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生の「意味」について

私は、先日のブログ:

エピクロス主義者の願望はいかなる意味で生存に条件づけられているか。私の場合は。 - Silentterroristの日記

で下記の態度を表明した。

①将来どんないいことが約束されていても、死んでも生きてもどちらでもいい。

同時に、大多数の人が①の態度をとらない理由を、生きたいがために善いことを経験しようとするか、善いことを経験するために生きようとするからだと言った。

しかし、善を生きるからこそ必要とされるものだとする、私の善悪観からすれば、後者の理由はありえないのである。

ただ、理由をもって生きている人がいることは確かである。善い経験が理由ではないとすれば、何が理由で彼らは生きているのだろうか。私に言わせれば、彼らは自らの生に意味を持たせるために生きている。このように主張したいところだが、まず意味を定義しよう。

 

人生の意味は、言葉の意味に類比して定義できる。言葉は、対象を指示することによって、あるいは指示に限らず、言語使用において機能を持つがゆえに、意味を持つ。言葉の意味するものとして、対象ないし機能があげられるならば、言葉の意味とは、意味すること、言葉と、対象ないし機能の関係であろう。

ところで、言語はそれだけでは無意味である。確かに文法上の機能は言語内に含まれるが、言語外の何かが指示されないことには、助詞や接続詞のみから成るナンセンスしかありえないだろう。したがって、直接的、間接的を問わず、言葉は言語外の対象との関係を通じて初めて意味を持ちうる

人生についても同様のことがいえるだろう。人生は、それ自体としてみれば経験の遷移である。単なる経験の集まりに過ぎない人生が意味を持ちえるのは、単なる記号に過ぎない言語が意味を持ちえるのと同様に、人生の外の何かと関係することによってである

外とは(彼が存在すると信じる)他者や、客観世界かもしれないし、イデア界のような経験を超えた超越的世界かもしれない。関係するとは、影響を及ぼすか、単に観照的に知ることにあるかもしれない。ともかく、経験の外に世界があると信じ、人生と外の世界の間に見出せた関係こそが、意味なのである。

ゆえに、意味は生の内部と外部の接する境界に存在すると言えるだろう。

 

対して、善は、下記のブログで私が定義した意味では、生の活動をより自由な在り方に近づけるものであり、善の意味はあくまで生の内部で完結している。善の目的は、自由に生きること、それ以上の何物でもないのであり、そこに他者や、客観世界に及ぶ道徳的意味は一切登場しない。

自由および善の消極性について - Silentterroristの日記

 

このように善と意味は全く性質を異にした倫理的意義を持つが、同じものが同時に善でありかつ意味を持つ可能性はあるし、意味が生きる活力になる人にとっては、何かが意味を持つことが同時に善をなす。したがって善と意味は別物ではあれど、善いものと意味あるものは共通部分をしばしば持つのである。

 

さて、「意味のために生きることの意味が、これで明らかになっただろう。それは、生の外部とのつながりがより緊密になるように、より長く生存して人生全体の内容を豊富にすることである。

ただし、人生全体の意味が期間に比例して多くなるわけではない。これまでのポリシーに反した生き方によって、人生の意味が減ずることさえある。しかし、より長く生存しないことには、人生をより有意味にすることが出来ないことは確かである。

 

果たして、この意味が皆が「善のために生きる」とする「善」の内容を説明するものだろうか。それを確かめるためには、この典型的な「善」を挙げればよい。将来世代や人類に貢献する、家族を作る、性交する、アニメの世界を堪能する、世界を呪詛する、真理を探究する…どれを挙げても、生や経験の外部へ向けての影響や態度を志向した理由である。美味しいものを食べるために生きる、より気持ちよい自慰をするために生きる、というのはあまり聞かない。もしそういう人がいるにせよ、これまでに経験しなかった未知の世界に触れたいという志向がそこにはある。

彼らが言う「善」の成分のうち、生きているから必要となる善ではなく、そのために生きる意味こそが、彼らが生きる理由なのである。

 

最後に、なぜ意味が求められるかが説明されるべきだろう。私が定義した意味が取るに足らなければ、彼らが意味のゆえに生きることは説明できない。

私は主張する、善が自由な生を送るのに足りないから、生がそれ自体としては満足がいかないものだからこそ、生の外部を参照して、人生を耐えうるものとすべく意味が要請されるのだと。この意味で、意味は善に対する次善なのである。

大多数の人の生は労苦や苦痛で一杯であり、現在の自由、そして将来の自由にも程遠い。しかし、彼らに不自由な生よりも自由な死を選ぶ潔さは無い、したがって自らの生き続けることを合理化する理由として、意味が要請されるのである。意味は溺れる人がつかむ藁にも等しい、ニーチェが言うように我々は苦痛には耐えられても、意味が無いことには耐えられないのである。

彼が主張したように、意味は近代までは生無き宗教や真理の楽園に求められた。そして彼がこれらの「神」々に死刑判決を下した後の現代も、「社会」や「他者」という生の外部に意味が求められ続けているのである。

 

求められる理由に限らず、この意味はどこまでも次善的である。先に述べた、意味が生の境界にあって生、経験で完結しないということから、生の内部で完結する善が自体的な意義を持つのに対して、意味が単なる外在的なものでしかないことがわかる。そして自体的な善が自由に属するのに対し、外在的な意味は生の外の何かのため、即ち他律に属するのである。

 

しかし、ここまで意味を批判しておきながらも、私は意味を求める人「間」の性は否定はしない、むしろ、意味こそ我々が「個人」ではなく「人間」である限りの善ではあるかもしれない。したがって、動物的な善が、人間的な善に必ずしもならなくても重要であるように、人間的な善の一つである意味も、それが個人的な善に必ずしもならなくても重要であることには変わりはないのである。

意味は必要だが、意味が必要ないほど善が十分であることに越したことはなく、善も必要だが、善が必要ないほど自由であることに越したことはないのである。