我々は何をすべきか

世の中には二種類の人がいると思う。一方は、したいようにすべきだと考える人。他方は、すべきようにしたい人。前者はwantこそが、後者はshouldこそが根本的な行動原理だと考えている。

私は後者に属する人間である。ただしたいようにするだけならば、人間以外の動物でも出来る。たいして、我々人間は、したいことを本当にすべきか、するに値するかを反省できる存在である。私はそのように、吟味された倫理的な人生を生きたいと思っている。

そこで必要となるのが、何をすべきか答えを与える理論Xである。

理論X:ある状況Cの下で、ある人Pがその時に最も行うべき(合理的な)行為はAである。

私は、このような理論Xは存在し、しかも万人に当てはまると考えている。何をしたいかは人それぞれであるが、そのような主観とは独立に、何をすべきかを決める理由は客観的に実在すると思うからだ。

「べき」というと道徳を連想する人が多いかもしれない。道徳主義者達は、(道徳の内容に関しては意見を異にしても)道徳的に行動すべきだ、と口を揃えて言う。しかし、私はそれに断固反対である。道徳は、あれをしろ、それはするなと口うるさく命じるが、そもそもなぜそんな外的な規範に従わなければならないのか。「私が」何をすべきかを決めるのは、この「私」の自己利益以外に無いと思う。

なお、私の主張は、倫理的利己主義ではない。あなたの自己利益をあなたが追求すべきなのは、「あなたにとって」の話であり、「私にとっては」あなたにも私の自己利益に貢献してもらいたい。「べき」は行為者に相対的な理由だと考えてもらいたい。

詳細な議論は後の記事に譲るとして、この記事では、私の主張の概略を述べたい。

 

1.誰かの幸福あるいは不幸のみが、今の私(ある時点の誰か)に行為の理由を与える。

2.幸福の主体(動物も含むが、「人格」と呼ぶ)は、瞬間ごとに分かれている。

3.ある人格の幸福(不幸)は、その人の瞬間的経験の快さ(苦しさ)の度合いである。

4.誰かの幸福あるいは不幸は、今の私がその誰かを愛する度合いに比例して、今の私に行為の理由を与える。

5.1、3および4より、次に述べる自己利益説SIこそが、理論Xである。

SI:人格pの快苦Ppに、今の私が人格pを愛する度合いLpを乗じた積を、全人格について総和した値ΣPpLp(今の私の自己利益とよぶ)を最大化する行為こそが、今の私がとるべき(最も合理的な)行為である。

 

1.誰かの幸福あるいは不幸のみが、今の私(ある時点の誰か)に行為の理由を与える。

この主張が最も説明を要するだろう。

反論1:道徳的な善悪も、ある行為をするか、しない理由になるのではないか。

道徳的に悪いことをしないことのさらなる理由は、それを忌避しないと結果的に誰かの幸福を損なうからである。道徳は、最終的な理由ではない。

 

反論2:例えば芸術作品や文化遺産には、鑑賞者が得られる幸福とは独立して、客観的な価値があり、大切にする理由があるのではないか。

たとえば明日、隕石の衝突で全人類が滅亡するとしよう。宇宙人もいないとする。その場合、誰も鑑賞することのない、芸術作品や文化遺産をカプセルに入れて宇宙に残す理由はあるだろうか。私は無いと思う。

 

2.幸福の主体は、瞬間ごとに分かれている。

今日の私、明日の私、昨日の私は、意識が連続していて、「私」というアイデンティティを共有しているだけで、利害の主体としては別々に存在する。「私」なる自己は観念の産物に過ぎない。

 

3.ある人格の幸福は、その人の瞬間的経験の快さ(苦しさ)の度合いである。

これが快楽主義と呼ばれる主張である。別の記事で改めて擁護したい。

 

4.誰かの幸福あるいは不幸は、今の私がその誰かを愛する度合いに比例して、今の私に行為の理由を与える。

誰かの幸福や不幸は、それだけでは「今の私に対する」理由を与えない。今の私にとって、その誰かが自分同然に大切であってこそ、初めて理由を与えるのだ。 

つまり、誰かの幸福や不幸は、今の私がその誰かを愛しているという条件付で、今の私に対して理由を与える。

 

