢について、幸福にもっとも資すると思われるものを選ぶのである。

 しかし、私はいつも、それは先走りすぎではないかと疑問と思うのである。そもそも、善や幸福が何であるかが不明確だったら、いかに善く幸福に生きられるかも決まらないのではないかと。例えば、A社に就職することがB社に就職するよりも大きい幸福につながるかを判断できるためは、それぞれの場合にどれだけ幸せになれるであろうかを見積もれなければいけないだろう。何が幸せかがわかっていないとこの見積もりそのものが出来るわけないだろうと。

だが、この私の疑問は以上に述べた理論的な見地からは正しいものの、幸福に生きたいという目的を達成しようとする実践的な立場からは正しくない。なぜなら、我々は幸福が何かを知らなくても、何が幸福を得るための手段であるかは知っているからである。例えば、待遇のいい会社に入れば、幸せになれる可能性が高いことをしっているのである。他にもお金、友情、愛、知識、趣味など幸福の手段を我々はあらかじめ知っており、この認識は、これら幸福の手段を幸福そのものと混同してしまうくらいに正確である。幸福に生きるには、そもそも幸福は何かを問うまでもなく、その手段と思われるものを追求するのが最も合理的なのである。

 

それでもなお、私が善や幸福は何かを問うのはなぜか、それは吟味された幸福を追求するのが私にあっているからである。吟味された幸福とは、その幸福が何であるか、私にとって本当に善いのか、なぜ善いのかが私自身に認識された幸福である。

ところで、私は自己として、つまりいろいろなことを欲求し行為しつつも、常にそのような自分自身の在り方を問い続ける実存として生きている。こういう自己として生きていること自体が、私のアイデンティティである。

このような私にとって、私がどういった善や幸福を追求しているかも、重要なアイデンティティであり、それ自体常に問い続けることは私のアイデンティティにとって相応しいのである。そして、それだけではなく、こうやって私にとっての善や幸福が何かを吟味する思考が、根本的で抽象的な問題について考えることが好きな私には快い。

したがって、私の幸福に関する快楽主義:

「私としての」幸福は、私にとって相応しいことに快楽を見出すことである

によれば、善や幸福が何かを吟味して得られる幸福は、「私として」はかなり幸福なことである。

私の幸福観について - 思考の断片

確かに、無為な思考に耽るより、社交なり、娯楽なり、他のことをしたほうが多くの快楽は得られるかもしれない。しかしそのような内省的でない快楽の価値は、上の快楽の価値には及ばないのである。

以上のように、私が、幸福を直接的に追求するよりも、幸福が何かを問うこと自体に幸福を見出すのは、私の実存主義的な幸福観によるものである。