エピクロスの倫理観について

エピクロスは、古代ギリシャ(ヘレニズム期)の思想家である。

彼は哲学の中でも倫理学、そして倫理の中でも幸福を最重要のものとして探究した。

彼によれば、幸福は主観的な快楽、とくに心の平穏による静的快楽(アタラクシア)であるという。これは、客観的な徳の発揮が幸福(エウダイモニア)だと考えたアリストテレス、快楽の中でも享楽的な快楽こそが良いと考えたキュレネ派と対照的である。

さらに彼がユニークなのは、死が無害、つまり死によって幸福は損なわれないと考えた点である。彼はむしろ、死は無害だという真理に心から納得して、死に対する不合理な恐怖を克服することが、幸福には必須だと考えていたのである。

残念なことに、彼の著作の大部分は失われており、彼の教義も体系的とはいいがたい。それでもなお、現代の哲学者達は整合的で体系的な解釈をエピクロスの思想に与えようと試みている。

私はとくに、以下のように解釈されたエピクロスの倫理観に共感を覚える。

この記事では、それぞれの主張に関する説明を述べたいと思う。(*1)

 

Ⅰ.エピクロスの快楽主義

1.静的快楽は、単に苦痛が無いことではなく、苦痛が無いことに対する肯定的な態度である。

2.ある時点における静的快楽の大きさ、あるいは強度(価値)には上限がある。

3.既に静的快楽が得られている場合、その時間が長引いても、静的快楽の大きさ(価値)は増えない。

4.ある人にとって良いのは静的快楽のみであり、悪いのは苦痛のみである。

5.2~4より、動的快楽を得たり、(いったん静的快楽を得たならば)生き続けることは、より良いことではないが、追求するに越したことはない。 

 

Ⅱ.直接的死無害説

6.死それ自体は、苦痛も静的快楽ももたらさない。

7.(4および6より)死は、死ぬ本人にとって、直接的には良くも悪くもない。

 

Ⅲ.総合的死無害説

静的快楽をすでに享受した人の場合、

8.(2および3より)今すぐ死んでも長生きしても静的快楽の大きさは変わらない。

もし、今すぐ死んでも、長生きする場合に比べて苦痛が増えない場合(例えば無痛・無自覚な死であれば)

9.(4および8より)死は、死ぬ本人にとって、総合的にも悪くはない。

 

Ⅳ.批判(受け入れがたい帰結)

静的快楽をすでに享受した人の場合、

10.将来少しでも苦痛を被ることがあれば、無痛・無自覚な安楽死は、死ぬ本人にとって総合的に良い。

 

Ⅰ.エピクロスの快楽主義について

1.静的快楽の定義 

彼は、快楽を動的快楽と静的快楽の二つに分類する。

動的快楽は、食事、入浴、性交による快感など、欲求が満たされる過程において生じる快楽である。対して、静的快楽は、肉体的苦痛や精神的不安が無いことや、満たされない欲求が無いことによりもたらされる快楽である。

それでは、苦痛や満たされない欲求が全くないことそのものが静的快楽なのかというと、そうではないと私は思う。もしそうだとすると、昏睡状態などの状態が、最も静的快楽に溢れていることになってしまうが、これはおかしい。

苦痛がないというだけではなく、それに対して肯定的な態度を抱かなければ、快楽とは言えないのではないだろうか、とFred Feldmanは提案する。彼は、静的快楽とは、自分自身が苦痛や不安を感じていないことに対する(態度的)快楽だと解釈している。

この態度的快楽は、快感とは厳密に区別される。快感は単なる感覚であるのに対して、静的快楽を含む態度的快楽は、ある命題が成立することに対して好ましく思う態度なのである。私もこのFeldmanの解釈に基本的には同意したい。(*2)

 

2.静的快楽の強度には上限がある

エピクロス自身、主要教説の3.でこう述べている。

「快の大きさの限界は、苦しみが無く除き去られることである」

確かに、苦しみが全くない状態以上に、静的快楽は大きくなるときはないだろう。しかし、苦しみが全くない状態でも、いろいろな状態がありえる。苦しみがないことに全くありがたみを感じず、平然としている時もあれば、過去に経験した苦しみがないことを喜んでいる場合もある。後者のほうが静的快楽が大きいのではないだろうか。

