私の快楽主義について

1.1 快楽主義について

最近私は快楽主義に興味を持っている。快楽主義とはひとことで言えば快楽こそが幸福であるとする立場である。世の人に、快楽を求めない人はいない。しかし、彼らは快楽以外にもいろいろなものを重要視し、決して快楽が幸福の唯一の基準だとは考えない。例えば友情、愛、真理や自由など、快楽以外にもいろんな価値があると主張するだろう。
快楽主義はあまりにも限定的すぎるのである。

本当にそうなのだろうか。私は快楽ほど普遍的な幸福はないと思っている。きっと私と世の考える快楽には定義に大きな隔たりがあるのだろう。まず、私が考える快楽とは何か定義を試みるべきだろう。

一番素朴な快楽主義は、感覚的快楽説と呼ばれるものである。この立場は、五感で感じられる快感を快楽と見なす。言うまでもなく、この快楽の定義は狭すぎるだろう。これ以外にも例えば知的・精神的な快楽があるし、エピクロスが追求した快楽のように、平静の境地としての快も存在する。快楽主義が限定的すぎるという最初の批判はこの素朴な説に対するものだ。

 

1.2 活動的快楽について

対して、私が考える快楽は私が活動的快楽(以後快活と略称する)と呼ぶものである。快活とは何か、それは字義通り快く活動する経験ができること、つまり活動が妨げられずに経験できることである。とはいえ、活動と言ってもいろいろある。私が快活の基準とする活動は、自らの本性や個性に従った自由な活動である。
例えば私は数学が得意だが、その能力を活かして首尾よく思考できている状態、これこそが私にとっての快活である。また、私は他人と一緒に遊ぶよりも一人で物思いにふける方が好きだが、この個性に従って物思いにふけることも快活である。しかし、そんな私であっても人間である限りは社会的である、友達と会話で盛り上がるのは快活である。また、知的好奇心も人間の本性だから、真理を追究することも快活である。もしくは無目的で衝動的な生命活動に基づく、動物的(基本的な)なレベルの快活もある。例えば身体や脳が活発に働き、元気だったり頭の回転が速いことも快活である。

では快活の反対はなんだろうか。例えば苦手なことをさせられるときや、好きじゃないことを強制される時がそれである。しかし、したくないことを強制されるだけではなく、なにも出来ないことによっても、自由な活動は阻害される。前者は苦行、後者は陰鬱もしくは退屈と呼ぶべきものだろう。これらを合わせて苦とよぼう。

以上にみたように、本性や能力というのも多面的な概念で、基本的で動物的なものから人間的で高度なものまで様々な階梯がある。それに応じて快活の概念も内容豊かなものとなるのであり、感覚的快楽には含まれるとは限らなかった様々な幸福をも包摂する概念なのである。

 

1.3 中庸について

では、数あるうちの、どの(本性にしたがった)活動をしているときが最も快活か、という比較の問題が出てくるように思われる。しかし、それに対して私は、何か最善な活動があるわけではなく、様々な活動の間に成り立つバランスが重要だと考える。

例えば、私は数学が好きとは言え、ずっと数学をしていたいわけではなく、哲学もゲームもしたいのである。両者の間には程よいバランスというものがあるだろう。個性や本性に応じて、このバランスは如何なる活動の間にもあり、最適なバランスが達成された活動(の配分)を中庸と呼ぶことにしよう。この中庸な(様々なものから成る)活動の状態こそがもっとも快活なのである。これは日ごろの経験ともよく合致する。何をするにも程よい限度というものがあるし、躁のように気分がハイになりすぎるとかえって苦痛である。快は強ければ強いほどいいというわけではなく、調和を保った程度に保たれてこそ最善なのである。

 

※1:私の立場は、快は大きければ大きいほど良い、という通常の快楽主義とは異なる。本性によって決まる最適な活動が出来るような生が「最も善い(快い)」のであり、これはどちらかというと完全論(perfectionism)に近い。

※2:最初の定義で、活動する「経験」ができることとした点に注意してほしい。活動はあくまで活動経験のことなので、それが首尾よく出来る快活とは、主観的な意識の域を出ない。

