快楽主義の擁護1(快楽の質の問題)

快楽主義とは、簡単に言うと次の立場である。

Ⅰ.快楽のみが、本人にとって良く、苦痛のみが、本人にとって悪い。

Ⅱ.快楽の良さは快楽の度合に比例し、苦痛の悪さは苦痛の度合に比例する。

 

快楽主義に対してよく向けられる批判の一つとして、快楽の質の違いによる反論がある。

 

反論1.ある人がクラシック鑑賞をする(高級な)快楽と、ピザを食べる(低級な)快楽の度合いが同じだとする。快楽主義の仮定Ⅱによれば、両者の快楽の価値は同じである。しかし、前者のほうが価値あるのではないか。

 

反論2.ある人間が作曲に一生を費やし、ある牡蠣が水辺にぷかぷかと浮かぶ一生を送ったとする。もし、後者の牡蠣が仮にいくらでも長生きできた場合、いつかぷかぷかと浮かぶ快楽の価値が、作曲をする快楽を上回る時点がある。しかし、いくら長生きしても、牡蠣の生の価値は、人生の価値におよばないように思われる。

 

1.反論1に対する再反論

そもそも、高級な快楽が低級な快楽よりも価値があると考えられる直観は何に依拠しているだろうか。それは、「われわれ」が高級な快楽を低級な快楽よりも経験したいと「欲求」するからに尽きるのではないか。

 

つまり、反論1は次の主張をしていると思われる。

①「われわれ」がそれ自身のために欲求することこそが、良いことである。

②「われわれ」は低級な快楽よりも高級な快楽をそれ自身のために欲求する。

③高級な快楽のほうが、低級な快楽よりも良い。

 

「われわれ」とは誰のことだろうか。

反論1を受け入れ、高級な快楽が低級な快楽よりも価値があることを認める快楽主義者J・S・ミルによれば、高級な快楽と低級な快楽を両方知った、理性や判断力のある人だという。しかし、このような理想的な判定者を想定するまでもなく、こうして哲学する我々自身が、「われわれ」として高級な快楽をより欲求していることは事実である。

 

1-1:②の批判 

再反論にうつろう。

まず、②が疑わしい。たしかに、快楽の度合いが同じであれば、「われわれ」はクラシック鑑賞をピザを食べるよりも欲求する。しかし、それはクラシック鑑賞の快楽をより欲求するからではなく、クラシック鑑賞することそれ自体や、クラシック鑑賞に対して快楽を抱くことをより欲求するからではないだろうか。実際、クラシック鑑賞をピザの食事よりも欲求するのはなぜかと聞かれたら、美そのものや、美を楽しめることに価値があるからと答えるのであり、快楽が貴いからと答える人はほとんどいないだろう。

 

つまり、ここでは三つの欲求がかかわっていると思われるのである。

a)クラシック鑑賞(ピザの食事)の快楽に対する欲求

b)クラシック鑑賞(ピザの食事)をする事態そのものに対する欲求

c)クラシック鑑賞(ピザの食事)をすることに快楽をいだくことに対する欲求

 

クラシック鑑賞とピザの食事では、a、b、cのすべてが満たされる。前者に対する欲求が強いのは、bとcの欲求が強いからであり、aの欲求に違いはないと考えられる。

よって、仮に①を認めるにしても、a)快楽そのものの価値には変わりはないと主張することができる。③を認めるミルは誤っていたのである。

 

1-2:①の批判

それでもなお、①を認めれば、クラシック鑑賞には、a)快楽の価値以外に、b)快楽とは独立した美的価値や、c)快楽が見出されるに相応しいという価値があると主張できる。ミルは暗黙の裡にこういった快楽とは独立した価値を認めていたのではないか、と疑うことができる。 

 

快楽主義はa)快楽の価値のみを認め、b)美そのものや、c)相応しさという価値を認めない。しかし、われわれは快楽とは独立して美を求め、美に快楽を見出したいと欲求するのである。それでもなお快楽主義を擁護するには、①を否定しなければならない。

また、そもそも快楽主義は、①を前提して、快楽が欲求されるから良いと主張するのではない。それは欲求充足説の主張である。快楽が快いというまさにその理由により、快楽は良いと主張するのが快楽主義である。快楽主義と①は相容れず、快楽主義を擁護するには①が否定されなければならない。

 

①の欲求充足説に対しては、下記の記事で反論を行った。

欲求充足説に対する反論 - 思考の断片

要点は、欲求の充足が良いのは、あくまで満足感という快楽をもたらす場合に限られるということであった。

 

