幸福と道徳における人生観の違い

1.幸福と道徳の根本的な違い

 幸福と道徳は、我々が追求する別のものである。確かに、これらはほとんどの場合は一致している。大抵は、打算であっても道徳的に行為することは、自分の幸福にとっても一番良い。それに、本心から道徳的に行為すると、道徳的な満足という幸福感が得られる。また、自身の幸福も道徳が尊重する利害の一部である。このように、幸福と道徳は、互いを入れ子構造のように含みあっている。

 しかし、私は、両者には次に述べる決定的な違いがあると思う。それは、幸福と道徳が前提とする人間観が全く違うからである。

 幸福という概念は、徹頭徹尾、主観的、独我論的、自己完結的である。幸福は、私だけのものであり、私だけが評価できるものであり、私から見たものである。そこに他者の視点は存在しない、他者から見てどうだろうが、本人から見て幸福ならば幸福なのである。幸福の主体は、「人間」というより、孤立した「人」である。

 対して、道徳という概念は、客観的、社会的、人間的である。道徳においては、人は行為を通じて他者とかかわりあう「人間」として尊重される。したがって、その善は他者から見ても、客観的に良いものでなければならない。

このような人間観の違いに応じて、内容も以下のように変わる。

 幸福といった場合、自分の視点から見て幸福かが重要である。たとえ無知に基づく偽りの幸福や、洗脳により刷り込まれた幸福であっても、幸福であることには違いがない。すなわち、幸福とは、主観的に良い経験をすることである

 対して、道徳は、他者の視点からみても本人にとって良いことをせよ、と命じる。道徳は本人にとって客観的に良い世界を実現してあげることなのだ

 これらの違いを踏まえ、私は幸福についての快楽主義、道徳については欲求充足説を取る

 ここでいう快楽主義とは、単に狭義の感覚的快楽のみではなく、欲求の充足や人生に対する満足感まで幅広く含む、良い経験(広義の快楽)こそが幸福を構成するという立場である。この立場によれば、例えば、他人に裏切られていても、本人が気づいていなければ幸福に変わりがない。

 対して、欲求充足説は、我々の望むことが(そう信じられるかとは無関係に)本当に世界において実現されることが善で、実現されないことが悪とする立場である。他人に裏切られたくないという欲求を持っていれば、本人が気づくかとは関係なく、他人に裏切られることは悪なのでる。

 

2.幸福と道徳の具体的な違い

快楽主義と欲求充足説の違いゆえに、私は幸福と道徳的尊重には具体的には次の違いがあると思う。

 

2-1.経験機械

 もしも、映画マトリックスのように、我々の人生が、すべて水槽の中で脳に送られた電気信号だったらどうだろうか。一部の人々は、このような事態に嫌悪感を示す。

 しかし、彼に我々の人生がこのような経験機械に繋がれた人生であろうと、我々の経験に違いはない以上、我々の幸福には変わりはない

 では、他人を経験機械につないで、偽りの幸福を夢みさせることは道徳的に悪いことだろうか。それはやはり不正に思える。彼は現実の世界で実際に何かを成し遂げたいのであり、単に経験機械のなかで何かを成し遂げた気分に浸りたいわけではない、前者の欲求を挫くから、彼を経験機械につなぐことは不正である

 

 

2-2.幸福な事故

次に挙げたいのは、前の記事でも挙げた、トマスネーゲルの思考実験である。

 ある人が哲学や芸術などの知的な活動を楽しんでいたとする。しかし、彼は突然交通事故で脳障害を負い、知能が幼児の水準まで退行してしまった。にもかかわらず、幼児として可愛がられ、事故にあうまで以上の幸福感が得られたとする。

 この場合、明らかに、彼は事故に遭うことで不幸になるどころか、幸福になっている。知的、芸術的な観照以上に、可愛がられることが良い経験なのであれば、幸福は経験の良さで決まったのだから、彼の幸福は増加するのである。

だからといって、運転手が彼をこのような目に合わせることは、決して道徳的に善いことではない。むしろ、彼を幸福にしてもなお、運転手は事故の責任を厳しく問われるだろう。

これについては、以下のように説明がつく。

 事故に遭う前の私は、事故に遭うであろう時点のあとも、哲学や芸術を楽しみたいと考えていたであろう。それも、その時に哲学や芸術をしたいと欲求する場合に限り、したいと考えていたのではなく、その時に自分がどう思うおうと、哲学や芸術をしたいと考えていたであろう。しかしながら、事故は、事故に遭う前の私のこの欲求を挫く、おそらくは、事故にあった後の私の、可愛がられたいという欲求を満たす以上に。それゆえに、事故に遭わせることは過去から未来にわたる彼の欲求を全体的に挫くゆえに、道徳的に悪いことなのである。

