刹那主義について

1.二種類の私概念について

私という概念には二種類ある。

 

一つは、生まれてから死ぬまで同一の「私」である。普通我々は、例えば昨日晩御飯を食べたのも、明日仕事で働くのも、すべて同じ「私」だと考える。そして、昨日晩御飯を食べた楽しみや、明日の仕事のつらさは、すべてその同じ「私」にとっての利益や害悪であると考える。この「私」は自己同一性を保ちつつ、時間の中を生きる「私」である。

 

対して、次のような考え方もできる。<私>が昨日晩御飯を食べた時は、今日の<私>や明日仕事をする<私>はいなかった。今日の<私>がこう考えているときは、昨日や明日の<私>はいない。明日仕事をするときも、昨日や今日の<私>はいないだろう。それぞれの<私>がいるとき、他の<私>がいないということは、昨日、今日、明日の<私>は別々の存在ではないだろうか。

 

また、昨日の晩御飯の楽しみはあくまで昨日の<私>のものであって、明日の仕事のつらさもあくまで明日の<私>のものに過ぎず、今日の<私>は両者とは無縁なのであると考えることもできる。昨日、今日、明日の<私>は別々の利害の主体なのである。

 

2.刹那主義

以上のように私を、時を通じて同一な利害の主体「私」として見ることもできれば、時によって別々な利害の主体である<私>達の集団として見ることもできる。どちらの見方がより実体的で、どちらがより観念的だろうか。

 

常識によれば、「私」がいるからこそ、各時点を生きる<私>がいると考えられている。しかし、仮に「私」を想定しなくても、各時点を生きる各々の<私>達が存在することは矛盾なく想定できる。逆に、各時点を生きる<私>達を想定しなければ、「私」を想定することはできないのである。つまり、「私」がいて、その時間的限定として初めて<私>達がいるというよりは、<私>達がいて、その時間的統合として初めて「私」はいるのである。したがって、「私」は<私>達という想定の上に行われたさらなる想定であり、より観念的なのである。

 

また、「私」が仮にいたとしても、その者が一つの利害の主体かどうかは疑わしい。実際、例えば今日高い食事をする場合、それは今日の<私>にとっては(美味しいから)利益であっても、明日以降の<私>にとっては(金が減るから)損失である。この場合、今日高い食事をすることは、「私」にとって利益か損失のどちらだろうか。

 

これに対しては、今日の利益と明日以降の損失を足し合わせれば、全体としての「私」の損益になる、と皆は言うだろう。しかし、この損益の総和というのは、また観念的な代物である。なぜなら、総和された損益を、今日高い食事をするという出来事に対して、直接見出す主体はどこにもいないからである。あくまで、今日の<私>、明日以降の<私>達が、それぞれ利益や損失を見出しているだけである。

 

 以上より、利害の主体としては、<私>達がより実在的で、「私」は単なる観念的な仮構に過ぎないと言えるだろう。このように、時間を通じた同一者「私」よりも、瞬間的な存在である<私>達を実体的と捉える立場を、刹那主義と名付けよう。

 

3.「私」と<私>達の関係

上では、「私」は<私>達の時間的統合であると述べた。このような見方をすれば、「私」が全体で、<私>達が部分なのである。そして、「私」の利益は、<私>達の利益の総和なのである。

 

しかし、「私」は同時に今の<私>が抱く観念でもある。したがって、今の<私>が全体で、「私」が部分であるという独我論的な見方もできる。そこでは、「私」の観念的な利益が達成されると信じられることが、今の<私>の利益の一部をなすに過ぎない。

 

「私」において統合される、過去や未来の<私>達の全てが、今の<私>が抱く観念であるからには、「私」が今の(そして各時点の)<私>の観念であると考えるほうがより正しいのだろう。

 

さてその場合、「私」という観念でも、どの時点の<私>が抱くかによって内容が変わりゆく。例えば学者を夢見ていた小さい頃の<私>が抱いた「私」は、真理の探究に身を捧げる人生を生きる者だっただろう。対して、今サラリーマンをしている今の<私>の抱く「私」の人生は、抽象的な真理とは無縁の職業実践に身を捧げる人生である。

 

このように、「私」は、時々の<私>達を起点におこなれる観念的な仮構であり、「私」の内容も<私>達の変化に引きずられていくのである。

 

 

以上のような刹那主義をとることの帰結はどういうものだろうか。

 

4.無痛・無自覚な突然死は害悪か

常識によれば、死は無痛で無自覚であっても死ぬ本人にとって害悪だと言われる。これは本当だろうか。

 

まず、「私」にとって、ほとんどの場合死は害悪である。「私」にとっての利害は、<私>が各時点で経験する利害を総和したものであった。もし、死ななければ「私」が概して幸福な人生を送れるとした場合、死ぬことでその幸福を得られないのは、確かに剥奪として悪いことである。

