快楽主義のこころ

私が思うに、快楽主義のこころを一言で言えば、独我論である。独我論をとるならば、倫理観としては必然的に(広義の)快楽主義をとらざるを得ない。対して、快楽主義をとるからと言って独我論をとる必然性はないが、快楽主義を支持する直観はやはりどこか独我論的である。以下でこれを説明しよう。

 

1.快楽主義のこころ:人生は自己完結している

私の快楽や苦痛は私の経験に完全に含まれている。私が友達に好かれていたり、真理の大発見をしたと自己満足さえしていれば、たとえ実は友達が私を嫌っていても、私が真理だと思っていたものが実は間違っていても、私の快楽は揺ぎ無いのである。私の幸福が、私の経験だけで完全に決まると主張する点で、快楽主義は自己完結的である。

これは例えば欲求の充足が幸福であると主張する、欲求充足説とは対照的である。本当に友達に好かれていないと、本当に真理を発見しないと、私の欲求は本当には満たされない。私の経験を超えた、他者や世界についての事実が重要だと主張する点で欲求充足説は自己完結していない。

私がここでいう独我論は、私の経験以外には何も存在しないという立場である。独我論をとれば、私にとって良かったり悪かったりするのは、私の経験のほかにはない、つまり快楽主義が正しいことになる。

逆に、他者や客観的な世界が存在したとしても、快楽主義は矛盾なくとることはできる。しかし、快楽主義は、他者や世界が、まったく重要ではない、すなわちあっても無くても私の幸福に変わりはないと主張する点で、倫理的な意味で独我論的だと言わざるを得ない。

 

2.快楽主義のこころ:人生は享受するものである 

快楽や苦痛というのは享受するものである。冷房の風を受けたり、おいしいものや面白い動画を消費したり、快く寝たり、これらはすべて受け身な快楽である。もちろん、スポーツをしたり、面白い仕事をしたりなど、主体的な活動の過程で得られる快楽もあるが、これも主体性そのものというよりも、その結果である。苦痛はもっと明らかだ。進んで苦痛を経験しようとする者はなく、苦痛は仕方がなく受けるものだ。

快楽主義は、我々が何を試み、何が達成できたかよりも、その結果何を享受したかを重視するのである。これに対しては、快楽主義は人間の主体性を軽視しているという反論もあるだろう。例えば、たとえ苦しくても目的に向けて必死に頑張り、目的を達成することが良い、というような幸福観がある。我々は単に経験する自己ではなくて、意志して努力する自己なのだ、快楽は前者を充足しても、後者は充足しないのだと。

これに対して快楽主義者は、主体性や努力する自己そのものを懐疑するのではないだろうか。我々は自らを自由な意志を持った主体的な自己だと思っているが、自由意志や、主体なんて経験のどこを見回してもないではないか。主体的に、自由に努力しているというのも、我々が享受する一種の経験にすぎないではないか、と。

この発想は再び独我論的である。私の経験だけしか存在しないとすれば、私という主体すら消去されてしまう。あるのはただ映像のように流れる経験だけであり、我々はそれを鑑賞する観客にすぎない。

快楽主義は無主体論と親和性が高く、独我論は無主体論を含意するのである。

 

3.快楽主義のこころ:人生は瞬間の総和にすぎない

快楽や苦痛は、すべて、のものである。将来への期待、過去の回想による快楽や苦痛も、すべて期待や回想をする今において生じているものである。快楽や苦痛は、1.で述べたように個人の経験の中で自己完結しているだけではなく、時間的にも自己完結しているのである。

それによれば、今の私の幸福は、今の私の経験だけで決まる。過去や将来に影響されて、今が意味を持つことはないのである。

もし、人生全体の幸福という概念があるにしろ、それは過去、現在や将来の各時点の今の幸福の総和に他ならないと考えるのが自然だろう。この考え方がすなわち幸福に関するアトミズムである。

 

対して、例えば欲求は時間を超える。将来研究者になりたい、明日ラーメンを食べたい、といった欲求は、抱く時点と充足される時点に違いがある。(*1)そうすると、将来に今の欲求が満たされるか否かに応じて、今の幸福が遡及的に変わる可能性もあるだろう。

また、人生は物語的な有機的全体である、という考え方もある。例えば、過去の努力が将来に実を結べば、過去の苦労も報われることになり、これも過去や将来との関係によって、今の幸福が変わるという発想につながる。ほかにも、各時点の幸福以前に人生全体の幸福が先にあるのだ、という考え方などがある。

 

これらの考え方に対し、快楽主義者は、次のように反論できるだろう。

・後になって望みがかなっただとか、報われたというのも、後になってから感じた喜びにすぎず、過去の私を幸せにしたり、過去の苦労を軽減するものではない。

・人生全体を通じた物語や意味というのも、やはり人生の時々において、見通しては肯定されるものであって、結局は瞬間的な快楽に還元される。

 

さて、この発想はやはりどこか独我論的である。独我論を突き詰めると、今の私の経験しか存在しない、という独今論にたどり着く。過去や将来の私の経験も、他者の経験と同様、直接は経験されないからである。

独今論から額面通りに、過去や将来の<私>は存在しないだとか、時間を通じて自己同一な「私」という利害の主体は存在しない、という極論をしないにしても、私の今の利害は過去や将来から独立しているだとか、人生全体という物語も実在するというよりは各時点で抱く観念にすぎないという、主張はできるのではないか。

 

4.まとめ

快楽主義者の考える人生観を例えるならば、孤独な映画鑑賞そのものである。映画が現実だろうと、フィクションだろうと、映画の楽しさに変わりはない。また、鑑賞者は一方的に決まった映画の内容を享受するだけである。最後に、映画はコマの集まりである。確かに映画には物語性もあるが、物語性を楽しむことを含めて、すべてが映画のコマの内容に含まれているのである。

他者、自己、世界がなくても、彼はどこか消極的に人生をゆるく楽しみ、内容に満足して人生を終えるのである。

 

 

*1:これが原因で欲求充足説にはいろいろな難点があるが(欲求の充足が「いつ」良いのか、過去の欲求は尊重すべきか等)、快楽主義にはそのたぐいの難点は一つもない。快楽主義者Ben Bradleyが言っているように、これは快楽主義の見過ごされた一つの長所である。