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善と有用性について

あらゆる活動は二種類に分類される。①それ自身のために行われる活動と、②他の目的のための手段として行われる活動に。


善い活動があるのだとしたら、それは本来①に属するべきものである。善は他の何を持ち出すまでもなくそれ自体のゆえに望ましいものだから、①しか該当するものがないからである。これには例えば、前に挙げた観照や、遊び、成果を目的としない創作活動があげられるだろう。これらは自らが主体となる能動的な活動だが、娯楽や飲食などの消費活動も、他に目的を持たないという点で、これにあてはまる。

対して②の意味で善い活動は、その目的が善いがゆえにそうであるに過ぎない。その善さは目的の善から派生したものに過ぎず、財の利用価値ゆえに生まれる貨幣の交換価値のように、第二義的なものである。それらは善いというよりは、何らかの目的に対して有用であるとか、役に立つと呼ぶべき類の活動だろう。有用な活動は、我々が生活や仕事で行う大半のことを占める。労働にしろ、家事にしろ、ある望ましい結果の手段として行われる活動は全て、有用である。

 

次に両者の相違点を述べる。

・①善い活動は、ほかの目的を引き合いに出すまでもなくそれ自体が善い、つまり善は絶対的である。対して、「無用の用」の故事成語にあるように、何を目的とするかの違いによって、有用なものが無用となり、無用なものも有用に変わりうる。つまり②有用性は他の目的ありきの相対的な概念なのである。

・②有用な活動は、アウトプットありき、つまり客観的な成果物を目的とすることがほとんどである。したがって重点は、過程よりも結果、アウトプットにある

対して、①善い活動はアウトプットを伴うことがあっても、アウトプットを生み出すために活動するのではなく、むしろより善く活動するためにアウトプットを行うのであり、重点は結果よりも、活動そのものの過程にある。

例えば、考える過程そのものを楽しみたいという場合でも、明晰に思考できるためには、思考内容を文章にアウトプットすることが必要となるだろう。しかしこのアウトプットは考える目的ではなく、あくまでよく考えるための補助手段である、つまり書くために考えるのではなく、考えるために書くのである。

 

以上に述べたことから、①善の、②有用性に対する優位は明らかである。にもかかわらず、現代では何かにつけ、①善が軽視され、②有用性、つまり役に立つアウトプットが求められがちである

・まず、遊びや哲学・芸術活動のように本来は①それ自身善いから行われることに対しても有用性を問い、「役に立たない」ことを揶揄する声が絶えない。①の類の善き活動は、むしろ他の目的に役に立たないからこそ、それ自身を目的とする善であるというのに。

・また、「プロ信仰」も有用性偏重の一形態である。②金が稼げる有用性のゆえに活動を行うプロを、①非営利でも楽しいから活動を行うアマチュアよりも上に見る風潮は、有用性を善に対して優位とする見方の表れである。

 

確かに、役に立たぬと切り捨てる人々にとっては、他人の遊びはくだらなく、哲学や芸術もなんも面白くはないのかもしれない。他人にとっては善い活動でも、自分にとって善くなければ、残りの価値である有用性を問うのも不思議ではないことだ。

しかし、なかには、自分のなすことの全てを、一々コスパや効率など有用性の尺度で計ろうとする人々がいる。一体彼らは、それ自体楽しいからするような活動に没頭したことはないのだろうか。もしそういった経験があれば、そのような活動の善さは、有用性の尺度では計れないことを知っているはずである。

 

もし彼らが楽しみとするような活動がないのだとしたら、彼らは一体何のための有用性を追求しているのだろうか。我々は生きることを楽しむためにこそ、有用な仕事や生活をこなしているのではなかったのか。
だが確かに、有用性は善の追求のためだけにあるわけではない。悪を、つまり面倒や苦しみを避ける助けとなることもまた有用である。もし彼らが善とすることがないのならば、彼らが有用な活動にばかり勤しむのは、悪を避けるためであると説明がつくだろう。


このように、ただ悪を避けるための有用性にとらわれることは病理以外のなにものでもない。もし悪を避けることが目的ならば、生きることをやめることが最も有用な手段であり、悪を避けるべく生きるというのは、根本から破たんした生き方だからだ。確かに、病気に苦しんでいる状態ではしたいこともろくにできないように、悪がないことは善の前提条件かもしれないが、それは本来目的ではなくて手段に過ぎないはずだ。にもかかわらず、それが目的と化してしまったのは、本来の目的である善を見失ってしまったからではないだろうか。

 

この有用性至上主義ともいうべき病理が蔓延する現代社会の背景には、必要や規範で雁字搦めになり、自由に善を追求できない社会環境があるように思う。今日、我々の日常は「~しなければならない」で一杯である。我々は多くの財やサービスを必要とし、それらを入手するためにたくさん労働しなければならない。そのためには定刻通りに出勤しなければならないし、与えられた仕事をこなさなければならない。またちょっとした社会規範からの逸脱も許されず、インターネット等で激しい非難の対象となる。そして、このような仕事や規範をそもそも形作る、経済や法律は、我々をそのような必要や義務から自由にするどころか、より多くのニーズの虜とし、より多くの法規を強制する方向に発展している。

このような否定性にあふれた社会においては、皆が悪を避けること、つまりしなければならないことを行い、してはならないことを避けることに専念する不自由のあまり、したいことを自由に追求をする余裕がなくなっているのではないか。本来は人間をより自由にするために存在する社会や経済が、結果として人間をますます必要と義務に束縛された不自由な存在に貶めている現状は、制度設計の誤りであるとしか言いようがない。