意志について

1.無条件欲求

 私は、死は私にとって悪くはない、もしくは不幸でないと主張した。しかし、それだけではない。私は、(死ぬまでの苦痛はともかく)死そのものにはほとんど無関心である。つまり、死で挫かれる欲求がほとんどない。

 果たしてそんなことがあり得るのだろうか。哲学者Steven Luperは、死で欲求を一切挫かれないような「エピキュリアン」がどういう欲求を持ちうるかについて、論文「Annihilation」で以下のようにまとめている。

・逃避欲求(もし時点tでXが事実でなければ、時点tで私が死んでいるほうがマシだ)

 死は逃避欲求を挫くどころか、必ず満たす。後件命題が真になるからである。

 

・独立欲求(時点tでXに事実であってほしい:Xが実現される確率は私の生存に依存しない)

 死は、独立欲求を挫きも、満たしもしない。

 

・生存条件付欲求(もし私が時点tで生きていれば、時点tでXに事実であってほしい)

 死は条件付き欲求を挫きはしない。

 

 あまりに図星だったため、私は衝撃を受けた。私は、もし将来極度の不幸が避けられなければ、その時に死んでいるほうがマシだと思う。これは、逃避欲求である。また、私は、家族を含む他人に出来るだけ幸せになってほしいと思うが、私自身に幸せにするだけの力があるとは思っていない。この欲求は独立欲求である。最後に、最も重要だが、私は、幸福になりたいというより、生きている限りは幸福になりたい。これは生存条件付欲求である。

 

 逃避欲求は誰しもがもっていると思う。誰しも、耐えがたい苦痛を味わうくらいなら、死んだほうがマシだろう。しかし、皆は生存条件付欲求に加えて、次の欲求も持つと思う。

 

・無条件欲求(私が時点tで生きるかに関わらず、時点tでXに事実であってほしい)

 例えば、皆は将来家族に幸せであってほしいと考える。仮に、自分が家族の前に死ぬとしてもである。しかも、皆は自分が家族を幸せにする力があると信じている。したがって、この無条件欲求は、生存条件付欲求でも、独立欲求でもなく、死で挫かれるのである。

 

 無条件欲求のうち、独立欲求でないものは「意志」と呼ぶことが出来る。それは、生きるから欲求するのではなく、そのために生きるような使命感や熱意を伴うものである。また、自分次第で欲求を実現できる、という自信や主体性も伴う。

 思うに、私以外の人々にとっても、意志は欲求の中のほんの一握りである。例えば、多くの人にとって、快楽を得たい、幸福になりたい…ほとんどの欲求は生存条件付欲求であり、意志ではない。

 仮にあなたが明日死ぬとしよう。それ自体は残念なことである。しかしその場合、あなたは、明日生きられないことと独立して、明日生きていれば得られていたはずの快楽や幸福が得られないことを嘆くだろうか。我々は、明日生きたいから死にたくないのであって、明日快楽や幸福を得たいから、死にたくないわけではないのである。

 ではどういうものが意志なのだろうか。例えば、将来生きたいというのは意志である。それは、それ自体目的でもあれば、他の意志を達成する手段でもあろう。他の意志とは例えば、他者に愛されるとか、他者を本当に幸せにするとか、世界の中で偉業を痕跡として残すなどの、単なる経験を超えた人生の意味である。

 

2.意志のない生

このような意志のない生はどういうものだろうか。

 まず、Steven Luperは、意志がなく、三種類の欲求に限定された「エピキュリアン」にとっては、死は、欲求を一切挫かないから、悪くないという。

 これに反論する方法はある。なぜなら、死で彼の欲求が全く挫かれずとも、将来生き続ければ得られた快楽や、欲求の充足が剥奪される、とは主張できるからである。確かに、生存条件付欲求しか持たない彼は、将来生き続けない限り快楽や欲求の充足を欲求しないから、欲求は一切挫かれず、それらの剥奪が悪くはないと主張しうるかもしれない。だが、それは直接的に悪くはないだけで、比較的、間接的に悪いことだとは主張しうる。ただ、死の後も生き続けたであろう人の利害を考慮することに、私は懐疑的であるため、この剥奪説はとらない。