Clay Splawnは、静的快楽は、単に苦痛がないことのみならず、過去に経験した苦痛が無いことに対する態度的快楽である、と解釈している。彼によれば、過去にどれだけの苦痛を経験したかが、静的快楽の大きさの限界であるという。

もちろん、過去に経験した苦痛は、静的快楽の大きさに影響するだろう。しかし、その人の気質や、人生に対する態度(感謝)など、他のファクターもあると思われる。ただ、それらを考慮しても、苦痛が無いことに対して抱く快楽には、先天的・後天的に決まるリミットがあるのではないか、と私は直観的に思うので、2.には同意しよう。

 

3.静的快楽は時間が長引いても増えない

物議をかもし、皆の直観に反するであろう主張が、3.である。

Steven.E.Rosenbaumは、苦痛がないことによる静的快楽を、病気や怪我のない健康になぞらえて、次のように説明する。動的快楽や、苦痛や病気には強度があり、持続することによりそれは増大するだろう。しかし、苦痛や、病気・怪我が全くないことによる静的快楽や健康には強度がなく、持続することで増えもしないのだと。

確かに、もし静的快楽が、苦痛がないことそのものであると解釈すれば、そうだろう。しかし、1.では静的快楽は苦痛がないことに対する積極的な態度であり、2.で強度を持つと解釈したのである。それならば、長引くことで大きさも増えるのではないだろうか。

この疑問に対しては、エピクロスは、いったん静的快楽の境地に達すれば、その時点で人間の本性は充足され、人生の目的は達成されると考えていたと言われる。その後にどれだけ静的快楽が続こうとも、すでに満たされた人生に付け加わる価値はない。どれだけ長く静的快楽が継続するかではなく、どれくらい快い静的快楽に達したかどうかが重要だというのである。(*3)

 

もし彼の意見を受け入れるならば、例えばこう定式化できるのではないだろうか。

3S:人生における静的快楽の大きさは、人生全体を通じた静的快楽の強度の最大値である。

 

4.静的快楽としての幸福

エピクロスはいわずとしれた幸福(well-being)に関する快楽主義者である。

・ある人にとって良いのは快楽のみであり、悪いのは苦痛のみである。

とくに、彼は動的快楽よりも静的快楽を重視したといわれる。私は次のように解釈する。

・ある人にとって良いのは静的快楽のみであり、悪いのは苦痛のみである。

これより、以下のように定式化できると思う。

4S:ある人の人生の価値は、静的快楽の大きさから、苦痛の大きさを引いたものである。

 

では、動的快楽の価値についてはどうだろうか。確かに、彼は美食などによる動的快楽にも一応限定的な価値を認めていた。しかし、 私は、エピクロスは動的快楽には、静的快楽をもたらす限りの手段的価値しかないと考えていた、と解釈する。(*4)

我々はしばしば、美味などの動的快楽を直接欲求し、それが得られないことに対して未練や不満を抱く。その場合、動的快楽が得られれば、満たされない欲求が減ることによって静的快楽がもたらされるだろう。

むろん、エピクロスが贅沢な動的快楽を追求することに対して、欲を増長させるなどの理由から戒めていたのは周知のとおりである。動的快楽が、静的快楽をもたらすどころか、損なう可能性もあるのであり、エピクロスはこちらの可能性を危惧していた。ただ、悪影響がない場合に限れば、彼は動的快楽にも限定的な価値を認めていた。

 

5.動的快楽や生の、価値中立的な追求

4.で述べた通り、幸福に寄与するのは静的快楽のみで、動的快楽は直接寄与しないが、だからといって動的快楽を追求すべきでないというわけではない。動的快楽はそれ自体価値のあるものではないが、好ましいものではあるからだ。動的快楽に耽り、依存してしまわない限り、動的快楽も追求するに越したことはないのである。

エピクロス主義者たちは、動的快楽を欲求し、可能であればありがたく享受するが、だからといって実際に得られなかったとしても嘆いて苦痛を被るような真似はしない。動的快楽に対する欲求は、完全に価値中立なのである。

同じことは生きることそれ自体についてもいえる。8.で再び述べるが、一度静的快楽の境地に達したならば、2.および3.より、生き続けても静的快楽の大きさがさらに増えるわけではなく、したがって4.よりさらに幸福になるわけではない。

