動物にとって苦痛は害悪なのか

1.苦痛と害悪

 我々の多くは、苦痛が悪いのは当たり前だと考える。確かに苦痛を好む人はいない。マゾヒストという例外もいるように思えるが、彼らは単に、通常の人が苦痛と感じるものを快楽として感じているだけである。

 しかし、苦痛と害悪は概念としては決して等しくない。それは「Xは苦痛である、しかしXは私にとって害悪だろうか」という問いが無意味ではないからだ。実際、この問いに対しては、例えば「いや、苦痛など取るに足らない」と答えることも論理的に可能である。しかし、もし苦痛が概念として害悪に一致していれば、この問いは、「Xは害悪である、しかしXは私にとって害悪だろうか」という問いと同様に馬鹿げているはずである。

 では苦痛と害悪はどのように異なっているのだろうか。苦痛はある意識に内在する属性である。もしくは、ある意識内容に対する嫌悪である。いずれにせよ、それら単独では単なる意識や態度であって、それ自体価値とイコールではない。対して、害悪というのは(主体にとっての)負の価値そのものである。それは単に嫌いなだけでなく、忌避すべきものである。例えば、「苦痛など取るに足らない」という人は、確かに苦痛を感じ嫌悪もしているが、苦痛を無くすべきだと考えていない。苦痛や嫌悪と、価値は別物なのである。

 では(ある主体にとって)価値があるとは何を意味するだろうか。私は、その主体自身が価値を見出す(価値があると直観する)ことに他ならないと思う。もちろん、我々が間違った価値を見出すこともある。例えば、喉が渇いている時、目の前の生水が自分にとって良いものに思えるかもしれないが、実はそれが汚染されていて悪いものかもしれない。しかし、知識や思慮が十分な理想的な状況下で直観されるであろう価値は、正しいと言って良いのではないかと思う。

 

2.動物にとって苦痛は害悪なのか

 動物が苦痛を感じ、苦痛を避けようと欲求することは科学的な類推からわかる。しかし、その苦痛は動物にとって負の価値があるものなのだろうか。つまり、動物は、苦痛に対して負の価値を見出しているのだろうか。

 私は、良し悪しの概念すら持たない動物に、良い、悪いという価値判断を下すことが出来るか、はなはだ疑問である。彼らは苦痛を避け、欲求を満たそうとするが、実は、良さや悪さなんてものは彼らにとっては無いのかもしれない。動物が我々と同等の倫理的直観を備えているかというのは、動物が我々と同様に苦痛や欲求を備えているかという問題よりはるかに疑わしい。
(たぶん、ヒトに近い動物は備えているのだろう、と思うが。)

 確かに我々は動物にとって苦痛が悪いと直観する。しかしその直観はあくまで我々の直観であって、動物自身の直観ではない。我々は、自分が動物の身になってみて、あんな苦痛を被るのはごめんだと想像する。しかし、どんなに動物の身になったつもりでも、価値を見出しているのは我々人間である。我々は動物の苦痛を想像できても、動物の視点に立って苦痛を価値づけることは決してできない。我々から見た場合、動物にとって苦痛は悪いのであるが、動物自身から見た場合、自身にとって苦痛が悪いかどうかは、我々にはわからないのである。

 対して、人間の場合は、誰しも苦痛に負の価値を見出していることがある程度類推できる。というのも他人とは苦痛や価値という概念を共有していて、「苦痛は悪いものだ」と意志疎通ができるからである。

 以上より、(動物自身から見て)動物にとって苦痛が悪いか、そもそも悪いということがあるのかどうかは疑わしいのに対して、(その人自身からみても)ある人にとって苦痛が悪いと考える理由はある。

 

3.動物に苦痛を与えることはやはり道徳的に悪い

 しかし、だからといって私は、動物に苦痛を与えることが道徳的に許容されるとは思わない。道徳が問題とするのは、動物自身ではなく、あくまで、道徳の主体達(主に人間)から客観的にみて、動物にとって苦痛が悪いかだからである。そして、我々からみて、動物にとって苦痛が悪いのは間違いがない。

 このような道徳は、人間の価値の押し付けであり、傲慢だと批判されるかもしれない。本当に動物のことを思うのならば、動物の立場から見た価値を追求すべきではないのか。確かに、我々は極力動物の立場に立たなければならない。しかし、いくら動物の立場に立ったところで、(動物と会話は出来ないのだから)最終的に道徳的判断を下すのは、結局は道徳的に行動する我々人間である。これが我々に出来る精一杯のことである。道徳は客観的で他者視点であり、傲慢であることから逃れられない。