例えば、ある人Aがボランティア精神旺盛で、ボランティアを通じてBのためになろうとしたとする。このとき、Aの活動が裏目に出てBが迷惑しつつも、Aの善意に感謝するためBが有り難いふりをしてAがそれを知らないとする。この場合、ボランティアを通じてBのためになるという、Aの活動は「事実上は」成り立ってはいないのだが、Aの「意識上は」成立している。つまりAは快活である。Aが快活かは、彼のやっていることが現実にBのためになるかではなく、そのようにAが意識しているか次第で決まるのである。だから、快活は意識状態に過ぎないのである。

 

2.快楽と他の幸福の比較

次に、以上に定義した快が普遍的な幸福であることを示すために、快楽と、快楽以外に皆が追求する善を比較しようと思う。そのうえで、快楽以外の善も快楽に含まれるか、追求するに値しないものであることを主張したい。

 

2.1 欲求の充足

世の人が快楽の追求よりも盛んに行うのが、欲の追求である。そのため、より多くの欲が充足されることが幸福であるという考え方(欲求充足説)の方が快楽主義よりも一般的であろう。
この考え方と私の立場とは同じではないものの、両者は包含関係にある。
欲求を追求することは自然であり、我々の本性の一つである。実際、欲を抱き欲を満たし、また新たな欲を抱くというサイクルは我々の生きる時間の大半を占めている。
程よい数の欲求を抱き、それらが速やかに充足されるとき、すなわちこのサイクルが首尾よく回るとき、それは欲望追求の活動が妨げなく盛んにおこなわれているということであり、それは即ち快活である。
以上より、欲の充足は快を生み出すことが示されるが、逆は必ずしも成り立たない。
例えば、ただ単に身体の調子が良かったり、気分がいいときや頭の働きが活発なときも、私の立場では(動物的な)快活に違いはないのだが、この時はなんの欲求も充足されていないのである。欲求は快の限定に過ぎず、快こそがより広い概念なのである
快は欲求よりも根本的でもある。実際、次のような例を考えてみればいい。持てるありとあらゆる欲求が成就すれども憂鬱で気分が晴れない人と、満たされない欲求があったり、欲求そもそも無くても快活な人のどちらが幸せだろうか。欲求充足即ち善とする立場では前者がより幸せだろうが、この場合は明らかに後者の方が幸せであると同意いただけると思う。幸福に本質的なのは、欲求が充足されるか否かではなく、快活か否かなのである

 

2.2 意味

欲求の充足の次に世間の人が求めがちなのは、即ち「意味」である。彼らは自分の様々な活動のみならず、人生にすら意味を求めたがる。
では意味とはなんだろうか。それは下の記事で説明した通り、外部とのつながりのことである。

生の「意味」について - 思考の断片
例えばもし仕事で行う作業(事務作業)の外に、目的(顧客満足や将来の稼ぎ)がある場合、その仕事には意味があるのである。もし私の人生が、(私が死した後もなお、)他人の人生や外部の世界とつながり(影響)を持つ場合、私の人生には意味があるのである。
対して、快活というものは私自身の刹那的で自己完結した幸福である。他人や世界や私の未来に好影響をもたらさずとも独立した善さを持っているのである。

さて、このように意味と快は関係的/自体的、世界的/心理的顕著な二項対立関係にある。とはいえ、両者に接点がないことはない。
意味、社会や他人とのつながりを求めるのも我々の人間の本性と言ってよい。「人間」はその言葉のとおり、他者との関係に生きようとする生き物だからだ。従って意味ある活動も、その意味が実感される限りで快活であると言わなければならない。
ただ、両者には大きな隔たりもある。意味は客観的な他人や世界の状態に左右される。例えば※の例ではAのボランティア活動は、「実際に」Bのためになっていないという理由で、「Bのためになる」という意味を獲得し損なっている。対して快活は主観的な意識状態であり、意味があるように期待されることが快活の要件なのであり、A自身はBの役にたてたと「信じて」活動できている限りはAは快活なのである。

