欲求充足説に対する反論

1.欲求充足説について

 世の大半の人は、欲求に素直である。彼らは本当にしたいことが(自分にとって)良いことを疑わない。
 確かに、大人は子供と違って、自分がしたいことが、本当にしたいことなのかを考える。誰しも、歯医者には行きたくないが、行かなければ虫歯が進行することを考慮して、総合的には行きたいと欲求するから、歯医者に行くのである。
 しかし、ここまで考えて、歯医者に行きたいからといって、歯医者に行くことは自分にとって本当に良いことなのかと疑う人はいない。やはり彼らにとっては、欲求すること=良いことなのである。
 哲学者達の間では、さらに強い立場が有力である。彼らはたんに、歯医者に行きたいと欲求するならば、歯医者に行くことが良いと主張するだけではなく、歯医者に行きたいと欲求するからこそ、歯医者に行くことが良いと主張する。
 つまり彼らは、欲求が、良いものを正確に把握するだけではなく、欲求こそが、良いものを良いものたらしめるものである、と主張しているのである。
この立場は欲求充足説(Desire fulfillment theory or DFT)と呼ばれる。

 

欲求充足説

①欲求が充足することのみが常に良く、欲求が充足しないことのみが常に悪いことである。

②欲求の充足の良さや、欲求の不充足の悪さの程度は、欲求の強度に比例する。

③:①では、欲求が充足するからこそ良く、欲求が充足しないからこそ悪い。

欲求の充足:欲求はある命題Pに真であってほしいという態度である。命題Pに対する欲求が充足するとは、この態度を抱き、かつ命題Pが真である事象を指す。

 

私は、この立場に全面的に反対し、次のように主張する。

 

欲求充足説に対する反論

Ⅰ.欲求が充足されても、(そこまで)良くはないこともある。よって、①(や②)は偽である。
Ⅱ.欲求が充足されなくても、良いこともある。よって、①は偽である。
Ⅲ.Ⅰ、Ⅱより①は偽であり、欲求は、良し悪しの大まかな指標に過ぎない。

Ⅳ.Ⅰより②は偽であり、欲求の強度とは別に、良し悪しの程度を決める基準がある。

Ⅴ.Ⅲ,Ⅳより、③も偽である。

 

Ⅲ、Ⅳ、ⅤはⅠ、Ⅱより導かれるため、ⅠおよびⅡを示す。

 

Ⅰ:欲求が充足されても、(そこまで)良くはないこともある。

 

2.死海の林檎に対する欲求

・見た目は美味しそうな林檎でも、触れた瞬間灰になってしまうリンゴがあるとする。この死海の林檎に対する欲求が充足しても、全く良いことではないように思われる。これはⅠの例ではないだろうか。


これに対しては、欲求充足説からは二つの答え方があると言われる。
 一つは、欲求の充足の中でも、欲求を抱くのと同時の充足が重要だ(Concurrent desire fulfillment theory or CDFT)とする答え方である。死海の林檎を欲求するのは、手に入れるまでであって、手に入れた瞬間欲求が失せてしまう。よって、死海の林檎が欲しく、同時にその欲求が充足される時は全くない。したがって、CDFTによれば、欲求は本当に充足されておらず、Ⅰは成り立たない。
 二つ目は、実際の欲求ではなく、知識や思慮が十分だった場合の理想的な欲求の充足が重要だ(Idealized desire fulfillment theory or IDFT)という答え方である。もし、死海の林檎であることを知っていたならば、それを欲求することもなかったであろう。したがって、IDFTによっても、理想的な欲求は充足されておらず、Ⅰは成り立たない。
 私はここでは、CDFTやIDFTに対して反論はしない。だが、これらがDFTの残った候補であることは示せたと思う。

 

 

3.自分のものではない欲求
女性差別があった時代に、女性が家事をしたいと妥協的に、しかし強く欲求していたとする。彼女が望み通り、家事に専念できたとしても、彼女にとってそこまで良いことではないと言えないだろうか。
・ミーハーな人が、広告で宣伝されていたり、流行っていたから、変なぬいぐるみを強く欲しいと思ったとする。そんなぬいぐるみが手に入ったところで、そこまで良いことではないと言えないだろうか。


