主観的欲求充足説とエピクロス主義について

この記事では、欲求充足説を客観的欲求充足説と主観的欲求充足説に分類して紹介し、後者がエピクロス主義の主張(死は悪ではない)を含意することを示そうと思う。そのうえで、主観的欲求充足説を取るエピクロス主義と、以前私が定義したエピクロス主義を比較したい。

 

1.1 欲求充足説について

以前は快楽主義について述べたので、今回は生の善さに関するもう一つの代表的な理論、欲求充足説について述べたいと思う。

欲求充足説の主張は次のとおりである。X:「いかなる欲についても、その欲が充足されることは善であり、欲が挫かれることは悪である。」

欲の充足/挫かれることに関する定義は次のとおりである。YO:「事態pに真であってほしいという欲が充足される/挫かれるのは、事態pが実際に真/偽である時である。」

 

1.2 欲求充足説は生の善さに関するworld theoryである

さて、私はこの欲求充足説には同意しない。なぜならこの理論は、経験とは独立した世界の在り様によって生の善さが左右されると主張するworld theoryであり、私は経験すること、つまり心理状態で生の善さが決まると主張するmental state theoryの立場を取るからである。

※この理由については次の記事で示している。

生の善さは主観的な経験だけで決まるものか - 思考の断片

どういうことだろうか。例えばpとして、私が皆に好かれているという事態を望むとする。ここで、二通りの場合を考える。A:私自身は皆に好かれていると信じているが、実際は皆に嫌われている B:私自身は皆に好かれていると信じており、実際に皆に好かれている。

A,Bいずれの場合も、皆に好かれていると信じているという私の心理状態(経験)は変わらない。事実(世界の在り様)としてのみAとBは異なっているのである。そして、欲求充足説は、Bは私にとって善いのに対して、Aは私にとって悪いと主張する、つまり私にとっての善悪が私の経験では決まらず、世界の在り様に左右されると主張するのである。これはまさに先に述べた生の善さに関するworld theoryに他ならない。

 

1.3 私が同意する主観的欲求充足説

では、心理状態で生の善さが決まると考えるmental state theoristの私は、欲求と善についてどういう関係があると考えるのかというと、次のとおりである。

 

X:「いかなる欲についても、その欲が充足されることは善であり、欲が挫かれることは悪である。」

欲の充足/挫かれることに関する定義は次のとおりである。YS:「事態pに真であってほしいという欲が充足される/挫かれるのは、事態pが真/偽であることが私に信じられた(経験された)時である。」

 

この欲の充足に関する定義YSを主観的欲求充足と呼ぶことにして、最初の定義YOを客観的欲求充足と呼ぶことにしよう。XとYSから成る主観的欲求充足説がmental state theoryであることは言うまでもない。

 

2.1 死は悪ではないとするエピクロス主義の主張の擁護

この主観的欲求充足説が導く態度の一つに、死が悪ではないというエピクロス主義の主張がある。なぜだろうか。我々は、明日も生きたい、明日から~したいというような様々な欲求を持つ。もし今日死ぬことになれば、(明日生きるという事態、明日生きて~するという事態が偽になるわけだから)これら欲求は客観的に充足されない(挫かれる)ことになるだろう。したがって、客観的欲求充足説によれば、このような欲求を持つ人にとって死は悪である

対して、これら欲求が主観的に挫かれることはない。なぜなら今日死んだとしても、明日生きていないことや、明日~ができないことを経験する私はいないからである。つまり、死んでしまっては、生きていないことを不満に思ったり後悔する私そのものがいなくなってしまうから、欲求が主観的に挫かれることはないのである。

したがって、生きたいという欲求や、生きなければ満たせない欲求を持ってはいても、死ぬことは悪ではないのである。

 

※1 確かに、生き続けていれば欲求が主観的に満たされたかもしれないのに対して、死ねば欲求が主観的に満たされることはない(挫かれることも無いとはいえ)という点で、死ぬことは生きることに比べて相対的に悪いと主張することは可能である。しかし、善の不在としての相対的な悪は、欲の挫折という積極的な悪とは異なる、消極的な性格のものだろう。しかも、「生きていれば満たされたはずの欲求が、満たされずに終わった」という相対的な悪を経験する人は既にどこにもいないのである。これら二つの理由から、死ぬことによる相対的な悪は取るにたらないと主張できるだろう。

 

※2 もし死ぬまでに、欲求を満たすことができないと意識する余裕があるならば、 欲求が主観的に挫かれたことになり、死ぬことは悪になるのではないか、と言えるように思われるかもしれない。しかしここで悪いのは死(死んでしまったこと)ではなく、死ぬまでの過程である。エピクロス主義とて、死ぬまでの過程が悪いものであることは否定していないというのが私の理解である。

 

2.2 主観的欲求充足説を取るエピクロス主義と、以前私が定義したエピクロス主義の相違点

このように、主観的欲求充足説の立場を取り、生きたいという欲求を持ちながらもなお、死は悪ではないと主張する人々のことをエピクロス主義γと呼ぶことにする。

エピクロス主義について(6/28微修正) - 思考の断片

対して、私が上の記事で、死によって阻害されない欲求、つまり生存に条件づけられた欲求(もし生きていれば~を経験したい)しかもたず、生存するか否かには無関心な立場として定義したエピクロス主義(エピクロス主義αとよぶ)は、エピクロス主義γとは異なる態度である。

エピクロス主義αの人々は、経験されることしか欲求しないのだから、彼らにとって欲求の充足とは、主観的欲求充足だろう。だから、エピクロス主義者αは主観的欲求充足説の立場を取る点で、エピクロス主義者γと一致している

しかし、エピクロス主義αを取る人々は、エピクロス主義γに比べてはるかに狭い範囲の欲求しか持たない点で異なる。彼らは生き続けることを欲しないばかりか、例えば「私の死後も」愛する人に幸せでいてほしい、国や社会に発展してほしい、もしくは自身が今手掛けているプロジェクトに実現してほしいと言った願望を持たない。彼らは死で阻害される欲求をもとから一切持っていないのである。

私はエピクロス主義αのような人々でも善き生を送れることを後の記事で主張し、擁護してきたが、それでもこのような人々は極めて特殊であることは否めない。自分が生きることや経験できないことに関しても無関心ではいられないのが大抵の人間の性だろう。

 

私自身、エピクロス主義αを取るほど、いろいろな物事を諦めきれないのではないかと思えてきた次第である。今後はエピクロス主義γの立場で、しっくりする倫理観を探っていきたいところである。