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道徳について

今回の記事は何の要旨も持たない。ただ、道徳について考えをまとめるために、言葉に記すことにする。書きたいことを赴くがままに欠いたので、まとまりの無さは容赦いただきたい。

 

まず、道徳を定義するために次の問題を考える。利己的な態度と道徳的な態度を分かつものは何だろうか。
子供のころは、道徳指導として、よく他人のことを考えなさいと言われた。これは他人の立場から見た善し悪しを考慮して行動しろ、という意味であるが、これは道徳的に振る舞うための必要条件ではあれ十分条件ではない。
というのも、他人にとっての利害を知ることは、利己主義を徹底するためにも有用だからである。自分の利益は、他人が状況に応じてどう行動するかに大きく左右される。そこで、賢明な利己主義者は、他人の利害を計算のための情報として用い、より正確な利害計算を行おうと試みるだろう。彼は確かに他人の利害を考えてはいるが、考えたことをあくまで自分のことを考えるための手段、情報としている過ぎず、目的として扱っていないのである。
もし、彼が他人にとっての善悪を知るのみならず、自分にとっての善悪と同様、追求もしくは忌避の対象として、それで初めて彼は道徳的であるということが出来る。自らの善を追求して悪を避けることは、己が自由であろうとすることであった。同様に他人の善を追求して悪を避けることは、他人が自由になれるよう努めることである。したがって、他人を(自らの自由を実現する手段とみなすのではなく、)自分と同様に自由を追求する主体として尊重する、つまり他人の自由を願う態度こそが、道徳的である

道徳的なふるまいとは、万人にとっての善悪を自らの善悪とし、善が最大限、悪が最小限となるように行動することであり、道徳的善や悪とはそのために行うもしくは避ける必要のある行為を指す。

道徳はかくして、自他ともに万人を分け隔てなく尊重するという点において普遍的であり、誰が道徳的判断を下しても(情報が完全なら)結論が同じという点において客観的である。

 

※確かに現実に存在する道徳規範はしばしば、えこひいき、独善的や感情的の誹りを免れず、普遍性や客観性を備えていない。これは、道徳を論じる側の先入観で判断が歪められたり、事実判断や価値判断を行う際の情報の不足により、何が善いかについて誤った判断が下されるからである。
そもそも、一人一人の利害を把握し、計算すること(R.M.Hareにしたがい、これを批判的なレベルの道徳と呼ぶ)は、可能性としては考えることができても現実には全く不可能である。我々が出来ることと言えば、どの行為がどの結果に結びつくか因果関係をできるだけ正確に把握し、コミュニケーションを通じて各々の利害を極力分かり合うことで、道徳的判断を完全なものに近づけるくらいである。
また、この啓蒙と対話のプロセスですら、時間と思考力に非常に多くの思考力がなければ実現できないものである。したがって、当てはめるだけで即席の判断ができるよう、どういう場合になにをすべきかを命じる道徳規則が作られ、先に述べた完全な道徳的判断の代用とされるのである。(これを直感的レベルの道徳と呼ぶ)我々が普段道徳と呼ぶものは、この簡易的な規則のことである。

ともかく、普遍性・客観性とはかけ離れているという批判は、あくまで現実の不完全な道徳規範にあてはまるものであり、当為としての完全な道徳的判断については成り立たないのである。

 

しかし、以上に述べた道徳的なふるまいが、同時に(個人的な)善、つまり私個人が自由に生きるために有用な手段となるとは限らない。言うまでもなく、自他の立場が相違している以上、自他にとっての善悪も異なるからである。
もちろん、子供や親友の幸せを願う場合のように、道徳を持ち出すまでもなく他者を限定的に尊重することはある。だが、この尊重は、選択的な愛情に基づくものであり、ごく限定的なものに過ぎない。対して道徳は、万人を分け隔てなく、自分と同等に尊重することを命じるのである。
したがって、皆は実際には道徳的に振る舞おうとはしない。そのため、道徳は「~すべき」という規範性を持つのである。この規範性も道徳独特の特徴である。もし皆が完全に道徳的に振る舞う場合、食べ物を食べて水を飲め、と言うのが無意味なのと同様に、「~べき」と道徳が命じるまでもないだろう。現実には皆が道徳的に振る舞わないからこそ、道徳は当為として存在意義を持つのである。
この規範性ゆえに、道徳は各々の自由、本性に対する否定を伴う。道徳的言明に用いられる言辞はいずれも、「~すべき」、「~ねばらならい」、「~してはならない」と言うように、何かをする、もしくはしないことに対する否定である。反対に、道徳に「~すれば素晴らしい」というような肯定的言辞は一切登場しない。個人の自由に反して道徳にしたがわせるのには、道徳的な善の肯定では力不足であり、否定の力が必要だからである。したがって道徳はそれ自体としてみれば、己の自由の否定であり、それはすなわち悪である


