快楽主義について(その2)

利己的快楽主義というと、どこか享楽的で、不道徳な響きがする。しかし、私が考える利己的快楽主義者のイメージは、非快楽主義者と見かけはほとんど変わらない。彼は、しっかりとしたライフプランも持ち、道徳を尊重し、人生の意味を追求するだろう。私は、以下で、私の考える利己的快楽主義は極めて穏健で健全であることを主張したいと思う。

 

まず、利己的快楽主義にも、心理的快楽主義、規範的快楽主義と価値論的快楽主義がある

 

1.心理的快楽主義

心理的快楽主義は、人間や動物の心理について次の命題が正しいと主張する。

・我々人間や動物は常に、自分の快楽のみを、最終的な目的として追求する。

 

例えば、我々がアイスクリームを食べたいと思うのは、厳密にはアイスクリームを食べたいからではない。もしアイスクリームを美味しいと思わなければ、つまりなんの快楽ももたらさないと思われれば、アイスクリームを食べる理由はないだろう。我々は、アイスクリームのもたらす快楽を目的として、アイスクリームを手段として食べるのである。

対して、我々は快楽を他の何の目的のために追求するわけでもない。何のために快楽を求めるのか、という質問は愚問であり、快楽は快楽それ自身のために求めるものである。以上より、快楽は最終的な目的だというわけである。

 

しかし、私は、心理的快楽主義は上の例については正しいが、成り立たない場合もあると思う。

例えば、道徳的な動機から人を助けるとき、我々は道徳的満足感を得るために助けるというよりは、助けるべきだから助けるのである。もし仮に、道徳的満足感という快楽よりも、助ける労力が大きいとわかっていても、道徳的な人は人助けするのである。

また、例えば、好きな友達に愛されたいのも、決して愛される満足感を得るためだけではないだろう。もしそうだとすると、我々は友達に愛されると信じられるだけで満足するはずである。しかし、我々は愛されていると信じたいだけではなく、実際に愛されたいのである。

 

2.規範的快楽主義

心理的快楽主義は事実言明であるのに対して、規範的快楽主義は価値に関する以下の主張である。

・我々人間や動物は常に、自分の快楽のみを、最終的な目的として追求すべきである。

(追求することが当の人間や動物にとって、最も価値あることである)

ここでいう「べき」に道徳的な意味はない。あくまで、自分のために利己的・合理的に、追求することに価値があると主張しているに過ぎない。

 確かに、友情、達成、道徳など、快楽以外にも自分のために追求すべき価値はある。しかし、規範的快楽主義は、これらはあくまで快楽をもたらす手段として追求すべきだというのである。誰かと友達になっても、何かを成し遂げても、道徳的に振舞っても、それで楽しかったり満足感が得られなければ何の意味もない。全ては快楽を得る手段なのである、と。

 

確かに、快楽のみを目的として追求するという行動原則をとることはできる。しかし、それが私にとって最も価値があるとは思えない。快楽主義のパラドックスがあるからだ。

快楽は、直接の目的として追求してはかえって得にくいものである。快楽そのものではなく、快楽を生み出すものを直接の目的として追求したほうが、多くの快楽が得られるのである。

・道徳的な満足感は大きな快楽だが、自己満足のために道徳的行為を行うことは、道徳的な意義を損ない、かえって道徳的な満足感を損なう。道徳のために道徳的行為をしてこそ、道徳的満足感が最も得られるのである。

・少し話がずれてしまうが、道徳を目的として追求すればするほど、自他の利害は一致し、争いで傷つけあうことが少なくなる。自己中心的な人は、周囲との争いが絶えないのに対して、利他的な人は、誰からも愛される。どちらが多くの快楽を得られるかは明らかだろう。

・達成による達成感も大きな快楽だが、達成感それ自体を味わうために、達成を成し遂げようとすることは、達成それ自体を目的とする場合に比べて、モチベーションが弱い。達成を成し遂げたいという欲求は無条件な意志であるのに対して、達成感を味わえる限り、達成を成し遂げたいというのは、条件づけられた欲求に過ぎないからである。達成感それ自体のためではなく、達成を成し遂げるために努力してこそ、達成を成し遂げられる可能性がより高くなり、達成感も最も得られるのである。

以上より、快楽を目的として追求することは、かえって快楽を損ねてしまう。規範的快楽主義を取る理由はない。

 

以上の二つの立場は、記述的・規範的の違いがあるにせよ、評判が悪い。自分の快楽を直接の目的として求める・求めるべきという姿勢は、享楽的、利己的だと思われても仕方がないだろう。また、どこか自己完結していて、虚しいと思われても仕方がないだろう。

 

3.価値論的快楽主義

私にとってもっとも魅力的なのは、次の価値論的快楽主義である。

・我々人間や動物にとって、自分の快楽のみが、最終的な目的として価値あるものである。

一見、規範的快楽主義との違いが分からないかもしれない。しかし、「目的として追求すべき」ことと、「目的として価値がある」ことは全く別である。価値あるからと言って、直接追求すべきとは限らないのである。

実際、もし快楽に目的として価値があるとするならば、快楽主義のパラドックスにより、快楽を目的として追求することはかえって快楽を損なうから、快楽を目的として追求すべきでないことになる。

