普遍性追求の重要性

我々は、しばしば「普遍」と「一般」を混同する。たしかに、どちらもすべてについて成り立つという意味では共通している。しかし、両者には大きな違いがある。日本では前者の普遍性が軽視され、一般性が追求されることが多いが、それは個人にとっても社会にとっても不利益である。私は普遍性を追求して生きたいと思う。

 

1.普遍性とは何か

1-1.物事には現象と本質がある。現象は共通の本質が、物事の個別性に応じて別様に表れたものである。

(現象に対する本質というとイデアや物自体のようなものを思い浮かべるかもしれないが、本質は現象から外在はせず、本質は、当の現象をかくあらしめるものとして現象に内在している。)

 

1-2.個々の現象を現象それ自体として見たものが特殊であり、個々の現象の違いを捨象して共通の現象を抽象するのが一般である。これらは一つの現象を問題とするか、捨象をして多くの現象を問題とするかにおいて違ってはいても、本質ではなく現象それ自体を問題とする点において同じである。

 

1-3.個々の現象を、共通の本質の固有な現れとしてみて抽出されるものが個であり、共通の本質それ自体が普遍である。これらは、本質の現れ方の多様性を問題とするか、本質の単一性を問題とするかで違ってはいても、現象ではなく本質を問題とする点において同じである。

 

1-4.現象を捉える一般性と、本質を捉える普遍性は似て非なるものである。たとえば、一般性は多数の現象の違いを捨象した最大公約数なのだから、一般的であればあるほど内容は薄い。対して、普遍性は、普遍的であればあるほど本質に近く、内容が豊かで深いものとなる。また、一般的なものは個々の現象の違いを無視するため、個別具体的ではないのに対して、普遍的なものは個々の現象の違いを説明してこそ普遍的なのである。

 

1-5.とはいえ、個ー普遍と特殊ー一般の違いは程度問題である。厳密に言えば、全てに対して当てはまる(普遍的)本質はないし、我々は現象を通じてしか本質を理解することはできない。また、抽象を行う道具である言葉を用いて主張する以上は、どんな普遍的な主張も、ある程度個別的なディテールを捨象した一般的な主張であることを免れない。普遍的な本質とは厳密には言葉では語り切れず、直観するしかないものである。

 

1-6.我々の行う活動は、現象を追求する実践と、本質を追求する観照に分けられる。

生活、仕事における実践的な活動は、ある特殊な好ましい現象を引き起こすことを目的としている。一般的な概念や法則には、あくまで特殊な現象を引き起こすのに有用である限りで、価値がある。ましてや、本質がなんであるかはどうでもいいのである。

対して後者は、現象ではなく本質を追求する。それは良し悪しや幸不幸を超越している。良し悪しや幸不幸とは、現象に内在するものに過ぎないからだ。善や幸福をふくむ、いかなる他の目的のためでもなく、それ自体のために行う活動が観照である。もちろん、1-4.で述べたように、我々は完全に普遍的たりえない。しかし、限りなく普遍性に近いものを目指すのが、芸術、純粋科学や哲学の営みだと私は思う。

 

 

2.普遍性を追求する重要性

2-1.日本人には、普遍的な本質を追求する観照的な姿勢がかけていると思う。まず、彼らは普遍的な正義や道徳的な善を追求しない。そして彼らは純粋科学も軽視する。例えば基礎研究には、応用につながるという手段的な効用しか認めない。最後に、彼ら独自の哲学はあるにせよ、普遍的に拡がることなく、成果に乏しい。

 

2-2.普遍性を軽視しても、芸術や哲学などの高尚な営みが衰えるだけで、我々の実生活や仕事には何の影響もないように思われるかもしれない。しかし、普遍性や本質性の軽視には確かな不利益がある。

まず、真の意味での倫理が生まれないことが挙げられる。倫理とは、普遍的な善ないしは正義がなんであるかを追求する営みである。それは、すべての個人にとって善いことの追求であり、個の尊重でもある。

もしこの意味での倫理が欠如していたらなにが起こるだろうか。皆はもはや、個人は尊重せずに、「私」の利益を追求するのに都合がよいように、「倫理」規範を変えようとするだろう。「倫理」はたくさんの「私」が、自らのわがままを言い合った結果の落としどころに過ぎなくなる。

皆がわがままを言い合った結果醸成される「倫理」もどきは、極めて一般的、画一的になる。大多数が醜く、嫌いだと言うことは悪になり、好きだということは善になる。そこでは個性が尊重されず、大多数の好みにより少数派が疎外、抑圧される。

日本における「マナー」がその最たるものである。他人に危害を加えないのはもちろん重要である、しかしそれが行きすぎて、多数が少しでも不快に思うことはなんでも禁止してしまってはどうだろうか。服装や言動が形式にしたがっていなかったり、そういう少しでも普通から外れることに対する不快感を、マナー違反の理由にしてしまっては、極めて窮屈ではないだろうか。マナーは、不快感から形成されたものだから、合理的な理由を持たない。ビジネスマナーが非合理的だと嘆く人が多いが、それも当然である。

このようにマナーや一般性が強要されると、普通から外れた個性的な人がつらい思いをするだけではなく、社会全体が個性を活かせずに大きな損失を被ることは言うまでもないだろう。

 

2-3.以上に述べたように、普遍性を追求する観照的な姿勢にも、日々を生活を実践する上で実利的なメリットはある。ただ、私は観照にはこのような手段的な価値があるのみならず、それ自体が尊い営みであると思う。以下の記事で述べたように、実践的な活動こそが、観照的活動を可能にする前提(衣食住など)を整えるための手段に過ぎないと思う。

よく生きること(その2) - 思考の断片

 いずれにせよ、重要なのは中庸である。以上に述べたように、観照とは無縁の生活は空虚で不毛だが、観照に耽りすぎて、日常的な生活や仕事を疎かにしても、観照に耽っている暇もなくなる。私は観照を目的としつつも、適度に地に足の着いた人生を歩もうと思う。