幸福とはなにか
以下は、私が幸福の哲学入門についてツイキャスを配信した際の原稿である。
ツイキャスを見逃してしまった人、ペースが速すぎて理解が追い付かなかった人には、プレゼンテーション資料と一緒に見つつ、じっくり読んでほしい。
幸福の哲学に対して興味を持つ人が一人でも増えれば、私も幸福である。
プレゼンテーション資料
https://1drv.ms/p/s!AsbCcnIgz_qDlGwuCukNnsfFh2Sb
ツイキャス実況パート1
幸福の哲学入門1 - 散歩家 (@Silent_Theoria) - TwitCasting
ツイキャス実況パート2
幸福の哲学入門2 - 散歩家 (@Silent_Theoria) - TwitCasting
目次
イントロダクション
快楽主義
欲求実現説
客観主義、複合理論
幸福の哲学について
参考文献や自己紹介
1.幸福(Well-being)の哲学とは
ある人の幸福とは、その人にとっての人生の価値のことである。幸福の類義語としては、ほかに福利や厚生という言葉があげられる。
逆に、幸福ではないものと区別することで、幸福の概念を明らかにしよう。
1-1.幸福(価値)と幸福感(心理)の区別
まず、幸福とはたんなる幸福感のことではない。親が自分の子供に幸福になってほしいというとき、幸福感を感じてほしいといっているわけではなく、良い人生を生きてほしいのである。幸福感は単なる心理状態であるのに対して、幸福は価値なのだ。
1-2.幸福と、ほかの価値の区別
価値と言っても、幸福以外にも、道徳的価値、美的価値、人生の意味などいろいろある。
幸福と道徳的価値は別物である。例えばマザーテレサの人生は、道徳的に崇高なものかもしれないが、本人は不幸だったかもしれない。逆に、チンギス・ハーンは、子供をたくさん設け、野望を成し遂げた幸福な人生を送ったに違いないが、大量に虐殺を行って、到底道徳的に善い人生とは言えない。
幸福と美的価値も別物である。悲劇ハムレットの主人公の復讐に燃えた人生は、芝居の題材になるほど美しいかもしれないが、本人にとって不幸であることには間違いない。
最後に、幸福と人生の意味も別物である。偉大な作品を残したが、生前は評価されなかった芸術家がいたとしよう。彼の人生には、傑作を作りあげるという大きな意味があったに違いないが、やはり本人は不幸である。
1-3.内在的価値と、手段的価値の区別
お金はあくまで、ほかのものを買うための手段としてのみ価値があり、それ自体に価値はない。対して、快楽はなにかの手段として価値があるわけではなく、それ自体価値があるものである。前者を手段的価値、後者を内在的価値として区別しよう。今回は、幸福を得るための手段としての価値ではなく、幸福の構成要素としての内在的な価値を問題としよう。
1-4.幸福の主体の範囲
幸福の主体としては、皆はふつう人間や動物を考える。しかし、一部の考え方によれば、植物も幸福を持ちうる。では、動物とは異質な経験をもつ高度なAIの場合どうだろうか、など、疑問は深まる。
1-5.人生論や自己啓発との相違点
幸福の哲学は、whatやwhy、つまり何が、なぜ幸福の本質なのかを問題とする。この点で、幸福のhow、つまりどうすれば幸福に生きられるかを問題とする人生論や自己啓発とは全く違う営みである。
2.「幸福とは何か」という問いはなぜ重要か
自分の幸福が一番大事だという人にとっては、最重要な価値として、幸福はそれ自体本質を問うに値する概念だろう。
道徳が幸福よりも大事だと考える人もいるだろう。それでも、幸福が道徳の重要な考慮事項であることには間違いがない。功利主義をはじめとする厚生主義をとるならば、自他の幸福だけで、道徳的な望ましさが決まる。厚生主義をとらず、義務、権利や徳などの、幸福以外の要素も道徳的に大事だと考える人でさえも、幸福の重要性は無視できないだろう。道徳主義者にとっても、幸福は道徳の実質的内容として、本質を問うに値する。
最後に、幸福は政治にとっても無視できない概念である。GNH(国民総幸福)を目標の一つとして掲げたブータンのような国もある。
3.幸福の諸理論
快楽主義は、快楽が良くて苦痛が悪いという立場である。
欲求実現説は、欲求が満たされることが良くて、満たされないことが悪いという立場である。
いずれも、主観的な態度や感じ方で幸福がきまるという立場である。
対して客観主義は、例えば、本人が主観的に望んでいるかに関係なく、愛や友情などの特定の項目が常に良いという立場だ。
うち、客観的リスト説は、幸福の構成要素を列挙するだけである。たいして卓越主義は、なぜ各項目が良いのかについて、種としての本性を発揮、発展させられるからだ、という共通の理由を与える。
複合理論は、三つの立場の折衷案である。
4.快楽主義(快楽とは)
4-1.感覚的快楽と態度的快楽
快楽というと普通快感を思い浮かべる。美食の味覚、マッサージの触覚、冷暖房の感覚など。これらを感覚的快楽とよぼう。
しかし、他方で、世界が平和であることに対して快く思う平和主義者や、快感を感じていないことを快く思う禁欲主義者もいる。彼らの快楽は特定の信念に対する態度である。これを態度的快楽と呼ぶ。
この区別を提唱し、態度的快楽が本質的で、価値があるとする態度的快楽主義をとるのが現代の哲学者フェルドマンである。
彼によれば、これは古くからある違いだという。古代ギリシャのアリスティッポスをはじめとするキュレネ派は感覚的快楽に価値をおいていたのに対し、エピクロスは、苦痛がないという事態に対する態度的快楽(静的快楽)に価値を置いていた。
態度的快楽観には例えば、信念を抱く能力のない一部の動物が態度的快楽をいだけるのかという批判がある。それでも、態度的快楽主義は、考慮に値する面白い理論だと思う。
4-2.快楽の内在主義と外在主義
さて、感覚も態度は別物だが、経験の一要素であるという点では同じだ。以後は快い経験を快楽と呼びたい。
快楽といっても、美味、入浴、冷暖房、芸術鑑賞、世界平和に満足する経験など、いろいろなものがある。これら異質な快楽に共通の本質が内在しているとは、直観的には思えない。これが快楽の異質性問題である。