しかし、生き続けて、静的快楽が長い間楽しめることや、さらに多くの動的快楽を楽しめることは、好ましいことではある。だから、生き続けられるならば、生を享受するにこしたことはない、だからといって生き続けられなくても嘆きはしない、というのがエピクロス主義者達のスタンスなのである。

 

 

死無害説

 エピクロスは上記の快楽主義から、死は死ぬ本人にとって悪くはないと結論づけている。ここで、死は悪くはないという主張にも二つの意味があることに注意すべきである。

・一つは、死が直接的に悪くはないという主張である。

例えば、足の骨折は、それ自体が悪い、もしくは足の痛みをもたらすから悪いことである。足の骨折それ自体が悪いか、悪い出来事をもたらすという意味において、足の骨折は直接的に悪い。死はこのような意味では、直接的には悪くないというのが一つ目の主張(直接的死無害説)である。

 

・もう一つは、死が総合的に悪くはないという主張である。

例えば、足の骨折をすると、足が痛むという直接的な害悪以外に、本来は行けたであろう明日の散歩に行けなくなるかもしれない。このような間接的な影響も考慮すると、足の骨折をした場合、他の条件が同じで骨折をしなかった場合に比べて総合的に人生が悪くなるという意味で、足の骨折は総合的に悪い。死がこのような意味でも、総合的には悪くないというのが二つ目の主張(総合的死無害説)である。

 

Ⅱ.直接的死無害説

6.死は苦痛ではない

死には二つの意味がある。

a) 死ぬまでの過程(dying)

b) 死ぬ瞬間の出来事、および死んでしまった状態(death or being dead)

大抵の死に関しては、a)が苦痛なのは間違いないだろう。病死、事故死、殺害の例をとっても、最期の瞬間は悲惨なものである。(無痛無自覚な死という例外はあるが)

しかし、b)はどうだろうか。死ぬ瞬間およびそれ以降は、我々はすでに死んでいるのだから、苦痛を感じることは出来ないはずである。したがって、b)は苦痛を伴わないし、苦痛をもたらさないのである。(*5)

死をb)の意味で捉えるならば、6.の主張は疑いようがないと思う。

 

7.死は直接的には無価値である

主張7.は、4.および6.の帰結である。死は苦痛や静的快楽をもたらさない。したがって、4.より、悪い出来事や良い出来事をもたらさない。よって、死は死ぬ本人にとって、直接的には悪くはないと結論づけられる。

 

Ⅲ.総合的死無害説

8.死は静的快楽を奪わない

2.で存在すると主張した、苦痛が一切ないことによる、静的快楽の強度の上限Uを既に享受した人がいるとしよう。

その場合、3S.より静的快楽の大きさは強度の最大値であったわけだから、もし彼が今すぐ死んでも、さらに長生きしても、彼の静的快楽の大きさは、人生全体を通じた静的快楽の強度の上限=Uから変わらないのである。

 

9.死は総合的には悪くはない

8.より、ある人が今すぐ死ぬ場合も、生き続ける場合に比べて、静的快楽の大きさは減らない。もし、今すぐ死ぬ場合、生き続ける場合に比べて、苦痛の大きさは増えはしないと仮定すると、少なくとも、今すぐ死んだ場合、今すぐ死ななかった場合に比べて総合的に人生が悪くなりはしない。つまり、死は、死ぬ本人にとって、総合的にも悪くはないのである。

 

Ⅳ.エピクロスの倫理観に対する私の批判

10.無痛・無自覚な安楽死の肯定

エピクロスは、死は直接的にも総合的にも悪くないと主張していた。では、エピクロスによれば、死んでしまったほうが良いことはあるのだろうか。

7.より、死は直接的には良くはないのは明らかである。しかし、死が総合的に良いことはあるのではないか、と私は思う。それどころか、ほとんどの場合、死んだほうがいいということになりはしないか、と思う。

例えば、ある人が今は静的快楽を享受しているとする。そして、将来にちょっとでも苦痛が待ち受けているとする。

その場合、もし無痛・無自覚に安楽死できるならば、今すぐ死ぬほうが、生き続ける場合に比べて苦痛は減るだろう。対して、静的快楽は生き続けても増えはしない。したがって、今すぐ無痛・無自覚に安楽死した場合、しなかった場合に比べて総合的に人生が良くなるのである、つまり苦痛があるくらいなら安楽死したほうがマシということである。

 