このように、幸福が世界の客観的な状態に左右されるか、それとも自分の主観的な意識経験の状態だけで決まるかという点で「意味」と「快」を重んじる立場は決定的に異なる。もし前者に該当して後者に該当しないような幸福があるのだとすれば、私の考える快はそのような幸福を捉え損ねていることになるだろう。

しかし、私は世界の状態がどうあろうと、それが私自身に経験されなければ幸福にとって取るに足らないことだと思う。例えば、仮に私が電車の中の苦しそうな見知らぬ病人の病気が治ることを欲求したとして、その病人の病気が私の知らないところで治ったところで私の幸福に少しでも資するだろうか、否である。その病人が治ったと私が知ったときに初めて私は幸福になるのである。このように、欲求は事実の上で満たされた時ではなく、主観的に満たされたと信じられてこそ快や満足感を生むのであるから、後者こそが幸福と呼ばれてしかるべきだろう。

 

※意味を善とする立場に対する私の違和感は、このように私が経験できないことに価値を認めてしまっていることにある。人の役に立ちたいという意味を追求する気持ちはわかる。しかし、役に立っていると思えればそれで十分であり、その信念に反して実際には役に立っていなかったとして、何の問題があるだろうか。
上の記事でも述べたように、経験の彼岸に善を求めるような態度は卑しいものだと思う。善は経験されてこそ善なのであり、それで満足出来る人は、経験されないけど実はあるというような善を措定する必要がない。それをわざわざ措定するのは、善いとはとても言えない自分の惨めな活動ないし人生に対する単なる慰めに過ぎないのではないだろうか。そのような欺瞞に陥るくらいなら、惨めな自分の人生を直視して不幸になったほうがマシである。

 

2.3 道徳的善
私の立場に対して考えられる批判として、単なる利己的快楽主義に堕しているというものが考えられる。我々は時に道徳的に振る舞うことに満足感を覚えはするし、限定的とはいえ道徳的に振る舞うことは我々の自然な本性であるともいえる。しかしそれもあくまで部分的に過ぎず、道徳と利己心はしばしば衝突する。また、時々行う道徳的行動でさえも、道徳に対する尊重からではなく、利己心の延長として行われるものに過ぎないことになる。私の快楽主義は道徳と一致しないばかりか、道徳を尊重していないではないかと批判されるかもしれない。
しかし、私はこのような道徳主義的な批判に対しては、下の記事で行ったように道徳そのものを批判したいところである。

道徳について - 思考の断片
道徳は各々の利己的な幸福追求が衝突しないための調整手段に過ぎず、それ自体が目的もしくは善ではないのである。道徳的に振る舞った方が他の要素を考慮して結果的に幸福になるに過ぎず、道徳を目的と取り違えることはかえって善く生きることの阻害ないし抑圧になると思う。

 

3.まとめ

以上に述べた私の快楽主義以外の幸福観に対する反論は、いずれも個人的の域を出ないが、私の立場を明らかにするには十分であったと思う。


まず、欲の充足を快活の一種と認めながらも、高度な欲求よりも、動物的な快活をより根源的なものと見なし、人間的であると同時に社会的な「意味」を限定的にしか幸福として認めなかったことは、私の動物的な幸福感の現われだろう。私は快活とは要するに、自然本性から生じた衝動が阻害されないことだと思っている。衝動の高度化したものが人間的な欲求であると考えているので、欲求の充足は快活の延長上にある。だからといって、より高度な欲求の充足に重きを置くわけではなく、かえってより基本的な衝動の実現、つまり快活に重きを置き、欲求の充足は快活の手段に過ぎないと考えるのである。

また、私の幸福感は主観主義的である。道徳の手段化は言うまでもなく、世界の在り方よりも自分の心理状態を幸福の基準にする点においてこの傾向は顕著である。私がよく生きるとは、他でもない私自身にとって、私が善く生きることに他ならないのであり、客観的な観点はどうでもいいのである。

現代人の求める幸福は、人生の意味なり目的(欲)の実現なり、あまりに人間的、意図的に過ぎる。もっとのびのびと、無為自然に動物的に生きてもいいのではないだろうかとしばしば思う。