この直観にも関わらず、共通の本質があるのだと主張するのが、快楽に関する内在主義である。快楽の感覚そのものが存在するという立場や、快楽は、色覚の色や聴覚の音量のような、経験のトーンだとする立場がある。
対して、快い経験が共通しているのは、欲求されるという点に過ぎないと主張するのが、快楽に関する外在主義である。
外在主義は、エウテュプロンの問題に直面する。エウテュプロンとは、プラトンの対話篇の登場人物で、神に愛されるからこそ敬虔なのか、敬虔だからこそ神に愛されるか、どちらが先かについて、ソクラテスと論争をした。
今回は、神の愛と敬虔ではなく、欲求と快楽の前後関係が問題である。外在主義によれば、例えば林檎を味わう経験が快いから林檎を味わいたいのではなく、林檎を味わいたいから林檎を味わう経験が快いというのである。これは再び直観に合わない。例えば珍しいから痛みを感じてみたいという変な欲求を持っている場合も、その痛みは快楽なのだろうか。
ここでは、以上3つの快楽観の決着をつけることはしない。
ただ、快楽主義にも、態度的快楽主義、内在主義をとる快楽主義、外在主義をとる快楽主義の3つのバージョンがあることは留意してほしい。
5.快楽主義(長所)
5-1.快楽主義の定式化
快楽主義とは、快楽のみが良いという立場である。
ただし、重要なのは、同時に快楽が良いのは快いからだと主張する点である。
これは同語反復じゃないかという人もいるだろうが、ちゃんとした内容がある。
例えば、皆が快楽と苦痛の欠如しか欲求しないとする。そして、快楽や苦痛の欠如は欲求されるから良いとしよう。その場合でも、快楽のみがよく、苦痛のみが悪い。しかし、この立場は快楽主義ではなく、次に述べる欲求実現説である。
快楽主義は、快楽であることが、良いことの本質であると主張するのである。
さいごに、良さの度合いについては、ここでは快楽の量、つまり強度×時間で決まると定式化しよう。例外はあるが、その時に述べる。
5-2.快楽主義の長所
快楽主義の長所は、一見した直観的な説得力があることだ。
まず、快楽主義の最大の魅力は、経験要請を満たすことである。それは、私が見たり感じたり、考えたりする経験に一切無関係な出来事は、私の幸福には影響しようがないという直観である。よく考えてみればこの直観は間違っているかもしれないが、一見した説得力があるのは確かだ。
根拠がないわけではない。例えば、人生は生まれてから死ぬまでの経験の系列としよう。その場合、人生に無関係な出来事は本人の幸福に影響しないから、経験に無関係な出来事は幸福に影響しないと理由づけられる。ただし、この独我論的な人生観を共有している人でなければ受け入れられないだろう。
経験要請に対する反論としては、たとえ知らなくても望みがかなうことは幸福ではないか、というものがあげられる。例えば、ある画家が自分の作品に展示されてほしいと強く願っていたとする。そして、画家の作品が描いた翌年に展示されるが、死むまで知らなかったとする。例えば、たくさんの人の手をわたるうちに、作者不明になったとしよう。この場合も画家にとっては幸せだという人がいるだろう。
しかし、展示されたのが死後だったらどうだろうか。もはや、それは画家にとって幸せではないだろう。でも、死後の場合に幸せでなければ、なぜ生前の場合は幸せなのか、説明がつかない。たまたま展示されたときに生きていたからか?そうとは思えない。
次に、余計なものを欲求する大人と違って、躾を受けたり、自己欺瞞に陥っていない子供は、快楽を第一に追求する。これこそ、快楽にこそ、直接的で確実な価値があるという何よりの証拠ではないのか。
最後に、感覚を有する幅広い動物に当てはまるという利点がある。ただし、経験の質が生物とは異質なAIの場合はどうなのか、という問題はありそうだ。
6.快楽主義(反論)
6-1.低級快楽の問題
まずは、同じ強度の快楽をもたらすことにも、価値の違いがあるのではないかという反論がある。満足した愚者よりも不満足なソクラテス、という言葉に象徴的だが、別の例を挙げる。
バッハを聴く快楽と、スナックを食べる快楽の強度が仮に同じだったとしても、バッハを聴くほうがスナックを食べるよりも価値があるという直観を皆は持っているだろう。しかし、先ほどの快楽主義によれば、両者で得られる快楽の価値は同じだから、快楽主義は間違っていることになる。
もしかしたら、バッハを聴く快楽が、スナックを食べる快楽よりも価値があるのかもしれないし、あるいはバッハを聴く経験そのものに、快楽とは別の美的な価値があるのかもしれない。
6-2.経験機械の問題
低級快楽の反論は、経験の価値は、快楽の強度だけでは決まらないのではないかと主張していた。たいして、経験機械の反論は、そもそも経験以外にも、重要な価値があるのではないかと主張する。
①Aさんは、願い通り、愛と友情に恵まれ、仕事で偉業を成し遂げる一生を送ったとする。
②対して双子のBさんは、脳に電気信号を送る機械に生まれた時からつながれ、Aさんと知覚や思考に至るまで、まったく同じ経験をして、一生を送ったとする。
我々は、Aさんよりも、Bさんの人生の価値が低いという直観を持っているだろう。しかし、Aさんと、Bさんの人生の経験も、快楽も全く同じなのだから、快楽主義によればAさんと、Bさんの人生の価値は同じである。したがって、快楽主義は間違っていることになる。
もしかしたら、Bさんが経験機械で得られる偽りの快楽の価値は低いのかもしれない。あるいは、Aさんしか得られない、願望の成就、真の愛、友情や達成に、快楽とは独立して価値があるのかもしれない。
6-3.欲求満足説への還元
快楽について、態度的快楽観もしくは外在主義を取る場合、快楽主義は欲求満足説に還元される懸念がある。
世界が平和であることに対して快く思うことは、世界に平和であってほしいという欲求が満足することとどう違うのだろうか。Chris Heathwoodは、態度的快楽主義は、(共時的)欲求満足説に外ならないと主張している。