 両方の主張を支えている直観は、欲求が本当にその人のものではないという点である。であれば、欲求が充足されても、その人にとってはそこまで良いことではないのではないだろうか、というのである。
 これに対しては、先ほどのCDFTはうまく答えられないように思える。対して、IDFTからは、本当の自己は何者かを知るならば、自分のものではない欲求は抱かなかったであろう、と主張することは可能であるように思える。

 


4.満足感を伴わない欲求の充足
・我々は死にたくないと意識的であれ無意識的であれ、常に欲求している。しかし、死にたくないという欲求が常にかなえられていても、それだけで特段我々が幸福なわけではない。(死ぬことに比べて、相対的に幸福かもしれないが。)死にたくないという欲求の充足は、それだけで見ると(そこまで)良いことではない。
・私が電車で見知らぬ人と打ち解けて仲良くなり、その人にもっと幸せになってほしいと欲求するようになったとする。そして、その人は実際にもっと幸せになったのだが、私はそれを知ることがないとする。この場合、私の欲求は充足されても、私にとっては(そこまで)良いことではないように思える。


 これらには、CDFTもIDFTもうまく反論できないように思える。前者を例に挙げると、死にたくないと欲求するのと死なないのは同時であるし、知識や思慮が十分でも我々は死にたくないと欲求しただろう。
 さて、両者に共通しているのは、本人が何ら満足感を得ていないということである。もし、前者の例で、生きられて恵まれている、とありがたみを感じているならば、死にたくないという欲求の充足は良いものだろう。もし後者の例で、見知らぬ人が幸せになったことを私が知って満足したならば、欲求の充足は良いものだろう。つまり、重要なのは、欲求の充足そのものよりも、それに伴う満足感だと私は主張したい。

 

2.から4.の例により、欲求充足説はⅠの反論に耐えられないのではないかと私は考える。

 

Ⅱ:欲求が充足されなくても、良いこともある。

 

5.純粋経験
・なんの欲求もなくても、気分が高揚していたり、心が平安だったりすることがある。欲求が充足されていなくても、これらの心的状態は良いものではないか。
・ゲームを遊びたいと欲求する余裕もないほど、ゲームに熱中しているとする。いわゆるフローの状態である。欲求が充足されていなくとも、ゲームに熱中することは良いことではないか。

 

 欲求充足説からこれらに対して決まってなされるのは、欲求がないのではなく、単に意識されていないだけであるという反論である。ハイでいたい、平安な境地でいたい、ゲームを遊びたい、という無意識の欲求は確かに充足されているではないか、と。
 もし無意識の欲求なるものを認めれば、確かにⅡは成り立たないだろう。しかし、無意識な欲求があるとして、いったいどれくらいあるのだろうか。死にたくない、世界に平和であってほしい、苦しみを避けたい、幸福になりたい、癌になりたくない…枚挙に暇がない。これら全てが無意識の世界でうごめいていて、それぞれの欲求の充足不充足が全て私の幸福に寄与しているとはにわかには信じがたい。
 また、意識すらされていないのに、欲求の強度はどのように定義されるのだろうかという疑問もある。
 最後に、そもそも私は、無意識な欲求の充足には価値が無いと思う。無意識な欲求には満足感が伴わず、4.のケースに該当すると考えるからである。


6.最後に
 この記事では、欲求されることと価値はイコールではなく、ましてや欲求されるから価値があるわけではないことを示した。欲求が価値を規定するのではなく、逆に価値があるからこそ、欲求するに値するのである。
 私は、何かを欲求する前に、欲求する当のものを手に入れることでどういう価値が実現され、手に入れないことでどういう価値が損なわれるかを思慮し、本当に欲求するに値するかを見極めたい。私は、たんに欲求するのではなく、価値とは何かについて常に考え、価値を欲求する倫理的な人間でありたいと強く欲求するのである。