快楽主義について

私は、快楽や苦痛で人生の良さの全てが決まると思う。

というのも、経験の価値は快楽や苦痛できまり、人生の(生きた本人にとっての)価値(well-being)は、経験で決まると考えるからだ。したがって、人生の価値は快楽や苦痛で決まるのである。

こういう立場は快楽主義と呼ばれ、私もこれまでの記事でたびたびこの立場を表明してきた。この記事では従来の立場を修正し、さらに精緻化したい。

 

1.快楽とは何か

1-1快楽に関する内在主義と外在主義

快楽と一口に言ってもいろいろある。おいしいラーメンを食べることも快楽だし、世界が平和であることに満足するのも一種の快楽である。

前者では、ラーメンの味覚の経験の中に快楽が見出だれているように思える。対して、後者では、世界が平和であるという事態に対して態度を抱くことが快楽であるように思える。

前者の考え方を取るのが快楽の内在主義である。内在主義は快楽は経験に内在するものと主張する。これは、素朴な実感にも会うのではないだろうか。快楽とは経験の中に直接感じるものだというのは、我々の常識でもある。

対して、後者の考え方を取るのが快楽の外在主義である。外在主義は経験に対して外的な好ましい態度を抱くことが快楽だと主張する。例えば、哲学者Fred Feldmanはある経験に対して、快いと思う態度そのものが、快楽だと主張する。また、別の哲学者Chris Heathwoodはある経験に起こってほしいという欲求が満たされてこそ、その経験は快楽なのだと主張する。

この二つの立場のどちらが正しいのだろうか、それともどちらも部分的に正しいのだろうか。私は前者が正しいと思う。

 

1-2外在主義の問題点

まず、私が外在主義がおかしいと考える理由を述べる。その理由はたった一つしかないが、決定的だと思う。

我々の快楽の中でもとりわけ純粋なのは、何か好きなことに熱中しているときの快楽である。思索にふけっているとき、好きな音楽に聴き入っているときなどがそれである。そういう時は、好きな活動の経験が意識のすべてを占め、ほかの雑念が入り込む余地は全く無い。時間が経過しているという感覚すら忘れてしまうほどである。ましてや、好きな活動をしていることが快いなどという、余計な態度を抱く余地は全くないのである。

そうすると、外在主義によれば、この経験は快楽ではなくなってしまう。最も純粋な快楽だと思われるものが、実は快楽ではないと主張するのは、間違っているのではないだろうか?

しかし、外在主義者にも再反論の余地がある。彼らは、この経験に対して抱く好ましい態度は無意識の態度なのだと言い張ることができる。例えばFred Feldmanは快楽は信念のようなものだと主張している。例えば、我々は普段、地球が丸いという信念を意識しない。しかし、後から地球は丸いと信じていたかと問われれば、そのとおりだと答えるだろう。快楽についても同様だと、Feldmanは言う。熱中した活動を後から、振り返ってみれば、確かにその活動をしていることに快楽を見出していたと思うだろう、と。

しかし、仮にこのように無意識な態度としての快楽や苦痛があったとしても、それらは無価値ではないだろうか。

次の場合が論理的な可能性として考えることが可能である。
・AとBの意識は全く同じである。しかし、Aは意識された経験に対して無意識の快楽を感じているのに対して、Bは全く感じていない。

無意識の快楽にも価値があると仮定したら、AとBは全く同じ意識的経験をしているのに、AはBよりも良い経験をしていることになる。意識が同じなのにAの経験がBよりも良いというのは間違ってはいないだろうか。

以上の理由から、無意識の態度的快楽や苦痛は無価値であり、それらは快楽や苦痛と呼ぶに値するかすら私は疑問に思う。

 

1-3内在主義の問題点と回答

外在主義に問題があることはわかったものの、内在主義にも問題がある。最も大きな問題は、快い経験の異質性である。快い経験は、ラーメンを食べた時の経験から、本を読んで考える経験、クラシック音楽を鑑賞する経験、寒い日に暖房の風を受ける経験まで、多様である。そしてこれらは多様であるだけではなく、快楽という共通項があるとは思えないほど異質ではないだろうか。すると、快い経験の共通する本質、快楽自体が存在しないように思われる。