また、外在主義が正しいとした場合、快楽とは欲求される経験にほかならなかった。では快楽はなぜ良いのだろうか。快いから、というのは即ち欲求されるからであり、これは快楽主義ではなく欲求満足説の主張そのものになってしまう。
6-4.客観主義
快楽について、残りの内在主義を取る場合も問題がある。
内在主義によれば、禁欲主義者が快楽を忌避する場合も、それが快楽であることに変わりがない。その場合、禁欲主義者は快楽を忌み嫌っているにも関わらず、快楽主義によれば彼にとって快楽は良いものになってしまう。これは、禁欲主義者の価値観を無視した、おしつけではないだろうか。
7.快楽主義(反論に対する回答)
ここでは、低級快楽と経験機械の問題に対して回答を行う。
7-1.直観が正しいと認め、理論を修正する
J・S・ミルは、快楽の価値を決定する要素に、量だけではなく質があると主張した。バッハの快楽と、スナックを食べる快楽の量が同じなのに、前者のほうにより価値があるのは、前者の方が後者より質的に高級だからだというのである。しかし、質というのは何だろうか。それが快さを決める一要素なら、結局量に還元される。快さとは関係がないのなら、それはもはや快楽以外の何かではないだろうか。ミルの立場に対しては、快楽以外の価値を導入して、快楽主義の体をなしていないのではないかという批判がある。
フェルドマンも態度的快楽主義を修正した。粗食など、快楽を抱くのにそこまでふさわしくない事態に対して抱く快楽や、経験機械の中で得られるような、実際には正しくない事態に対して抱く快楽は、小さい価値しか持たないというのである。彼の修正された立場も、相応しさや、快い事態の真偽など、快楽以外の価値を持ち込んでいるという指摘が付き物である。
以上の修正は、快楽の価値が、快楽の強度以外に左右されることを認めるものである。しかし、たとえ快楽をともなわなくとも、美と触れ合う経験や、経験を超えた人間関係に価値があるという直観もあるように思える。この直観は修正版の快楽主義でも説明できない。
7-2.直観を否定し、間違った直観を持つ理由を説明する
二つ目は、反論が前提とする直観が間違っていると主張したうえで、誤った直観を持つ原因を説明するという回答が考えられる。
低級快楽の問題について回答しよう。
例えば、スナックを食べると、健康に悪く、長期的には快楽が損なわれる。バッハを聴けば、審美眼が養われ、長期的には快楽が増進される。スナックの食事よりもバッハの音楽鑑賞に手段的価値があり、これを快楽の内在的価値と混同しているのではないか、という回答ができる。
経験機械の問題についてはどうだろうか。
まず、幸福とは無関係な水槽の中の脳に対する生理的嫌悪感が影響しているかもしれない。水槽の中の脳ではなく、高度なコンピュータシミュレーションにより全く同じ意識が生み出されていたら、嫌悪感が和らぐかもしれない。
また、我々の価値に関する直観は、進化論的な適応の影響を受けている。しかし、進化は、幸福の増進よりも、DNAの保存に有利な方向に進む。たとえ、幸福をもたらさない場合でも、パートナーや友達に裏切られず、そして獲物を捕らえることが重要だと信じることは、遺伝子を残すのに有利だっただろう。
したがって、我々は、進化の結果、経験機械の中の人生が劣っているという誤った直観を持っているのである。
私が最も説得的だと思うのは、快楽主義のパラドックスによる擁護である。
快楽主義のパラドックスとは、快楽だけを追求するとかえって快楽が得られないという事象のことをいう。一見、快楽主義の問題点にも見えるこのパラドックスが快楽主義を救う。
本当は、快楽の強度が同じなら、バッハの音楽鑑賞とスナックの食事の価値が同じでも、バッハにはスナックにない美的価値があると誤って信じたほうが、芸術を熱心に追求するようになり、結果的に多くの快楽が得られるようになる。
本当は、もたらす快楽が同じなら、本物と偽物で、愛、友情や達成の価値に差はなくても、真正の愛、友情や達成には、偽物よりも価値があると誤って信じたほうが、実際にゆたかな人間関係に恵まれ、高い確率で成功を成し遂げることができるようになり、結果的に多くの快楽を得られるようになる。
つまり、低級な快楽よりも高級な快楽に価値を見出し、経験機械の人生よりも現実の人生に価値を見出す誤った直観を持ったほうが、幸福になれるのであり、持つべきなのである。
では、なぜ現にそういう直観を我々は持っているのだろうか。
例えば、快楽主義の真理に目覚める人がいても、パラドックスを知っていて、幸福になりたければ、誤った直観を自覚的に持つだろうし、子供をそのようにしつけるだろう。
また、パラドックスを知らなくても、快楽主義を実践に移す人は快楽が得られず、不幸になる。彼は自分が何か間違っていると思い、快楽以外のものに価値を見出す非快楽主義者の倫理観から学ぼうとするだろう。
以上の理由で、我々は、快楽主義に反した誤った直観を持っているのである。
8.快楽主義(まとめ)
快楽主義の特徴について大雑把にまとめる。
快楽主義のこころは、良し悪しは経験で決まるという点である。
一見すると直観的な説得力があることが快楽主義の魅力であった。知らないことが利益や害になるとは一見思えないし、快苦に価値があることは子供にも明らかである。
しかし、よく吟味してみると、快楽の度合い以外にも幸福を左右する要素や価値があるのではないか、という反論が考えられた。快楽は、価値として狭すぎるのである。
これに対しては、快楽以外のものにも価値があると誤って信じたほうが、結果的に快楽が得られるから、そのように信じるべきで、現にそうしているのだ、という説明が快楽主義からもつけられる。快楽主義は、快楽や経験以外のものに対しても価値があると信じたほうが快楽が得られるという理由で、価値を拡張することができる。
9.欲求実現説
いや、それでも経験機械の直観が正しく、快楽主義が間違っていると考える人がいるかもしれない。欲求実現説は経験機械の直観を説明することが出来る。
9-1.欲求とは
欲求とは、ある事態(命題)に真になってほしいという態度である。