 

他方で、どの時点にとっての<私>にとっても、死は害悪ではない。生きている間の<私>達は、死を経験するどころか、その痛みや自覚もないで過ごせている。対して、死んでしまってからは、死を経験する<私>達そのものがいないのである。

※「私」にとって死は悪いことであっても、「私」にとって悪い死が到来すると信じられない限り、今の<私>にとって悪いことではない。したがって、無痛・無自覚な死は、今の<私>にとっては無害なのである。

 

死は「私」にとって害ではあっても、どの<私>達にとっても無害であることが主張できた。死は「私」に対して観念的に有害なだけであり、<私>達には無害なのである。

 

ここで、次のように反論されるかもしれない。死を免れることができれば、死なずに生きられたたくさんのハッピーな<私>達がいたかもしれない。それに比べ、死んで彼らが存在できないのは直接的ではなくとも、比較的には悪いことではないかと。

 

しかし、仮に死ぬ場合、生きて幸せになるはずだった<私>達が、おのれの非存在を嘆くわけではない点に注意である。彼らは機会損失を被って嘆くまでもなく、存在しないのである。だから、死んだ場合は生き続ける場合より悪いとする理由が無い。

これはちょうど、幸せな子供が生まれないことが、生まれることに比べて悪くはないのと同じことである。

 

※確かに生き続けた場合は、たくさんのハッピーな<私>達が存在できる。もし彼らが存在した場合を基準にすれば、死んで彼らがもとから存在しなかった場合は悪いと言えるかもしれない。しかし、死ぬのが生き続けるよりも悪いと言えるためには、あくまで死んだ場合を基準として、死ぬほうが生き続けるより悪いと言えなければならない。

 

したがって、以上のように刹那主義を前提とすれば、死は、あくまで無自覚・無痛である場合ではあるが、無害なのである。

※以上のような死無害説を初めて提唱したのは、古代ギリシャの哲学者エピクロスである。彼は原子論者であったが、原子論を徹底するあまり、私と同様、(個人ではなく)各時点の個人こそが利害の最小単位だと考えていたのではないかと私は考えている。

 

 

私が実際に自殺をせず、死を避けるのは、死が自覚的で、苦痛に満ちているからである。もし自殺をしてみようものなら、自殺の直接的な苦痛の他、「私」に死が害を与えられると信じられることに対して、<私>は耐えられないだろう。

 

5.脳障害を負ってまで幸せになることは幸せか

最後に次のような例を考えよう。

・私が、自覚や痛みを感じる間もなく、事故にあったとする。私は一命を取り留めたが、重度な脳障害を負い、精神状態が幼児まで退行してしまった。事故に遭うまでは私は学問や芸術に打ち込んでいたが、遭ってからは赤ん坊のように可愛がられて幸せに生きたという。

この場合、事故にあっても私は幸せだろうか。

常識的なほとんどの人は、とても幸せそうではなく、可愛そうだというだろう。では、だれが不幸なのだろうか。事故に遭ってからの幼児としての私が幸福であることに異議はないだろう。不幸なのは、事故に遭う前の私である。

確かに、事故に遭う前の私が抱いていた観念的人格「私」にとって、事故は不幸なものであるに違いない。「私」は学問や芸術に打ち込んでこそ幸せな人物である、赤ん坊扱いされて幸せになっても、その「私」として幸せなことではないだろう。

対して、事故で不幸を被った<私>達は誰一人としているだろうか。事故に遭う前の<私>達は、もちろんなんも害を受けていない。事故に遭った後の赤ん坊同然の<私>達も、皆可愛がられて幸せである。

したがって、事故は「私」にとっては観念的に不幸な出来事であっても、<私>達にとっては幸福に変わりがない出来事なのである。

 

私はもし余裕があれば、このような事故を避けようとするだろう。知る限りで「私」にとっての不幸を避けたいというのは、今の<私>の利害の一部だからである。しかしもしこの事故が無害・無自覚に突然やってきたのなら、確かに幸福なことだと思う。

 

 6.まとめ

皆は、時間を通じて自己同一な「私」という観念をいだき、「私」にとっての死や自己喪失の害悪など、観念的な善悪を重んじている。確かに我々は観念の中に生きる存在かもしれない。そもそも時間自体、観念の一種だからだ。

しかし、「私」にとっての、例えば死の観念的な害悪は、死の観念を今の<私>が抱いてこそ実際に悪いのである。したがって、本当に悪いのは、死ぬことそのものではなく、死ぬことを知り観念を抱くことなのである。

死に限らず「私」という観念にとっての善悪を、刹那主義的に、より実在的な<私>にとっての善悪に還元してみれば、他の多くの恐怖や悩みも解消されるのではないかと思う。