いくつかの補足を行う。

Ⅰ:SIと道徳の関係

自己利益を追求すべし、とするSIを単なるエゴイズムだと考える人もいるだろう。また、SIによる自己利益の追求と、道徳は相いれないと考える人もいるだろう。しかし、私はSIと道徳は連続していると思う。

SIによれば、他人をより広く、強く愛することそれ自体が合理的となる。なぜなら、将来の自分や愛する家族の利益を確保するためには他人との協力が不可欠で、他人に協力してもらうための最善の手段は、他人を目的として大事にすることだからだ。

SIに従っていれば、より人類を広く愛し、広い自己を持つようになり、SIは快楽主義的な功利主義に近似する

ただし、愛することが合理的なのは、協力をする必要があり、協力する能力がある人間に限られるだろう。我々は動物に対しては一方的な強者である。動物に対する搾取をやめても、動物から見返りが得られるわけでもなく、自己利益が損なわれるだけである。

もちろん、動物を全く愛さず残酷な仕打ちをすることは、人間に対する愛も損ねてしまう可能性もあるだろう。したがって、人間ほどではないが、動物に対してもほんの少しの愛はもったほうがいいのかもしれない。

 

Ⅱ:SIの実践

 パーフィットの指摘するように、快楽主義や自己利益説は、間接的に自己破壊的である。

つまり、SIが定める目的(自己の快楽)を直接追求してしまうと、かえって自己の快楽が損なわれてしまう。

・快楽のことは気にせずに、何かを成し遂げたいと欲求したほうが、達成感による快楽が多く得られるかもしれない。

・SIの定義する自己利益を犠牲にしてでも、おぼれている見知らぬ子供をたすけるような道徳性を身に着けていた方が、皆に信頼されて多くの自己利益が得られるかもしれない。

つまり、SIの合理性に従おうとすることが、かえってSIによれば不合理なのである。では、我々はどうすべきなのだろうか。

SIによる自己利益を最大化するような欲求を持つように、そしてそのような欲求に基づいて行為をすべきである、というのが私の答えである。

例えば、SIの自己利益を最大化したいという欲求以外にも、自己利益を犠牲にしても道徳的に行為したい、快楽を犠牲にしても何かを達成したい、という欲求を持っていた方が、結果的にSIの自己利益が多く得られるだろう。

この場合、自己利益や快楽がすべてではない、という(不合理な)信念を持つよう心掛けるか、道徳的行為や達成のための努力を意識的に行い、習慣化することこそが、最も合理的な行為なのである。

 

Ⅲ:SIはそもそも規範的なのか

自己の快楽の最大化をすること(SI)と、その時したいことをすること(PD)には、大差がないと思う人もいるかもしれない。たしかに、SIは多くの人が従うPDに大きな変更を迫るものではないだろう。

しかし、両者は性格において全く異なる。

我々はPDのとおり、そのときにしたいことしか出来ない。だから、PDに従うべきであるという主張は、ナンセンスなのである、つまりPDは当為ではなく現実なのである。

対して、我々がSIの規定する自己の快楽を最大化することに失敗することは確かにある。

例えば、今かなり欲しいと思っているあるゲームも、将来入手して遊んでみたら、たいして面白くないとする。しかし、それを知らずにそのゲームを買ってしまったならば、将来の私の快楽がほとんど得られないのにお金を失ってしまって、自己の快楽が損なわれる。この時、私はSIに従うことに失敗したのである。

こういう場合にこそ、私は実際にゲームを買ってしまったが、本当はゲームを買わない「べき」だったと言える。つまり、SIは規範的なのだ。

 

さいごに

かなりシンプルだが、SIは我々の行動の適切な指針を与えるのではないかと思う。それは無理な道徳を要求しないし、かといって過度に自己中心的でもない。しかも、なぜ利己的な我々が、より道徳的になり、なるべきかもちゃんと説明できる。

しかし、SIを正しく実践に移すのはかなり難しいであろう。誰をどの程度愛し、どういう欲求を持つことで、最も自己利益が達成されるかは、人間の複雑な心理に関する問題だからだ。

こういう経験的な問題については、机上の思索ではなく、アリストテレスよろしく、我々の人生経験や知恵に頼るべきであろう。快楽以外のものも適度に追求し、好きでもない人の利益もある程度尊重する、中庸な生き方がおそらく最も合理的なのだろう。