こう定義すると、再びヴィーガンの人から、信念を抱く知能のない動物の場合はどうなのだと批判されるだろうが、ここでは人間の場合を考える。
9-2.欲求の実現、欲求の満足や快楽の区別
さて、友達に愛されたいという欲求を例にとって考えよう。
願い通り、本当に愛されている場合、欲求が実現したという。
対して、本当は嫌われていても、愛されていると信じられる場合は、欲求が満足したという。
欲求の実現と、快楽や欲求の満足の違いが判らない人がいるかもしれないので、強調しておきたい。
愛されていると本人が信じていなくても、事実として愛されてさえいれば、欲求は実現している。このように欲求の実現は、本人の心理状態とは独立して、世界の状態で決まる。
対して、実際には愛されていなくても、本人が愛されていると信じてさえいれば、欲求は満足し、快楽は得られている。このように、欲求の満足や快楽は、世界の状態とは独立して、心理状態あるいは経験だけで決まる。
9-3.欲求実現説、欲求満足説の定式化
欲求実現説は、欲求の実現に価値があるという立場である。
欲求満足説は、欲求の満足に価値があるという立場である。こちらは快楽主義に近い。
そして、これらの説は、例えば結果的に快楽がもたらされるからではなく、欲求が満たされるからこそ良いと主張する。
両方とも、価値の度合いは、欲求の強度に比例するとしよう。
10.欲求実現説(長所と反論1)
10-1.長所
欲求実現説の長所は多い。
まず、経験機械の反論に回答できる。経験機械につながれた人は、例えば、いると信じている人に愛されたい、実際になにかを成し遂げたいという欲求を持っている。それらの欲求は満足しているかもしれないが、決して実現していない。でも、満足感を得たいという欲求は実現しているから、無価値ではないだろう。
次に、自然主義、つまり科学的な対象しか存在しないという考え方と相性がいい。快楽は、直接観察不可能なクオリアであるのに対して、欲求は物理的な現象として観察可能である。
最後に、欲求実現説は、幸福の主体の主観を尊重する。あなたにとって何に価値があるかが、あなたの主観的な態度次第で決まり、あなたならではというのは、直観的にかなりしっくりくる。
10-2.反論(時点の問題)
反論を検討してみよう。
まず、欲求は、抱く時点と、実現する時点にギャップがあるため、欲求の実現は、いつ良いのかという問いが立てられる。
抱いた時点だとするのはおかしい。明日ラーメンを食べたいと今日欲求して、明日食べられたとしても、今日良いわけではない。
では実現した時点か?ある画家が、自分の作品に展示してほしいと欲求したとして、死後展示されたとする。画家にとって、それが良かった時点は、実現した死後だと主張するのもおかしい。
11.欲求実現説(反論2)
11-1.反論(幸福にあまり寄与しない欲求)
次に、幸福にあまり寄与しない欲求があるという指摘もある。
- 私が、電車で仲良くなった見知らぬ乗客に、いつか幸福になるよう願うようになったとしよう。そして、彼はあとで幸福になったが、私が知ることはなかったとする。その場合、私の欲求は実現したが、私は幸せだろうか。そうは思えない。
- 次に、庭の中の草の数を数えたいなど、くだらない欲求が実現しても本人はさほど幸せではないのではないだろうか
- 3つ目に、女性差別がひどかったころ、ジェンダーロールにはまりたいという女性の欲求が実現しても、さほど幸せではないだろうか。
- 4つ目に、ある仕事をしたいと強く欲求していたが、してみるとつまらなかったとしよう。この欲求は実現したが、その人は幸せではないだろう。
- 5つ目に、昔は医者に強くなりたかったが、今は芸術家にそれなりになりたい人がいるとしよう。その人が今医者になることは、芸術家になるよりも、強い欲求を実現するが、幸せだとは思えない。
- 最後に、子供を救うために、自分の命を犠牲にしたいと願う親がいるとする。その欲求が実現しても、親は幸福になったというより、自分の幸福を犠牲にしたように思える。
どの欲求の実現も、欲求実現説によれば、欲求の強度に比例した価値があるはずだ。
しかし、実際は、欲求の強度ほどには、実現が幸せに結びついてはいないのではないか。
11-2.反論(パラドックス)
不幸になりたいという欲求しか持たない人がいるとする。
もし彼の欲求が実現しているならば、彼は不幸である。しかし、欲求実現説によれば、彼は幸福である。
もし彼の欲求が実現していないならば、彼は不幸ではない。しかし、欲求実現説によれば、彼は不幸である。
12.欲求実現説(修正)
12-1.共時的欲求実現説
時点の問題に対しては、共時的欲求実現説という修正の方法がある。
欲求と抱くのと同時の実現にのみ価値があるという立場である。快楽主義にちょっと近くなる。
幸福に寄与しない欲求の問題については、快楽主義同様、反論が前提とする直観が間違っていると主張することは可能である。しかし、ここではそれは検討しない。
共時的欲求実現説は、この問題についても、いくつか正しい結果が出してくれる。
例えば、この修正を行うと、④死海の林檎や⑤過去の欲求の実現に価値はないことになり、直観に合う。しかし他がダメなままである。
12-2.知悉的欲求実現説
他の修正も可能である。知悉的欲求実現説によれば、仮に主体が合理的で、すべての情報を知っていれば持っていたであろう、理想的な欲求の実現が重要だというのである。
これによれば、女性差別に甘んじていたい適応的欲求や、思ったほど良くはない仕事に対する死海の林檎の欲求は、仮に人権や仕事について多くを知っていれば、そもそも持たなかったであろうから、これら現実の欲求の実現は幸福に寄与しない。
しかしこの修正にはほかの問題もある。本人がすべての情報を知っていた場合に抱いた欲求というのは、あまりにも現実からかけはなれ、現実の本人とは関係がなくなってしまうのではないだろうか。
例えば、現実の太郎君はサッカーを観戦したいが、すべてを知った理想的な太郎君はオペラを鑑賞したいとする。そのとき、オペラを鑑賞することが、現実の太郎君にとっていいことだろうか?
