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生の善さは主観的な経験だけで決まるものか

1.生の善さに関するmental state theoryとworld theory

ある人が生きた人生が、当の本人にとってどれだけよかったか、これを生の善さと呼ぶことにする。私は最近、生の善さについての次の問題に興味を持っているので、考えたことを記しておく。

・X:ある人の生の善さはその人の経験で全て決まるのか、それともY:その人が経験しない世界の状態にも依存するのか。

Xは経験すること、つまり心理状態で生の善さが決まると主張するので、mental state theoryと呼ばれる。Yは経験とは独立した世界の在り様によって生の善さが左右されると主張するので、wolrd theoryと呼ばれる。

 

2.両者の違いがわかる例

両者の違いが分かる例を挙げよう。大半の親がそうであるように、ある親が自分の子供に、自分の死後も幸せになってほしいと考えているとする。次の二つの場合で親の「生の善さ」は違うのか、それとも違わないだろうか。

α:親が死ぬまでも、死んだ後も子供は幸せである

β:親が死ぬまでは、親はαを全く同じ経験をする(子供は幸せである)が、親の死後に子供に不幸が降りかかってしまう

もしXが正しいとしたら、αとβで親の経験は全く同じなので、親の「生の善さ」は同一になるだろう。もしXでなくYが正しければ、そうとは限らない(αの方が親の生は善い)わけである。

 

3.私の立場

私の快楽主義について - 思考の断片

上の記事で述べたように私はX、つまりmental state theoryが正しいと考える。私が善と等しいとした快活とは、活動の経験を快くできるということに他ならなかったからである。

 

4.mental state theoryに対する反論

mental state theoryに対する反論でしばしば挙げられるのが、ノージックの思考実験:経験機械である。元々の例から少し変形したものを紹介する。

 

・Aは実際に様々な人と友達になり、いろんな偉業を達成するような充実した人生を送ったとする。

・Bは、VRを経験できるような機械にプラグインされ、送られてくる感覚情報によりAとまったく同じ経験をしたとする。

ここで、AとBの生の善さは同じだろうか、それとも違うだろうか。

 

ここで、多くの人は、実際の友情や達成(という経験外のもの)に恵まれたという理由で、AのほうがBよりも善き生を送っているという主張に同意するだろう。

以上より、この思考実験はXに対する反論になると考えられている。

 

5.経験機械の反論に対する私の意見(反論ではない)

5.1 主観的な生の善さと客観的な生の善さの区別

私はまず、ある人Cの生の善さを述べる上で、ある人Dから主観的に観た生の善さ(Dが知りうる情報に基づく、Cの人生の評価)と、客観的な生の善さ(Cの実際の状況に基づく、Cの人生の評価)を区別するべきだと思う。

生の善さと言った場合、(特に欧米圏の人々は)客観的な生の善さを問題にしているように思われる。皆が気にするのもこちらだろう。しかし、この客観的な生の善さは、かなりの度合いで不可知なものだと思う。

マトリックスの映画のように、我々人類全員が経験機械に(別々に)つながれているかもしれない(しかも他の高等生物の肥やしになるために!)、この可能性を我々は少しも否定することが出来ない。もし我々が、我々自身が思うように実際に生きている場合の我々の生の善さと、我々が高等生物の家畜だった場合の生の善さには、天と地の差があるだろう。

我々が考えるべき「生の善さ」とは、決してこんな、人類の知の彼方にある客観的な生の善さではなく、むしろ実際に体験でき、わかる主観的な生の善さではないだろうかそもそも、経験が示すように、生の善さとは見る人の立場や見え方によって変わってくるものである。実体的なのは主観的な生の善さである。

それでは、ある人Cの主観的な生の善さを問題とする場合、多数いる中の「誰から見た」生の善さを問題とすべきだろうか。私はC本人から見た生の善さが重要だと考える。なるほどCは他の人の目も気になるかもしれない、しかし彼がいかに客観的になろうとあがいても、結局彼は自分の観点から自らの生の善し悪しをかみしめることしかできないのである。このように自分を中心に経験することこそが生きるということではないだろうか。

 

5.2 経験機械の例に戻る

もし主観的な生の善さのみを問題にするとすれば、先の経験機械の例で言えるのは、「われわれ」から見たAの生が、「われわれ」からみたBの生よりも善いということだけである。「実際に」友情に恵まれ、達成したというのも、あくまで(A,Bを離れて)「われわれ」がそう思っているという相対的な話に過ぎない。

対して、A自身からみたAの生は、B自身からみたBの生からなんの違いもなく、両者の善さも違わない。5.1で述べたように、重要なのは、A,B自身から見たそれぞれの生の善さであった。したがって、経験機械の例においても、AとBの生の善さは変わらない、とするのが私の意見である。

経験機械の例で、全てを知っている「われわれ」を基準に、Bの生のほうがAの生よりも劣ると考えるのは、生の善さを評価すべき観点を取り違えることによる誤謬である。じっさい、「われわれ」から機械に夢を見させられているBの生が滑稽だったり惨めに見えてからと言って、それを微塵も知ることができない、B自身の生にどういう影響があるだろうか。

 

6.1 私の立場に対する反論

本人から主観的に見た生の善さを問題とする私の立場には、「客観的な生の善さこそ、我々の欲するものだ」という反論が考えられる。確かにその通りである、我々は実際に善く生きたいのであり、善く生きる経験をしたいわけではない。また、仮に客観的な生の善さを問題にしないとしても、(自分だけではなく)他人から見て(主観的に)善く生きることを、我々は欲するだろう。

つまり、自分自身から主観的に見て善く生きる以上のことを我々は欲しているのである。

6.2 再反論

しかし、何かを欲するからといって、その何かが我々にとって善いとは限らない。

先の記事で例として挙げたように、「仮に私が電車の中の苦しそうな見知らぬ病人の病気が治ることを欲したとして、その病人の病気が私が知らずして治ったところで私の幸福に少しでも資するだろうか、否である。」

では、この例で、どういう場合に、病人の病気が治ることが私の幸福に資するだろうか。それは病人の病気が治ったと私が知った、もしくは(真偽を問わず)信じたときである。

より一般的に言うならば、欲する何かが、我々にとって善となるためには、その何かを手に入れ、欲が充足されることが経験されなければならないのである。

 

客観的な生の善さは私の経験の範囲外にあり、明らかにこの条件を満たさない。したがって、いくら得ようと欲するとはいえ、得たかどうかすらわからないような「客観的な生の善さ」など、取るに足らない善なのである。