将来にちょっとでも苦痛があれば、無痛・無自覚な安楽死したほうが良いというのは、多くの人にとって受け入れがたい結論ではないだろうか。また、いくら静的快楽の積極性をとなえたところで、死が最大の幸福と説いて自殺を勧めたヘゲシアスと、帰結が変わらないではないか。

しかし、実際のエピクロス主義者たちが、自殺を極力さけていたのは事実である。彼らは、生を快いものとして捉えていた。もしかしたら、エピクロスが尿管結石で死ぬ間際に過去の快い思い出を想起したように、大抵の苦痛は快楽で相殺でき、取るに足らないのかもしれない。とはいえ、快楽をうわまわる苦痛はあるだろうし、そもそも苦痛が快楽で相殺できるか、疑わしい。いくら鍛錬をつんだエピクロス主義者でも、人生が辛い瞬間はあるだろう。

それではなぜ死なないのか、と彼らは聞かれるだろう。彼らはこう答えるに違いない。生き続けても、我々の人生の価値は増えるどころか、苦痛で減るかもしれない、しかし、5.で述べたように、より多く、長い動的快楽や静的快楽を味わいたいから生きるのだと。

人生の価値が減っても、快楽を味わいたいから生きるというのは、確かに態度として矛盾はしていないだろう。しかし、その場合、彼らの生き続けたいという欲求は、本来持つべきではない不合理な欲求だとは言えないだろうか。

 

11.まとめ

エピクロスの倫理観は、死の恐怖を避けようとしたあまり、死に対してあまりに友好的過ぎないか、と私は思う。大半の人は、死に恐怖しながらも人生をより良くしようと努力し続けたいのであり、満足した抜け殻のようにはなりたくないのである。ましてや、ちょっと苦痛があるだけで死が望ましいなどとは思いたくないのである。

10.のように、苦痛を被るくらいなら安楽死したほうがマシだという結論に至る元凶となったのは、やはり3、つまり(静的)快楽は時間によって大きくならないという主張である。とはいえ、これを諦めるならば、Ⅲ総合的死無害説は成立しない。エピクロス主義者はジレンマに面することになる。

私は、このジレンマは解決不可能だと思う。そのうえで、エピクロス主義は10.を認めざるを得ないのではないかと思う。死無害説は、彼の主張の一つの結論に過ぎないにせよ、静的快楽(アタラクシア)を達成するための重要な信条であったわけだから。

ちなみに、私もエピクロス主義同様、10.に同意する。ではなぜ安楽死しないかというと、すぐ安楽死すると今知ることが怖くてたまらないからである。つまり、今の自分の利益のために、死を先延ばしにしている次第である。

しかし、刹那的快楽主義を戒め、一線を画するエピクロス主義はこのような合理化が出来ない。そもそも、彼らは、死が怖いという理由すら利用できない、死は恐れるべきではない、と主張しているのだから。結局、10.で述べたように、彼らは、価値は増えずとも、快いから生きたいと言うほかはないのである。これが彼らにできる最大限のいいわけである。

以上に述べたように、エピクロス主義には重大な問題がある。しかし、私は快楽主義や、死無害説につながる彼のこころにはかなり共感する。だから、彼の精神を引き継ぎつつ、一貫した倫理観を模索したいところである。

 

 

*1:私は、歴史上実在したエピクロスの思想の解釈よりも、以下の解釈によるエピクロス主義の妥当性に興味があるため、解釈の問題には極力触れないつもりである。

 

*2:ただ、私は彼の態度的快楽の考えそのものには同意しない。快楽は態度そのものではなく、例えば態度のような経験が含む快さという質だと考えている。

 

*3:実際エピクロスメノイケウス宛の手紙でこう言っている。「食事に、いたずらにただ、量の多いのを選ばず、口に入れて最も心地よいものを選ぶように、知者は、時間についても、最も長いことを楽しむのではなく、もっとも快い時間を楽しむのである。」

 

*4:もし大きさに際限のない動的快楽にも内在的な価値があるとすれば、幸福に限りがないことになってしまい、これは彼の幸福観とは相いれない。また、彼はメイノケウス宛の手紙でこう明言している。

「快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、―― 一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとは違って ―― 道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない。」

 

*5:なお、1.の解釈より、死は静的快楽(安楽)ももたらさないという点に注意である。単に苦痛が無いことではなく、それに対して快楽を抱くためには、生きていなければならないからである。