 

 次に、最も重要だが、Steven Luperは、「エピキュリアン」の生は、死で損なわれない代わりに、極めて劣悪であると主張する。

1.彼は、死ぬことが悪くなければ、生きることは良くはないのではないか、と言う。

 これに対しては、先ほどと同様、「エピキュリアン」も生存条件付欲求の充足にともなう快楽を享受して、良き生を送ることが出来る、と言いたい。確かに、彼の生は、意志の成就、つまり達成という善に欠けているかもしれない、しかし快楽という別の方面で良いということはありうる。

 

2.彼は、生存条件付欲求は、本当の意味の欲求ではありえない、という。自分が生きている間は子供に幸せになってほしいというのは、子供に対する真の愛情ではないし、自分が生きている限り、仕事で偉業を成し遂げたいというのも、偉業に対する真の情熱ではない。

 確かに、自分が死ねばどうなってもいい、という留保がある場合、本当になにかを欲求することは出来ないだろう。ましてや、そのために本気で努力することも、心理的に不可能かもしれない。ただ、そのような生は情熱に欠けるものの、悪いものだとは言えないと思うのである。

 情熱に満ちた生は、魅力的かもしれない。しかし、それは大きな喜びや達成のほかに、大きな苦痛や絶望も伴う。

 他方で、エピクロスが説くような、欲求や苦痛から自由で、精神的に平穏な生も、別の次元の魅力があるように思える。そのような生は、すごく良いということも無いが、すごく悪いということもほとんどない。浮き沈みがなかったり、自分の欲求や周りに振り回されたりしないということは、それ自体一つの人生の良さを構成するものではないだろうか。

 

 以上のように、私は「エピキュリアン」にとって(少なくとも直接的には)死は悪くないが、だからといって必ずしも彼の人生は良くないわけではないと思う。しかし、私自身、やはりどこか物足りないように思う。仕事や恋愛などで、どこか「生きがい」を見出したいところである。

  

3.意志と、独立な無条件欲求

 以上では、意志と無条件欲求をほとんど区別せずに用いてきた。たが、無条件欲求は、意志と独立な無条件欲求に分けられ、両者は決定的に異なる。

 意志は、自分次第で何とかなる、何とかしようと思えるような欲求である。だから、それは生きる理由を与えるのであり、その反面死で挫かれもする。対して、独立な無条件欲求が成就するかは、もはや自分がいるか否かに関りがない。したがって、その欲求のために自分が生き続ける理由はない。出来ることと言えば、欲求がかないますように、と祈るくらいである。

 私は、独立な無条件欲求もほとんどは、もともとは何らかの意志だったものと思う。人は、自分ではどうにもなりそうにないことは、欲求する気にはならないからである。では、どういう場合に意志は、単なる独立な無条件欲求に変わるのだろうか。

①一つは、意志が既に成就された場合である。偉大な研究成果を残したいという意志を持った研究者が、実際に成果を残せたとする。その場合、その意思はすでにかなえられており、彼が仮に今すぐ死んでも、変わりはない。

②または、意志がまだ実現されてはいないものの、すでに自分が出来ることを全てやり終えることによっても、意志は独立な無条件欲求に変わる。例えば、起業をした人が、自分の会社に未来にわたって繁栄してほしいと意志したとする。そして、彼は自分の役割を完全に終え、後継者へ意志や引き継がれたとする。この場合もやはり、彼がいつ死んでも、彼の意志の実現には影響がない。

③また、意志は既に挫かれた場合も、独立になる。理由は①と同様である。

④最後に、意志を実現する能力が自分に無くなってしまった場合である。例えば、意志が成就しそうもないと絶望する場合、自分は実際に無力になってしまう。もしくは、老衰で能力が衰えてしまった場合もそうである。

 