 

 

2-3.死の不幸と殺しの悪について

私は下の記事で死は不幸ではない(死ぬ本人にとって悪くない)と主張した。

死はなぜ快楽主義者の私にとって悪いことでは無いのか - 思考の断片

 まず、死は生の剥奪だと言われるが、主体が死ぬ以上、死以降の私は存在しない。存在しない主体の利害に価値はない。よって、死以降の剥奪された生に価値はない。したがって、死は(良き)生の剥奪として悪くない。

※対して、死んだ後の生の苦痛にも価値はあると考える。したがって、死は(悪しき)生の回避として良いことはある。

 また、死は生の消滅だと言われる。確かに我々は生き続けられないことで挫かれるような利害、欲求を持つ。しかし、我々は生の消滅で欲求が挫かれる苦しみを経験することはないから、死は生の消滅としても悪くない。

 

対して、私は人や動物を殺すことは、たいていの場合道徳的な悪であると考える。

 確かに、殺された以降の私が抱く欲求の充足に価値はないかもしれない。だから、殺しは生の剥奪としては道徳的に悪くはない。つまり、殺しは生きられたであろう私に対する道徳的悪ではないのである。

 

 しかし、殺しは、殺される前の私の、将来も生きたい、(将来生き続けることによって)何かを得たい/したい、という欲求をも挫く。(赤ん坊ですら、快楽を得たい、母親に愛されたいという、死で挫かれる欲求を持つ。)つまり、死は、これまで生きてきた私の、将来生きたい、生きることでなにかをしたいという意志を挫くがゆえに、道徳的に悪いのである。

 

私の立場は、殺人の悪に対する次の直観をよく説明すると思う。

 三人がほぼ同じ幸福な人生を生きた/生きるであろう場合、1.生まれて間もない赤ん坊を殺すことと、2.20代の青年を殺すことと、3.70代の老人を殺すこと、どれが一番道徳的に悪いだろうか。私は、2>1>3の順であると思う。多くの人も同意するであろう。

しかし、もし殺しが剥奪として悪いならば、1>2>3の順に悪い。

 対して、私の立場を取れば、赤ん坊は生きたい(それにより何かをしたい)という意志が青年より希薄である、それゆえに2>1の順で道徳的に悪いのである。

 では、2>3の順で悪いのはなぜだろうか。それは、老人はすでに将来生きたいという意志をたいして持ってはおらず、若かりし頃の生きたいという意志も、ほとんどが実現済のものだからである。

 

3.伝記的生と、映像的生

 以上の三つの例で、幸福と道徳が目指すところ、つまり快楽(いい経験をすること)と欲求の充足の以下の二点の違いが明らかになったと思う。

 まずは、最初に述べたように、欲求の充足とは、たんなる主観的な自己満足にはとどまらない、意志の真の成就である。道徳は、我々を意志する主体として尊重するのである。対して、幸福は、我々を意志の主体というよりは、どちらかというと経験を享受する存在としてみなす。

 また、欲求は時間を超える。我々は、現在だけではなく、将来の我々が生きるか、何をなしとげるか、何を欲求するかについて強い関心を持つ、時間的に絡み合った自己である。我々は、現在を通じて過去も未来も生きる、歴史的な存在として尊重されるのである。

 対して、快楽は常に現在の私の快楽である。確かに過去の記憶や未来の期待による快楽も存在するが、快楽を引き起こすのはあくまで現在の記憶や期待であって、過去や未来が実際にどうあろうと、現在の快楽に変わりはないのである。幸福が評価するのは、時間的にも自己完結した、刹那的な生である。

 要するに、道徳が尊重する生は、様々なことを意志し、努力してきた歴史としての生、つまり我々の伝記的生である。これに対して、幸福が評価する生は、あくまで、どこか受け身で、多数の今に切り離せる、映画のコマのような、映像的生なのである。

 多くの人々にとって、どちらが魅力的な人生観かは、一目瞭然だと思う。私も、一つの伝記を紡ぐつもりで生きたほうが良いと思うし、他者をそういう存在として尊重したい。しかし、いくらそのように生きているつもりでも、結局私が獲得でき、最終的にものをいうのは、映像的生以上のなにものでもないということに、自覚的でありたい。