世界を憎んで人を憎まず

世の人はよく他人を責め、憎む。面と向かって他人に対して怒ることもあれば、陰で悪口を言うこともあり、その形態は様々だが、悪を他人に帰属させているという点では共通している。

対して私は、害悪をもたらす他人を避けることはあるが、その害悪の根源をその人自身には認めない。むしろ、彼を害悪をなすように強いた環境、ひいてはこの世界全体こそが悪の元凶だと考える。

例えば他人の配慮を欠いた行為で不快感を被ることがあった場合、その行為の直接的な原因は行為者であるその人ではあるが、彼がそのような行為に至るのにもさらなる原因があるはずだ。

このように根本原因を求めていくと、他人に配慮している余裕がないほど劣悪な環境で育ったり、生まれつき発達障害を患っていたり等、かならずその人には帰属しない原因に辿り着く。そして最終的には、本人が望まないにも関わらず、悪しき障害を持って生まれ、悪しき環境で育つことを強いられるようなこの世界こそが、全て悪の原因ではないだろうか、といつも思うのである。

 

こうした環境や世界にある人の悪の原因を求める考え方には、きまって彼は「自由意志」でなんとかしようがあったではないか、という反論がなされる。確かに、もし同じ劣悪な環境に育っても、人によって育ち方は様々である。努力して生まれの悪さを克服する人もいれば、怠けて環境に流される人もいる。

しかし、この努力ができるか否かを含め、全てが人の意思に由らないところで決まっているとする決定論を私は取り、この決定論と相いれないような「自由意志」を否定する

量子力学における波動関数の収縮という非決定性を持ち出して決定論を反駁するのは自由だが、私は波動関数の収縮で取りうる固有値も、不可知にしろ、全て決まっているとする立場である。また、仮に決定論が誤っているとしても、微粒子の確率的な挙動は、自由意志の存在を保証するどころか、脅かすものである。なぜなら、確率的な挙動は、意志した通りに従わないもので、思った通りになること、つまり意志の自由を阻害するからだ。決定論が正しいか否かに関わらず、何にも決定されないという意味で自由な意志など、存在しないとするのが私の立場だ。

さて、私のこの考え方によれば、全ての悪行は(善行も)、ある人が自らを原因として行ったものというより、環境や世界により、行うよう仕向けられたものになる。実際、世界がこれほど酷くなければ、どれだけの悪事や悲劇が避けられたことだろうか?

例えば、もし熱力学の第二法則が成り立たず、自由エネルギーが限りなく生み出されたとすれば、限られた資源を奪いあう争いや競争は起きなかっただろうし、心身を削る労働を強制されることも、それに関するトラブルもなかっただろう。逆に言えば、争い、盗み、妬みなど、資源の有限性に起因する諸悪は、全て世界が従うこの法則により決定づけられているといえる。

いかなる悪も、大本を問えばこの世界がかくも理不尽に、過酷にできているからこそ生じたものであり、悪行をなした人というのは加害者であるというよりも、害を加えるべく強いられた被害者なのである。我々は皆等しく、この悪しき世界の犠牲者なのである

 

しかし、このように「全ては世界が悪い」と、全ての悪の原因を大本の世界に帰してしまうと、悪をなした人に行為の責任を問うことが出来ないと懸念する人がいるだろう。私もこの「責任」が必要な概念であることに異存はない。なぜなら、なした悪行の責任が問われ、制裁が課されることがなければ、抑止が出来ないからである。

だが、責任を基礎づけるために、決定論と相いれない自由意志をわざわざ持ち出す必要はない。例え我々が全ての行為が決定されていようと、悪いことをしないように決定するために、責任と紐づいた制裁をちらつかせることは十分に意味はある。責任とは、悪いこともできる行動の自由と引き換えに課せられる、悪事に対する制裁の可能性であり、悪行や過失に対する抑止力である

この責任から逃れられるのは、悪いことをするか否かを選択する能力の無い人や、制裁として課せられた義務を履行できない人である。彼らに対しては責任による抑止は無用である、したがってそもそも悪いことをする行動の自由を、例えば物理的な手段で制限するのである。(犯罪に走ってしまいかねない知的障碍者を「入院」させるのはその一例である。)

以上で述べたように、自由意志という偽造貨幣が無くても、「行動の自由」と「責任」のセット販売は自由にできるのである。

ただ、(全ては「世界のせい」なのだから)上で述べた責任の概念は、悪行の抑止のための方便としての意義しか持ちえないだろう。善や悪が誰かのせいやおかげであることにするのは、悪を抑止し、善を奨励するためのインセンティブに過ぎない。

 

以上に述べた私の倫理観には確かな道徳的な効用がある。悪いことを人のせいにして責めることがないから、他人の悪に対して寛容になれるだろう。だからといって悪を看過するわけではなく、怒りや憎しみといった負の感情を排し、責任の概念を利用することで冷徹に悪の抑止に努めることができるのである。

厭世的な私の立場に比べ、世界が祝福されていると考える楽天主義や、社会が公正にできているとする信念の類は一見ポジティブに見えるだろう。しかし、世界を告発せずに、悪を自己責任に帰して責めがちなこれらの態度は、不寛容で厳しい一面も持つ。なるほど優しさだけではこの世界で生きられないだろう、だが、それゆえに私はこの世界を究極の悪者扱いしているのである。