Steven Luperは「ネオ・エピキュリアン」という生き方として、以下を提案している。

・人生の早い段階では、極力自分のライフスパンに収まるような、計画的な意志を抱き、熱意をもって生きる。

・人生を送るにしたがって、意志を①や②の方法によって、独立な無条件欲求に変える。

・人生の最後には、挫かれる意志がなく、心残りなく安心して死を迎えられる。

 

 意志を持って生きたいのならば、彼の提案は魅力的である。医療に恵まれた現代では、我々は死のタイミングをある程度選べるため、未実現の意志が残ったまま死ぬリスクもほとんどないだろう。

 ただ、彼の提案は言われるまでもない、と多くの人は感じるのではないだろうか。我々は、自分の生きているうちに何とかなる意志は、①極力実現しようとするし、何とかならない意志も、②出来る限りのことをするだろう。

 もし仮にそれが出来ない場合は、③意志が挫かれるか、④自分が老衰で無力になるのである。(ただ、これらは死と同じく意志の挫折である。)

だから、大半の意志(※)は独立欲求に自動的に変わるのである。

※一つ例外がある。生きたいという意志は無条件だし、自分が生き続けるかに完全に依存するから、決して独立にはならない。十分に生きた老人にとっても死が悪いと考えられているのは、純粋に生き続けられないためなのだろう。

 結局、彼の提案で重要なのは、欲求をライプスパンに収まるようなもの、つまり③や④で挫折したり絶望することなく、①や②で独立欲求に変えられるものに制限するということである。それには、例えば、自分に何が出来るかを常に考え、出来ないことは理性的に諦めることが必要なのだろう。

 

4.意志に対する道徳的配慮

 道徳は、他者の欲求を尊重するものであるというのが私の立場である。私は特に、過去に存在した他者の欲求も、過去に遡れば遡るほど程度は弱くなるが、尊重すべきだと考える。例えば我々は、死人の遺言や、認知症患者の認知症になる前の意向を尊重する。それは、現在は存在しないが過去に存在した人の欲求を尊重するからである。

 過去に存在した人の欲求にも、(生存)条件付欲求と無条件欲求がある。うち条件付欲求に対しては、現在や未来において、過去の人や、過去の人の欲求は存在しない以上、配慮する必要がない。配慮すべきは、過去の人の意志に対してである。

 過去の人の意志に対する尊重は、誰も幸せにせず、一見不合理に思える。なぜわざわざ現在の人の幸福を犠牲にしてまで、過去の人の意志を尊重すべきなのだろうか。一つ利己的な理由を挙げるとすれば、過去の人の意志を現在の我々が尊重すれば、現在の我々の意志を未来の人々に尊重してもらえる見込みも高くなり、我々自身が、自分たちの意志がないがしろにされるのではないかと不安に思わなくて済むからである。

 また、過去の人の意志に対する尊重は、確かにその人を幸福にはしないが、広義の意味でその人の利益になるとは言えないだろうか。例えば、ある親が子供の幸せをひどく願い、子供を残して死んだとする。そのあとで、子供が幸せになることは、親の人生を全く変えないから、親にとって直接的な利益になるとは言えないにしろ、親の願望が成就したのだから、親が報われた、もしくは親の人生が有意味になったとは言いたくはなる。

 

5.最後に

 意志がなく、条件付欲求だけでも幸福に生きることはできる。しかし、意志は、人生に本質的な生きがい、生きる理由、生きる意味である。道徳が、本人の死後も意志を尊重するのは、その証拠である。

 意志を持つことが、私自身にとって良いことか、わからない。意志をもつことで、意志の実現という善を得る可能性もあれば、意志の挫折という悪を被る可能性もある。また、意志を持つ限りは、早期の死を恐れなければいけない。

 ただ、意志の実現に関して、もし出来る限りのことをしたならば、もはやそれは独立な無条件欲求に変わり、死そのものでは挫かれない。重要なのは、挫かれたり、絶望したりする無謀な意志を持たないことである。私は、この範囲内であれば、自分の意志を大切にしたいと思う。