では、そもそもなぜ、このように自由を損なう悪である道徳が、規範として存在しているのだろうか。一見、道徳は、無いほうがいい規範として望まれず、効力を持たないように思われる。
それは、私一人だけが道徳的に振る舞うことは私にとって悪いことだが、私を含め万人が道徳的に振る舞うことはほとんどの場合、総じて私にとっても善だからである。したがって、皆は、自他がともに道徳にふるまうことを、そして振る舞わせる規範的な力(制裁等)が存在することを望むのである。
例えば囚人のパラドックスにおいて、各々が自由に、非協力的な振る舞いをする場合、両者は非協力的な選択を行い、双方ともに損をするだろう。しかしもし、各々が全体最適が実現される協力的な行動(※)を取るように(事後制裁による脅しなどにより)強制されていれば、各々は協力的な行動を取り、この強制が無い場合に比べて得をする。

※一方が非協力的な選択を取ることによる利得が極めて大きい場合は一方が協力、他方が非協力的な選択を行い、のちに埋め合わせをするような合意がなされるだろう。

だが、突出した力を持つ者等、一方的に相手の利益を侵害できる立場にある人にとって道徳は(仮に皆が従うものであっても)自らを縛る足かせに過ぎず、皆が道徳に従うことが万人にとって善いことであるとは限らない。道徳が要請されるのは、皆のパワーバランスがある程度均衡していて、大半の人が害する側と害される側の両方になりうるからである。

 

では、道徳を守らせる規範的な力はどういうものだろうか。
この力の一つは、違反した場合の制裁に紐づく法律であったり、相互監視の形態を取る。これらは、非道徳的な振る舞いに制裁を与えられる環境を作ることで、個人的で利己的な善を、道徳的な善に近づけようとするものである。
ただし、制裁を以てしても、皆を道徳的に振る舞わせるには不十分である場合もある。例えば、自らの利益のため道徳的な悪行をはたらいたことを隠すに十分な怜悧さを持ち合わせた人にとって、制裁は無力だろう。したがって、彼らには利己心に訴える制裁とは別の規範的な力が必要とされる。
そのために、習慣付けや情緒等への訴えを通じて、環境ではなく個人を、道徳的に行動するように変えるのである。例えば、しつけや初等的な道徳教育は、自らの利益を多少損なおうとも道徳的に振る舞うことを、少年期のうちに習慣づけることを目的としたものである。また、犯罪や戦争の被害を受けた人、恵まれない人々の様子を仔細に報道するのは、彼らの立場を考慮するように、情に訴えるものだろう。

 

道徳は以上に述べた通り、有用かつ有効である。しかし、それがあくまで各々が、互いに害することなく個人的な善や自由を追求するための手段であることを忘れてはならない。もし道徳を目的化した場合、つまり道徳的善が、自分自身にとっての善であるかのように最優先に求めてしまうと、以下に述べる弊害がある
まず、道徳的判断の形式は不変であるが、その内容は状況に応じて変わるものである。先ほど述べた簡易的な道徳規則が以前は道徳的に妥当であったとしても、時代や社会が変わり、現状にそぐわなくなることも多い。この場合は、再度道徳的な議論を根気よく行い、新たな規則で置き換えるべきである。だが、もし規則に従うことが目的化している場合、時代錯誤の道徳規則が残ったままとなってしまう。(日本人によくありがちなバカげた話である。)
以上は直感的レベルの道徳規則についての話であるが、批判的レベルの完全な道徳を遵守するのも、善いこととは言えない。先にのべた通り、道徳は、他の人が従うという恩恵を除けば、あくまで不自由を強いる悪である。道徳的善は誰にとっての善でもない。「誰にとって」という自己中心性を排する点に、道徳の本質があるからである。しかし我々の生は自身の個体を確固たる中心としており、それゆえに道徳は生を根本的に否定するものである
したがって利害の中心を持たぬ、無人称的な善の追求は、極めて生気に欠けている。そこには個性というものが、私が私ゆえに追求するものが無いのである。