知悉的欲求実現説は、欲求実現説の魅力であった主観主義、つまり現実の本人の主観を尊重するという利点を失っているように思われる。
12-3.欲求満足説
最後に、欲求実現説を欲求満足説、つまり知ることが重要だという立場に修正すれば、①見知らぬ乗客に対する欲求は、実現されても満足していないから、価値はないということができる。しかし、こういう快楽主義的な修正は、経験機械の反論を呼び込んでしまう。経験機械の中でも欲求は満足するからである。
12-4.エウテュプロンの問題
さて、以上のアプローチは、同時の実現のみ、もしくは理想的な欲求のみが重要だと、欲求実現の範囲を制限する修正である。しかし、欲求実現説が言うとおり、欲求が実現するからこそ良いのならば、「なぜ」制限された欲求の実現「だけ」がよく、はじかれた欲求の実現は良くないのか、説明がつかない。
ここで、エウテュプロンの問題が再燃する。欲求実現説は、欲求されるからこそ、欲求の対象となる事態が良いと主張するのだが、実は、欲求はもとから良い事態を後からなぞっているだけではないのかという疑惑が生じる。
13.欲求実現説(まとめ)
欲求実現説についてまとめる。
欲求実現説のこころは、良し悪しは世界に関する事実で決まるというものである。
欲求実現説には、本人の好みや主観を尊重しているという利点がある。
他方で幸福に寄与しない欲求も存在するという欠点がある、つまり欲求実現説は価値を広くとりすぎている。
そこで、欲求の範囲に制限を加えることで、価値を狭めることが可能である。しかし、この修正は別の困難も呼び寄せてしまう。
快楽主義、欲求実現説に続く三つ目の立場は、客観主義である。
快楽主義や欲求実現説の魅力は、本人が好むものこそが本人にとって良い、と主観を尊重する点であった。仮にモーツァルトとバッハの音楽に同じくらい客観的な芸術的価値があったとしても、私はバッハの音楽に快楽を抱き、好むから、バッハの方が私にとって価値があるのである。
その反面、スナック菓子による低級な快楽や、草の数を数えたいというしょうもない欲求に、不当に高い価値を認めてしまっているという反論が考えられた。
客観主義は、大雑把に言うと、必ずしも本人の主観的な好みだけで幸福のすべてが決まるわけではないのではないか、という発想である。
客観主義は、客観的リスト説と卓越主義に分けられる。
14.客観的リスト説
まず取り上げたいのが、客観的リスト説である。
14-1.客観的リスト説の定式化
客観的リスト説は、良いものを列挙したリストに含まれる項目、たとえば愛や友情、知識には、常に価値があると主張する立場である。
リストの候補としては、愛、友情、知識、快楽、達成、徳、自由、個性などがあげられ、リストの項目によってさまざまな立場が考えられる。ただ、どの立場にも客観主義という共通の特徴がある。
例えば、孤独な人は愛や友情を望まないかもしれないし、興味のないことの知識や達成も望まないだろう。あと、徳、自由や個性を重視しない人もいる。それらの場合でも、客観的にそういう要素に価値があると主張するのが客観的リスト説である。
14-2.快楽主義も客観的リスト説の一つか
最後に、快楽はどうだろうか。快楽についての内在主義を取るならば、禁欲主義者のように快楽を望まない人にとっても、快楽に価値があると主張する点で、快楽主義も客観的リスト説の一種であるといえると考える人もいる。
14-3.多元主義
すべてとは限らないが、多くの客観的リスト説は、善のリストには複数の項目があると主張する。これも、快楽主義や欲求実現説とは異なる特徴ではある。
次に長所と反論を取り上げたいが、客観的リスト説の妥当性はリストの内容に依存するので、ひとくくりにして論じることは困難である。そこで、快楽、友情、達成、知識、自律の五項目からなるリストを主に想定しつつ、出来るだけ多くの立場に当てはまる議論を紹介したい。
15.客観的リスト説(長所と反論)
15-1.長所
客観的リスト説の第一の長所は、常識的な考え方に近いことである。一般の人に幸福とは何かと聞いたら、快楽や欲求実現と答える人は少数で、具体的に、配偶者や子供との愛や、仕事で偉業を達成することなどを挙げる人が多いだろう。しかし、常識が正しいとは限らないし、彼らは幸福の本質をなす内在的価値ではなく、幸福の手段について答えている可能性がある。
第二の長所は、リストの内容によるが、善の範囲が狭すぎず、広すぎでもないことである。まず、客観的リスト説は、経験機械につながれた人生の価値がなぜ低いかを説明できる。それは、真の愛、友情や達成が欠けているからである。
次に、客観的リスト説は、見知らぬ乗客が、私の知らないところで望み通りに幸せになっても、私が幸せではないことを説明する。私自身は、リストのどの項目も得られないからである。また、差別に甘んじていたいという欲求が満たされても、自律という重要な価値が欠けているから、そこまで良いことではないと主張できる。
もし、項目をうまく選べば、そして増やせば、常識や直観に近い理論が出来るのではないか、と期待が出来る。
15-2.反論
では反論に移ろう。しばしば客観的リスト説に対してなされる批判は、疎外、つまり本人の主観や好みを十分に考慮に入れられていないという点である。それは、例えばある知識に、本人が好むか好まざるかにかかわらない客観的な価値があると主張するからである。
ただし、例えばもし知識だけではなく、快楽がリストに入っていれば、知識から得られる快楽の差により、本人が好む知識の方に、より価値があるといえるだろう。この批判は、主観的要素も多く含むリストには、あまり当てはまらないようである。
似ているが、本人にとって価値がないものに、価値があると誤って主張してしまうのではないかという批判がある。
例えば、とある人は保険に興味がないが、仕事上仕方がなく、保険制度について、好きでもない知識を身に着けたとする。しかしその人は退職してしまい、その知識は役に立たなくなってしまった。それでもその知識が本人にとって価値がある、と客観的リスト説は主張するだろうが、本当だろうか。
15-3.理論的な問題
以上は内容に対する批判だが、客観的リスト説に対しては、理論としての説明力に問題があるとする批判のほうが多い。
