私の幸福観について

この記事では、私自身がどのような幸福観を持ち、追求してるかを吟味していきたい。

 

1.幸福に関するアトミズム

まず、私は幸福についてアトミズムを取る。

  

(以下、命題の意味を太字で、数学的な定式化を斜体字で括弧書きするが、読むのは太字だけでよい。)

ATH:人生全体を通じた幸福は、各時点の瞬間的な幸福度の総和である。

 

「人生全体を通じた幸福Hは、人生の各時点tにおける幸福度Htの総和である。(H=∫Htdt)」

 

これに対して同意しない人もいるだろう。典型的な反論は次のとおりである。この反論は幸福の総和だけではなく、幸福の増減も重要ではないかという指摘である。

反論:生まれて死ぬまで徐々に幸福度があがる人生Uと、丁度線対称に、生まれて死ぬまで徐々に幸福度が下がる人生Dがあるとする。人生全体を通じた幸福は、前者Uのほうが後者Dよりも高いと考える人が多い。しかし幸福に関するアトミズムによれば、人生UとDの幸福は同じである。

 

これに対しては、次の通り反論したい。まず、次のいずれかが成り立つだろう。

①私が各時点tで、幸福が徐々に上がるまたは下がること自体に対して、さらに幸福や不幸を感じる場合

②全く感じない場合

①の場合、UとDは幸福度に関して対称ではなくなり、Uにおける幸福の総和は、Dの総和よりも大きくなるだろう。したがって幸福に関するアトミズムをとっても、人生全体を通じた幸福はUのほうがDよりも大きくなる。

次に②の場合、確かにUとDは幸福度に関して対称だろう。しかし、この場合人生全体を通じた幸福に関して、UのほうがDよりも上だと考える理由があるだろうか。徐々に幸せまたは不幸になること自体にどの時点においても幸福も不幸も感じないのであれば、幸福に関してどちらも同じではないだろうか。

ゆえに、①、②のいずれの場合でも、幸福に関するアトミズムは反駁されないのである。

 

2.態度快楽主義

では、幸福に関するアトム、つまり時点tにおける私の幸福度はどう決まるのだろうか。これに関して私は態度快楽主義を取る。

 

IAH:各時点の幸福度は、各時点の私が様々な事実に対して抱く快楽や苦痛の度合いを総和した値である。

 

「人生の時点tにおける幸福度Htは、時点tの私が持つ信念Wtによって、時点tの私が抱く快楽や苦痛の度合いPt(Wt)である。1.のATHと2.のIAHを合わせると、H=∫Pt(Wt)dtである。

・信念Wtとは、時点tで私が正しいと考える、過去から未来にわたる諸事実に対する確信である。私は、それぞれの事実が成立することに対して、そして事実が成立するという確信によって、快楽や苦痛を抱くのである。」

 

1.のATHと2.のIAHを合わせた幸福観を、 以後「幸福に関する快楽主義」と呼ぶことにする。

 

ここでいくつか注意したい。

・私が問題とする快楽や苦痛は態度的なもの、つまりある事実に対して抱く快楽または苦痛であり、感覚的な快楽や苦痛ではない。感覚はそれだけでは善悪ではなく、感覚を感じていることに対して快楽や苦痛を態度として抱いて初めて善悪なのである。この態度的な快楽や苦痛は非常に広範な概念である。私は、感覚だけではなく、自身の人生に対する全般的事実(例えば、1.のように、自分が次第に幸福や不幸になりつつあること)に対しても快楽や苦痛を抱くことが出来る。また、自己の在り様(アイデンティティ)に対する誇りや苦悩も、態度的快楽や苦痛の一種だと考えられるだろう。

 

・態度的な快楽や苦痛は、客観的な事実に対するものであるが、主観的な信念に依存するものである。例えば、周りに好かれることに対して私は快楽を見出すが、この快楽は周りから好かれると私に「確信」されることに対するものではなく、実際に周りに好かれることに対する快楽である。しかし、実際に好かれていようと好かれていまいと、私が好かれていると信じてさえいれば、この快楽に変わりはないのである。

 したがって、幸福に関する快楽主義は、主観的な心的状態で幸福が決まるとする、幸福に関するmental state theoryである。

(参考)生の善さは主観的な経験だけで決まるものか - 思考の断片

 

・対象のない快楽や苦痛にも善し悪しがあると反論されるかもしれない。しかしそれらを善きものたらしめているのは、やはりそれらの状態に対して抱く高次の態度的快楽や苦痛である。

 

・以上は私の独創ではなく、哲学者Fred Feldmanの立場を私なりに表現しなおしたものである。

 