価値論的快楽主義は、他の価値に対して排他的でない。

たとえば、快楽以外の道徳や、(達成などの)人生の意味を最終的な目的として追求すべきではないとは主張しない。もし結果的に快楽を増進するならば、道徳や人生の意味を最終目的として追求することも奨励するのである。

快楽主義のパラドックスより、道徳や人生の意味を直接目的として追求することは、快楽を得る手段として追求するよりも、多くの快楽をもたらす。だから、価値論的快楽主義は、人生の意味や道徳を目的として追求する欲求と矛盾なく両立するのである。

確かに、人生の意味や道徳を追求することは、時として快楽の追求を犠牲にすることもあるだろう。何事も程度問題であり、人生の意味や道徳の過度な追求は、快楽を犠牲にする。もしそう判断された場合は、彼は自身の道徳的欲求や、意味に対する欲求を意識的に弱めようとするだろう。逆に、人生の意味や道徳に対する欲求が弱すぎて、自身の人生が空虚だと感じられた場合は、彼は自分の欲求を意識的に強めようとするだろう。

 

こう説明すると、結果的に快楽が増えるから道徳や人生の意味を追求しているのであり、結局道徳や人生の意味を快楽を得る手段として位置づけてはいまいかと批判する人がいるだろう。しかしそれは違う。

彼は、決して、快楽を得られる手段として、新たに道徳や人生の意味を追求しようとするのではない。彼はあくまで、既に道徳や人生の意味に対する欲求を持ってしまっている以上、それ自体のために追求するのである。単に、それらを快楽とは別に追求することが結果的に快楽という価値を損ねないから、欲求を抑制する理由がないだけである。

確かに、快楽を増進するという理由で、道徳や人生の意味に対する欲求を強めようとすることは、快楽を得る手段かもしれない。しかし、一度それが成功して欲求が強められたら、手段であったはずの道徳や人生の意味は目的となるのである。

 

道徳や人生の意味に対する欲求が強すぎれば抑制し、弱すぎれば強めようとする、この戦略により、価値論的快楽主義者は、人生の意味、道徳、快楽を目的として追求する欲求を、結果的に快楽が最大化するような適当な割合で保持する。彼は、時に快楽を目的として追求することもあるが、道徳のために道徳的に振舞うし、人生の意味のために盛大なプロジェクトを手掛けたりもする。彼は利己的快楽主義であるにも関わらず、十分に道徳的で実存主義的なのである

 

4.価値論的快楽主義の擁護

4ー1.経験機械の問題

多くの人は、現実世界の中で生きた人の生のほうが、経験機械で同じ経験をした人の生よりも良いと考える。前者には成し遂げたものがあるが、後者は何も成し遂げていないのだから、と。しかし、価値論的快楽主義によれば、両者の人生の価値は変わらないのである。

私は、我々は成し遂げることを目的として追求すべきだし、それゆえに経験機械で生きたくないと欲するべきだと考える。先ほど述べたように、快楽主義のパラドックスにより、達成感のためではなく、達成のために努力をしてこそ、より達成感が得られるからである。

経験機械の生が一見悪いと思われるのは、経験機械の生が嫌悪すべきものだからではないだろうか。もしそうであれば、これは価値論的快楽主義に反しない。

 

4ー2.不道徳な快楽と美しい快楽

多くの人は、同じ快楽でも、動物虐待によって得る快楽より、読書をしたり、高尚なクラシック音楽を聴くことで得る快楽のほうが価値があると考えている。しかし、価値論的快楽主義によれば、両者の快楽は同じである。これはどう説明できるだろうか。

ここで、道徳だけではなく、美そのものを目的として追求する欲求を持つことは、結果的にかえって快楽を増進するのではないかと思う。(知識についてもおそらく同様である)美的観照は大きな快楽である。しかし、快楽のためだけに美を追求する即物的な姿勢を取ることは、審美眼を曇らせる。また、知も、観照や技術を通してたくさんの快楽をもたらすが、知を快楽や即物的な利益のために追求していては、かえって知が得られないことは、古代ギリシャや近代の科学革命の例を見れば明らかである。

だから、動物虐待の快楽があまり良くないのではなく、快楽とは別に、動物虐待することを道徳的に嫌うべきなのである。美や知のもたらす快楽が特に良いわけではなく、快楽とは別に、知や美を好むべきなのである。これは、価値論的快楽主義に反しない。 

 

5.まとめ

快楽主義にも、快楽を直接追求すべき、という立場と、快楽の価値を間接的に追求しようとする立場がある。前者には賛同できない、快楽主義のパラドックスにより、直接快楽を追求することは、かえって快楽を損なうからである。対して、後者には賛同できる。快楽だけが価値あるものだと言っても、快楽以外の道徳や人生の意味を目的として追求すべきでないとは限らず、むしろそれらも適度に追求したほうが快楽はより多く得られるのである。

それだけでなく、快楽以外の、目的として追求すべき道徳や人生の意味は、経験機械の生や不道徳な快楽を我々がなぜ嫌悪すべきか、説明を与えてくれるのである。

私は、適度に道徳的に、そして人生の意味を追求しながら生きつつも、価値論的(利己的)快楽主義者として、自分がいかなる欲求を持つべきかについてしっかり吟味をして生きていきたいと思う。