一つ目は、客観的リスト説は、「何が」良いかという問いに対して、項目を列挙しているだけで、「なぜ」各項目が良いかを説明しないというものである。愛、友情や達成は全く異質だが、なぜすべてが内在的に良いのか、共通の本質はあるのだろうか、それとも、それぞれ別の理由で良いのだろうか。この問いに、客観的リスト説は答えていない。
これに対しては、なぜ快楽がいいのか、なぜ欲求の実現が良いかということを説明できない点で、快楽主義も欲求実現説も同じであると再反論が出来る。
しかし、多元的な客観的リスト説の場合、複数の項目に対してそれぞれの説明が必要であること、そして本人の主観に関連付ける説明が出来ないことを考えれば、客観的リスト説にとってこの問題は最も深刻である。
二つ目は、多元的な客観的リスト説は、一単位の愛、友情や達成が、それぞれ幸福にどの程度寄与するか、説明を与えていないことである。それらは全く異質で、価値の比較のしようがないように思われる。
これに対しても、快楽主義だって異質な快楽や苦痛の価値をどう比較するかという問題を抱えていると再反論できる。しかし快楽や苦痛は同じ経験であるのに対して、多元的な客観的リスト説は、関係、事実、経験など全く異質なもの同士の価値の比較をしなければいけない分、やはり一番困難を抱えているだろう。
16.卓越主義(本性を構成する能力)
16-1.卓越主義の定式化
客観的リスト説の一つ目の理論的問題、なぜリストの項目が良いかについて、共通の説明を与える立場が、卓越主義である。卓越主義によれば、客観的リストの項目は、種としての本性を構成する能力を発揮できるから、良いのだという。
16-2.本性を構成する能力とは
では、本性を構成する能力とはどういう能力のことだろうか。
例えば、卓越主義者達が念頭に置いているのは、人間の場合、とくに、理性的に考え、行動する能力である。
では、どうしてこういう能力が人間の本性なのだろうか。
一つ目の考え方は、理性が人間固有の能力だから、というものである。しかし、もし理性を備えた宇宙人が存在すれば、もはや理性は人間の本性ではなくなってしまい、理性を働かせることが幸福ではなくなってしまう。これはおかしい。
二つ目の考え方は、理性が、生き物として生きていくうえで、人間に本質的な能力だから、というものである。理性無くして、人間は人間として生きていけない。この基準によれば、代謝や運動などの身体的能力、社会的能力も、人間の本性を構成する能力のうちの一つだろう。
対して、鳥の場合は、理性は除外され、空を飛ぶ能力が入るだろう。
問題がないわけではないが、今回はこの考え方を採用したい。
17.卓越主義(長所と反論)
17-1.長所
卓越主義は、客観的リスト説と同様に、経験機械の問題を回避する。経験機械の中で生きる人は、身体的、社会的能力を行使するかのような経験は出来ていても、実際には行使する活動が出来ていないからだ。
卓越主義の次の魅力は、生物種による幸福の多様性が説明できることだ。快楽主義は、鳥だろうと、人間だろうと、快楽が共通の善であると主張する。しかし、ある動物の幸福は、その動物の本性に依存すると考えるほうが自然ではないだろうか。卓越主義は、なぜ哲学をすることが、人間ならではの幸福であるかを説明できる。
17-2.反論
卓越主義には、難点も多い。
まず、卓越主義によれば、私の幸福は、人間一般としての本性に依存するというが、私個人の本性、つまり個性はどうなるのだろうかという問題もある。客観的リスト説同様、個の主観を十分に考慮できていないという懸念がある。
また、幸福は能力の行使及び発展だが、不幸はどう定義できるだろうか?しいて言えば、能力が減退することが不幸だといえるだろう。
次に、快楽の良さはどう説明できるだろうか?確かに身体的快楽を生み出す感覚は、受動的ではあるが、生物として生きていくのに必要な能力であると説明できなくもない。しかし、感覚を通じて、我々は苦痛も感じる。苦痛を感じることこそ、生存するためには必須の能力である。そうすると、苦痛を感じることが良いことになってしまう!
この結論を避けるために、卓越主義者は、苦痛は、他の能力を減退させるなどの説明が出来るかもしれないが、説得力がない。
最後に、能力の基準そのものの問題がある。理性的能力を欠いた知的障碍者でも、ちゃんと生きることは出来る。理性は人間の本性を構成する能力なのだろうか。また、生きていくうえで嘘はしばしばつかなければいけない。嘘をつく能力を発揮することは、幸福なのだろうか。
これに対しては、卓越主義者達は、人間本性に理性を含めて、嘘をつく能力を除外したがるだろうが、どういう理由があるだろうか。
結局、理性の行使が利己的、道徳的に善く、嘘をつくことが道徳的に悪いからではないだろうか。
ここで、またエウテュプロンの問題が生じる。人間本性の一部だから、ある能力が幸福に寄与するのではなく、幸福や道徳的価値に寄与するからこそ、ある能力は人間本性の一部だと呼ばれるのではないかと。
18.客観主義(まとめ)
さて、客観主義についておおまかなまとめを行う。
客観的リスト説は、項目をうまく選べば、経験機械や、幸福にあまり寄与しない欲求の問題を回避し、常識や直観と合致した結果をもたらす理論が作れそうである。
しかし、リストの各々の項目がなぜ良いか、異質な項目の良さをどう比較するかという理論的な問題を抱えている。
リストの項目が良い共通の理由として、人間本性を持ち出すのが卓越主義である。
卓越主義のこころは、活動を通じて能力を発揮することが良い、というものである。
人間は人間の本性、鳥は鳥の本性によって、人間や鳥ならではの幸福を説明できる点が長所である。
しかし、苦痛が悪いことの説明が難しいうえに、人間本性が価値を決定するのではなく、その逆ではないかという疑念がある。
最後に、客観主義共通の問題として、個や主観の違いが軽視されているのではないかという懸念がある。
19.複合理論
最後に紹介したいのが、折衷案としての複合理論である。
足し算と掛け算の考え方がある。快楽主義と欲求実現説を例にとって説明しよう。
足し算としては、快楽と、欲求の実現が両方良いという多元主義の考え方がある。この説によれば、快いということと、欲求が満たされるということは、両方とも、良い理由になるのである。