3.幸福に関する快楽主義の問題点

幸福に関する快楽主義はシンプルでわかりやすい。しかし、次に述べる有力な反論がある。

・ある人が事故で脳に大きな障害を負い、精神状態が幼児まで退行してしまったとする。だが、その後生涯を通じて、周囲の人に世話をされることに対して、快楽(幸福感)を感じられたとする。幸福に関する快楽主義によれば、彼はかなり幸せな人生を送ったことになる。しかし、我々は彼を羨ましいとも思わないし、彼のようになりたいとも思わない。彼は果たして本当に幸福なのだろうか。

 

この反論は大変説得的である。しかし私は、彼はあくまでも幸福だが、その幸福は、事故に遭う前の私の追求するものではない、と答える。どういうことだろうか。

まず、なぜ私は彼のようになりたくないかを考えてみよう。私が彼と同様の事故にあったとする。事故にあったあとの私iは確かに「幼児同然の私iとしては」幸福ではある。このことに異議を挟む人はいないだろう。しかし、「事故に遭う前の私pとしては」、事故に遭った後の幼児的な幸福は、求めるに相応しい幸福ではないのである。つまり、事故に遭う前と後で幸福の基準が違うのである。事故に遭う前の我々pは前者の幸福を求めるが、事故に遭うことで得られる幸福は後者の幸福だから、後者のようにはなりたくないと思うのである。

では、事故に遭う前の私pとしての幸福と、事故に遭った後の幼児同然の私iとしての幸福はそれぞれどのように定義され、どう違うのだろうか。

 

4.相応性-補正型-態度快楽主義

 私が2.で定義した幸福に関する快楽主義では、快楽を抱く対象の事実が異なっても、等しい量の快楽は、等しい幸福につながる。しかし、これは本当だろうか。

先の例でいうと、私と別人格と化した幼児iとしてお世話をされることに対して1の快楽を抱くことは、私pの好きな趣味に対して1の快楽を抱くことと同じくらい幸せなのだろうか。そうは思えない。なぜなら、前者の快楽は別人格の幼児iに相応しいものであるのに対して、後者の快楽こそが私pに相応しいものだからである。ただ快楽があるだけではなく、それが私という人格にとって快楽として相応しいことも、幸福の要件ではないだろうか。

 

以上は次のように定式化される。

EDAIAH:各時点の「私」としての幸福度は、各時点の私が様々な事実に対して抱く快楽や苦痛の度合いに、それら事実に「私」が快楽や苦痛を抱くことがどれだけ相応しいかという度合いを乗じたものを、総和した値である。

 

「人生の時点tにおける「私pとしての」幸福度Hp,tは、時点tの私が、tにおける信念Wtによって抱く快楽や苦痛の度合いに、私の人格pにとって、「信念Wtの対象の事実」に対して快楽または苦痛を抱くのがどれだけふさわしいかという度合いDp(Wt,Pt(Wt))を乗じた値である。2.と同じ表記を用いると、Hp,t=Pt(Wt) × Dp(Wt,Pt(Wt))、Hp=∫Pt(Wt) × Dp(Wt,Pt(Wt))dtである。」

 

 

 この補正された快楽主義を取れば、なぜ脳に障害を受けて幼児i同然の幸福に浸ることが、障害を受ける前の私pとして幸せではないかの説明がつく。障害を受ける前の私としての幸福Hpにおいては、幼児同然の快楽の寄与が私pにとって相応しくないため低くカウントされるからである。対して、障害を受けた後の私としての幸福Hiにおいては、その同じ快楽が高くカウントされる。

そして、この私pとしての幸福Hpこそが、私pが追求する幸福である。私はあくまで私自身pとして幸せになりたいのであり、別人iとしては幸せになりたくないのである。

 

では、そもそも、私の人格pにとって、ある事実に快苦を抱くのが相応しいとはどういうことだろうか。それはある事実に快楽(苦痛)を抱くことが、私の抱くアイデンティティpに適っていることである。私個人の例で述べると、このように無為な思索に価値を置き、労働を否定するのが私のアイデンティティであると私自身は考えている。したがって、思索に見出す快楽は私に相応しいし、労働に見出す苦痛も私には相応しいだろう、したがってそれら快楽や苦痛には重い価値がある。対して、私は社交家ではなくどちらかといえば勉強家なので、社交による快楽は私にはさほど相応しくないし、勉強により苦痛を感じることも相応しくない。これらの快楽や苦痛には軽い価値しかないのである。つまり、快楽や苦痛の重みは、快苦を見出す事実の内容と私のアイデンティティの関係に依存するのである。