ここで、二つの場合を考えよう。

(i): a)快楽に対する欲求から独立して、b)美を観照する欲求や、c)美に対して快楽を見出したい欲求が満たされることが、満足感を少しでももたらす場合

(ii): a)快楽に対する欲求から独立して、b)美を観照する欲求や、c)美に対して快楽を見出したい欲求が満たされることが、満足感を全くもたらさない場合

 

(i)の場合、クラシック鑑賞による直接的な快楽のほか、クラシック鑑賞をし、それに満足感を見出すという事実に対する満足感という別の快楽が存在することになる。快楽主義者はこれら別の快楽があるから、クラシック鑑賞はピザの食事に勝ると答えることができる。(つまり、反論1の前提が成り立たない)

 

(ii)の場合は、b)やc)の欲求が満たされても、満足感が全く得られないため、ちっとも良いことではない、と上の記事から主張することができる。(つまり、反論1の結論が間違っている)

 

以上より、いずれの場合も快楽主義を反論1から擁護することができるのである。

 

なお、快楽の度合いが同じならば、クラシック鑑賞が、ピザの食事と価値が変わらないという上記の主張はもちろん、クラシック鑑賞をピザの食事よりも欲求することが不合理だと含意するわけではない。クラシックを鑑賞して審美眼を鍛えることで、長い目で見ればさらに多くの高度な快楽が得られるだろう。美そのものには価値がないのだが、あたかも価値があるかのように美を欲求したほうが、結果的に快楽という真の価値が多く得られるのである。

 

2.反論2に対する再反論

 反論2の主張を精緻化すると次のとおりである。

人間の快楽の密度をH、快楽を享受した時間をT、牡蠣の快楽の密度をh、快楽を享受した時間をtとおく。

⓪快楽主義が正しいとする。

①快楽主義のⅡより、人間と牡蠣の快楽の価値はそれぞれ、H×T、h×tである。

②①と快楽主義のⅠより、人間と牡蠣の生の価値はそれぞれ、H×T、h×tである。

③十分に大きい実数tに対して、h×t>H×Tであり、②より、牡蠣の生の価値は人間の生の価値を上回る。

④しかし、tがどんなに大きくても、牡蠣の生の価値は人間の人生の価値を上回らない。

⑤③と④が矛盾するので、仮定⓪は誤っている。

 

 さて、どのように反論すべきだろうか。

まず、①は自明ではない。時間が増えれば快楽の価値は増えることは確かかもしれないが、時間に比例して快楽の価値が増えるとは限らないからである。牡蠣の快楽の価値が、h×f(t):f(t)が上界Fのある増加関数であり、h×F<H×Tならば、どんなにtが大きくとも、牡蠣の生の価値は人間の生の価値を上回らず、③も成立しない。

※私は、例えばf(t)として有界な関数∫[0,t]exp(-λs)dsを設定したいと思う。

 

 つぎに、仮に①が正しいとしても、③が正しいとは限らない。たしかに、もし快楽の密度hやHが実数ならば③は成り立つ。しかし、例えばhやHが辞書式順序の入った実数の組(x,y)だったらどうだろうか。人間が作曲する快楽を(P,0)、牡蠣がぷかぷかと水に浮かぶ快楽を(0,p)とした場合、つまり人間の快楽の次元が牡蠣の快楽より高いとした場合、いくら実数tが大きくとも、人間の快楽(PT,0)>牡蠣の快楽(0,pt)であり、牡蠣の快楽は人間の快楽にかなわない。

私は、快楽や苦痛の度合いは、実数値ではなく、このように次元があるものだと思う。大きい苦痛の負の価値は、ちんけな快楽をいくらかき集めたところで相殺できないのである。

 

3.まとめ

われわれは、快楽の量が同じでも、高級な快楽をもたらすクラシック鑑賞を、低級な快楽しかもたらさないピザの食事よりも欲求する。しかし、それは、高級な快楽そのものがより望まれるからではなく、快楽以外のことを欲求するからである。ただ、いくら欲求されるからといって、欲求が満たされた際の満足感というやはり一種の快楽がなければ、価値はないというのが私の見解である。

また、快楽の度合いには次元がある。低次の快楽は、いくら量をかき集めても、高次の快楽の価値には及ばない。だから、例えば牡蠣の快楽は、どんなに持続しても人間の快楽に、及ばないのである。