掛け算としては、快楽のともなう欲求の実現のみが良いというハイブリッド説の考え方がある。この説によれば、ある物事が良いためには、快楽をともなうことだけではなく、欲求を実現するという両方の性質が必要である。
掛け算に似ているが、主観的要素と客観的要素を結合した理論もある。客観的に価値がある対象に対する主観的な快楽や欲求の実現こそが、幸福であるという立場である。
フェルドマンの提案した修正版態度的快楽主義、つまり、正しく、快楽を抱くに相応しい事態に対する快楽に、とくに価値があるという立場は、この一種である。
複合理論にはたくさんの組み合わせ方があり、その妥当性は個別に検討してみないとわからない。
20.幸福の理論の妥当性の基準は何か(私見)
さて、これまで、幸福に関する理論をたくさん紹介してきた。どれを採用すべきか迷う人もいるだろう。そこで、私見ではあるが、妥当な幸福の理論が満たすべき基準について考えを述べたい。
20-1.直観の説明力
まず、幸福の理論はなによりも正しくないといけない。科学理論は、理論と事実と突き合わせることで正しさを検証するが、幸福の場合、幸福に関する事実を直接観測することが出来ない。そこで、参考にすべきが我々の持つ直観である。思考実験を通じて、直観と理論が一致するか確かめるべきである。
ただし、直観の全てが正しいとは限らない。例えば、道徳の場合もトロッコ問題に関する我々の道徳的直観を直ちに信頼すべきとは限らないと功利主義者はいうだろう。我々の価値に関する直観は誤りうるからだ。
だから私は、理論と直観との一致はかならずしも必要ではないと考える。ただし、直観が誤っていると言い張る場合は、なぜその誤った直観を実際に我々が持っているか、そして持つべきかについて理論は説明しないといけないのである。
功利主義者は、トロッコ問題についてこの説明をしている。行為ベースではトロッコ問題で一人を五人を救うための手段として扱うべきでないという直観は誤っているとしたうえで、そうした直観を持っている方が、功利性がより実現できるとして合理化している。
私は、快楽主義者として経験機械についても同様の合理化を行った。
とはいえ、直観との一致や説明力においては、やはり客観的リスト説が有利ではないかと私は考える。
20-2.理論的な説明力
次に、幸福の理論に必要なのは、何に価値があるかに加えて、それがなぜ、そしてどの程度幸福に寄与するか、という説明である。客観的リスト説はこの点では課題が多い。また、卓越主義や制限された欲求実現説も、なぜという問題に適切に答えているか、疑わしい。この点では私は快楽主義に軍配を上げたい。
20-3.計測可能性
三つ目に幸福の理論に望ましいのは、計測可能性である。ある人がどれだけ幸せか、外的に観察できれば、道徳や政治において幸福を評価するうえで有用である。この点では、(理想化されていない)欲求実現説が優れているだろう。
(ツイキャスで指摘があったように、この基準は理論の妥当性とは関係がないかもしれない。道徳や政治に応用する場合、満たしていたら都合がいいくらいのものである。)
20-4.美しさ
最後に、シンプルできれいというのも、理論に無くてはいけない美点である。この点でも、私は快楽主義を支持したい。
21.幸福の理論の妥当性の基準でないもの(私見)
次に、幸福の理論を選ぶ際に、意識的に除外すべきだと私が考える基準がある。それは、幸福の理論を正しいと信じることで、我々がどれだけ幸せになれるか、というプラグマティックな基準である。
この基準を参考に幸福の理論を選ぶ人は、二つの問いを混同していると思う。
一つは、幸福の本質は何か、事実として何に、なぜ価値があるかという問いである。これこそが幸福の哲学が解明すべき問いである。
二つ目は、何を「幸福」だと信じれば、幸福に生きられるかという問題である。この問いも極めて重要だが、人生論や自己啓発が解明すべき問いであろう。
一つ目の真の幸福は、二つ目の信じるべき幸福とは違う。快楽と同様、幸福にも幸福のパラドックスがあるからである。
幸福だけを直接の目的として追求する人はかえって幸福になれないというのは、よく知られた事実である。幸福な人というのは、時には自分の幸福を犠牲にしてでも、人間関係を大切にしたり、生きがいや使命感をもって何かを成し遂げようとしたり、正義や他人のために行動する人である。
自分の真の幸福だけではなく、人間関係や、何かを成し遂げることや、道徳的に振る舞うことも、それ自体として自分にとって大事だと信じることで、真の幸福が実現されるのである。ここで、概念の汚染が生じる。人間関係や達成や道徳そのものにも、自分にとって価値がある、つまり幸福の一部として組み込まれてしまうのである。
幸福という概念がこうも難解なのは、真の幸福概念が、「幸福」の一部だと信じるべき他の概念で汚染されているからである。
仮に真の幸福を知った冷徹なエゴイストがいたとしよう。彼は、幸福に生きられない自分と他人を比較して、意識的、無意識的に幸福のパラドックスに気づいた結果、幸福がすべてではないとか、人間関係や道徳そのものが幸福の一部なのだとかいうまやかしで自分をだまそうとするだろう。その結果、彼は他者や道徳を尊重する、ごく普通の人になってしまうのである。
このように誤った幸福感を持ってしまった人には、もはや真の幸福と偽の幸福の区別がつけることが難しいし、区別せずに真実を知らないほうが幸福に生きられるのである。
もちろん本人にとっても社会にとってもこれはいいことだ。しかし、問題は哲学をする際も、偽の幸福も幸福の一部だという誤った直観を持ち込んでしまうことだ。だからこそ、経験機械の人生が劣っていたり、徳も幸福の一部だという誤った主張をするのである。
彼らにとっては、幸福について哲学をすること自体も、幸福に生きる営みのうちの一部なのである。だから、幸福に生きるための自己欺瞞をやめられないのである。
しかし、哲学とは、たとえ道徳や幸福のような価値をいくら損なってでも、真実を追求する営みであるべきだとおもう。
22.幸福に関する他の問題
さて、今回のツイキャスでは、何が、そしてなぜ幸福であるかについての議論を紹介した。しかし、これは幸福に関する哲学の一問題に過ぎず、ほかにも興味深い問題はたくさんある。
22-1.幸福は最重要か?