※なお、幼児iのように、自己意識がなく、アイデンティティが無い場合は、全ての快楽や苦痛が「無差別に相応しい」と定義しておく。実際、彼には、全ての快楽は無条件で幸福であり、苦痛は無条件で不幸だからだ。

 

ここで注意すべきは、私にとって、ある事実が快楽や苦痛を感じるに相応しいか否かは、どういう内容に対して快苦を感じるかということと、私自身をどういう人物と考えるかという主観によって完全に決まるということである。だから、これは同じ「相応しさ」でも、例えば道徳的な相応しさや、人間という種としての相応しさとは全く異なる概念である。

(誰かを拷問することに快楽を感じることは、私がどう考えるのかに関係なく客観的に、道徳的に相応しくない。また、豚のように泥にまみれて戯れることに快楽を感じることも、私の考えとは関係がなく、人間としては自然ではなく相応しくないのである。)

したがって、幸福に関する快楽主義を相応しさという概念を用いて変形したにもかかわらず、これが2.で述べた主観主義的な幸福観(mental state theory)であることに変わりはないのである。

 

 

5.一時点を基準とした幸福と、人生全体を通じた幸福の違い

4.では、私の人格pとしての幸福Hpを定義した。注意すべきは、人格pは生涯を通じて一定ではなく、あくまで今時点の私の人格に過ぎないことである。人格やアイデンティティは時間を通じて少しずつ変わるものだからだ。したがって、各時点tの私は、異なる時点の私を基準とした幸福Hp(t)を追求していることになる。

これら複数の幸福Hp(t)はそれぞれの時点tの私を基準とした別々の幸福なのだから、どれかが、時間を通じて自己同一な「私」にとっての幸福だとは言えないだろう。では、人生全体を通じた幸福はどう定義すればいいのだろうか。

 

私は、各時点tの私達を別々の人々と考え、功利主義的に全員の幸福を足し合わせて、全体の幸福を定義する以外にないと思う。各時点tの私が経験する幸福は、時点tの瞬間的な幸福のみである。よって、

 

UIAH:人生全体を通じた幸福は、各時点の「私としての」瞬間的な幸福度を総和した値である。

 

「人生全体を通じた幸福Hは、人生の各時点tにおける「私p(t)としての」幸福度Hp(t),tを時点tについて総和した値である。H=∫Hp(t),tdt =∫Pt(Wt) × Dp(t)(Wt,Pt(Wt))dt」

 

ここで定義した人生全体を通じた幸福Hは、どの時点の私が求める幸福Hp(t)でもないことに注意すべきである。どの時点でも追求されない幸福は、幸福と呼べるのかとも批判されよう。確かにこの幸福は実在しないかもしれないが、本来は一時点を基準としてしか存在しない幸福を、人生全体を通じてあえて定義した結果である。

私は、利己(今)主義者として、あくまで今の私が考える基準で、将来にわたる幸福Hp(t)を追求する。しかし、私が人生全体としてどれだけ幸せだったかを聞かれれば、Hと答えるしかないと思うのである。

 

※これは、社会全体の幸福を、どの個人が追求するわけでもなく、各個人はあくまで各々の幸福を追求することとまったくパラレルである。社会は幸福の主体ではなく、社会全体の幸福というのは社会の各構成員の幸福の形式的な総和にすぎない。時間を通じて自己同一な「私」というのも、厳密には幸福の主体ではなく、幸福の主体はあくまで各々の時間における私なのである。したがって、「私」の幸福も、各時点の私の幸福の形式的な総和としてしか定義できない。

 

では、3.で挙げた脳に損傷を受けた人の例において、人生全体を通じた幸福Hはどうなるだろうか。Hは各時点の幸福の総和なので、事故に遭う前まではHp、事故に遭った後はHiで計った値になる。したがって、事故に遭った後の幼児的な幸福は高く計られ、彼は事故に遭ってもあくまで幸福であるということになる。事故に遭った後の彼は、幼児iとして幸福であるだけではなく、人生全体として幸福なのである。

 

6.まとめ

幸福について私は快楽主義を取る。しかし、快楽の量だけが問題ではなく、快楽が私という人格にとって相応しいかも、幸福を決める重要な要素である。しかし、この私という人格自体が人生を通じて変わるものである以上、幸福そのものも基準が変わるものであり、同じ人生でも、どの時点の幸福観で見るかに応じて幸福度が変わってくる。そして、この中のどの時点で見た幸福が真の幸福かなどというのは意味をなさない。厳密には、人生全体を通じた幸福を定義しようとしても、それは形式的な総和としてしか定義できないのではないかと思う。