私が個人的にもっとも関心があるのは、万人の利益、自分だけの利益、今の自分だけの利益、どれを最も追求すべきかという点である。私は利己主義を擁護したいが、パーフィットは反論している。
22-2.瞬間的幸福と全体の幸福の関係
幸福にも瞬間的な幸福と、人生全体の幸福があると同意する人が多いだろう。その場合、人生全体の幸福は、瞬間的な幸福の単純な総和で決まるのか、もっと複雑な決まり方をするかという、アトミズムと全体論の対立がある。快楽主義者はアトミズムを取りがちであるが、例外もいる。
22-3.どの場合に死は不幸か?
3つ目に、死の問題がある。誰しも死は悪いことだと考える。しかし、病苦しか残されていない時のように、死んだほうが良い場合もあるだろう。ではどういう場合に死ぬことは利益なのだろうか。極端な主張としては、ヘゲシアスは苦痛をなくす死は常に幸福であると主張し、エピクロスは、死はどういう場合も無害であると主張した点で有名である。面白いことに二人とも快楽主義者である。
対して、多くの人は、余生の価値をはく奪するから、死はたいていの場合悪いと反論する。しかし、いつ死が悪いかという興味深い難問もある。
22-4.幸福をどのように測るか?
4つ目に、幸福をどのように計測するかという科学的な問題もある。
22-5.道徳で幸福だけが問題か?
5つ目に、道徳と幸福の関係についての問題がある。果たして、厚生主義のいうように、道徳的な望ましさは、幸福に関する事実ですべて決まるのだろうか。幸福に関する客観的立場をとるばあい、幸福を道徳的に望ましいものとして押し付けていいのかという問題がある。また、差別に適応して幸福を感じることには問題がないのだろうか。さいごに、人の幸福よりも選好を尊重すべき場合はないのか。
22-6.国家は幸福の増進を直接の目的とすべきか?
最後に、政治と幸福の関係が問題とされる。政治は、国民の幸福を直接目標にすべきなのか、それとも幸福追求の自由や権利を保証する以上に介入してはいけないのか。
23、24.参考文献および入門書
さて、おわりに、参考文献を紹介する。
Guy Fletcherによる入門書は洋書だが、極めてお勧めである。内容は最小限とはいえ、それぞれの理論、論拠や反論が明晰に整理されていて、これぞ分析哲学という感じの本である。ただ、深い内容を望んでいる人には少し物足りないかもしれない。
森村進先生による入門書も、深いところまで踏み込んだ議論が多いうえ、思考実験が豊富でお勧めである。
最後に快楽主義者Ben Bradleyによる入門書がある。論拠や反論が細かく紹介されていて、立場の検討をしたい人に特におすすめである。
入門書ではないが幸福に関するRoutledgeの論文集もある。私が先ほど述べた、幸福に関する様々な問題を幅広く取り扱っており、幸福について詳しく知りたければ必読の書である。
25.私について
最後に、私について。普段はツイッターで散歩家(@Silent_Theoria)という名前で呟いています。あまり良い記事がかけていないけれども、ブログhttp://silentterrorist.hatenablog.com/もご覧ください。
今度、快楽主義について私の考えをまとめた記事を書きます。快楽主義キャスもするので、ぜひ来てね。
幸福について論じた古典的な哲学者でも、特にすきなのがエピクロスとミルです。快楽主義だからというのもあるけども、エピクロスは幸福主義と死無害説を提唱した点、ミルは快楽主義によって、徳や個性など幅広い価値を説明しようとした点が好きです。
私は快楽主義については詳しく勉強しましたが、客観主義についてはあまり知りません。間違いなどを見つけたら、指摘いただければ幸いです。
幸福の哲学を布教したいため、再配布はどんどんしちゃってください。でも、改変する際は一言ことわってください。
では、さよなら。長時間聞いてくださり、ありがとう。
想定問答集
Q:欲求の満足と快楽の違いは?
A:欲求するのを忘れ、何に熱中している時や、ハイな時は、快楽だけあって欲求がないように思える。また、禁欲主義者が感じる快楽は欲求を満足していない。
Q:そもそも幸福に関する真理なんて実在するのか?本人が「幸福」だと直観的に思えるものこそが幸福なのではないか。幸福に関して判断が誤っているというのは押し付けがましい。
A:本人の幸福に関する判断はたしかに誤る。差別に適応して幸福になった人、カルトに洗脳された信者達、マゾヒストや禁欲主義者達はたしかに自分たちが幸福だと信じているだろうが、彼らは本当にそうだろうかと問うことができる。幸せだと信じられることは、確かに幸せの一要因であることには間違いないが、幸せそのものではない。
あと、幸福に関する直観は矛盾している。我々は一方で経験要請を直観的だと思うが、他方で経験機械の中の人生が直観的に悪いと考える。こういう理由からも直観は全信頼できない。
Q:真の幸福が実在するとして、我々はそれをどうやって知ることが出来るのか。
A:確かに、すでに幸福について誤った自己欺瞞をしてしまった我々は、偽と真の幸福の区別がつかないかもしれない。
しかし、真の価値に対する正しい直観は確かにあると思う。経験要請があったが、たしかにいい経験をすることこそが幸福だ、と納得する独我論的な直観が、みんなにはあるとおもう。そして、この直観をもっとも維持しているのが、子どもである。もちろん、子供にも進化によるバイアスはかかっているものの、子供は快楽をもっぱら追求し、それ以上はあまり追求しようとはしない。それが、快楽主義が一見正しく、よく考えてみれば間違っているが、本当はやはり正しいことの決定的な証拠だと思う。