これに対しては、私は哲学者Roger Crispと同様、快い経験の内容は違っていても、快楽は変数として共通に含まれると主張したい。彼は俊逸にも、快楽を色で例えている。赤いリンゴ、緑のピーマン、青い海、これらの経験は見かけは全く異質である。しかし、どれも色を持つという点で共通している。しかし、「色」そのものは決まった経験の内容(determinate)ではなく、変数(determinable)のようなものなのである。

快楽についても同様の提案ができる。快い味覚、快い読書の経験、快い美的観照の経験はすべて異質な経験の内容であり、それらの「快さ」はそれぞれ異なる。だが、すべて「快い」という点においては共通している。つまり、快楽というのは変数であり、それぞれ独自の快さが変数の実現値なのである。こうして、快い経験の共通項、快楽は定義できるのである。 

 

1-4快楽の種類 

以上のとおり、私は外在主義を否定して内在主義をとるが、外在主義の考える、態度で規定される快楽も、やはり快楽の一種だと考える。

我々は快楽を感じるとき、ふつう二つの経験が生じる。一つは快楽を感じる当のその経験だ。もう一つは、快楽を感じる当の経験に対して、快く思ったり満足したりする態度としての経験である。外在主義は、後者だけが快楽と主張するか、後者があるから前者が快楽になると主張する。対して、私のような内在主義者は前者は独立して快楽を含むと主張するわけである。ただ、私は、後者の快く思ったり満足する態度そのものも、快楽を含むと思うのである。私は、前者の快楽を直接的快楽、後者の態度が含む快楽を態度的快楽と呼びたい。

態度的快楽は、我々が経験する快楽の多くを占めるといってもいいと思う。上で述べたように直接的快楽に態度的快楽は必ず伴う。また、ストア派のように直接的快楽に動かされない心の平穏に態度的快楽を抱くことも可能なのである。そして、皆が追求する欲求の充足も、態度的快楽を含む。

また、実存的快楽と私が呼ぶものも、態度的快楽の一種である。実存的とは、自己の在り方に関心をもつということである。例えば、自分が快楽主義者であることに対して抱く満足感は、実存的快楽の一つである。絶えず自己の在り方を反省しながら生きる、実存的存在として生きる我々にとって、態度的快楽(アイデンティティ)や態度的苦痛(苦悩や絶望)は極めて重要なのである。

しかし、態度的快楽以外の直接的快楽の中にも、重要な快楽は存在する。痒い部位を掻く時の快楽や、おいしい料理を食べる快楽など、感覚的快楽は些細なものに思われるかもしれない。しかし、1-2で挙げたような、熱中して取り組む活動経験に伴う直接的な快楽は重要で、これを活動的快楽と名付けたい。

全ての活動に快楽が伴うわけではない。活動的快楽は、あくまで主体的な活動の経験に伴って生じる。感覚的な快楽を感じるのも確かに生命活動の一部ではあるが、それらはどちらかというと主体的より受け身である。例えば自分の好きなこと、得意なことを、自分が主となって行ってこそ活動的快楽は生じるのである。

熱中している活動の経験は意識のすべてを占める。主体と対象や目的と手段の分離といった、一切の抽象化や反省がなく、すべてが渾然一体となった純粋経験があるのみである。それは、一切の相対化・間接化が紛れ込む前の、絶対確実な具体的経験なのである。この経験に見出される快楽も、同じく絶対確実だといえるだろう。

※強い感覚的経験も、純粋経験であるという点においては同じであるが、主体性をかくだけあって、経験が「活き活き」していない。生のエネルギーの躍動がない分、快楽も味気ないものであることが否めない。

以上では、快楽を直接的快楽と態度的快楽、そして直接的快楽をさらに感覚的快楽、活動的快楽に分類した。快楽と一口に言っても、通常イメージされる肉体的な享楽から、心の平穏や世界平和に対する快楽、実存的なアイデンティティに伴う喜び、忘我の境地で取り組む活動に伴う快楽に至るまで、極めて幅広い範囲をカバーしていることを理解してもらえたと思う。

では、これらの多様で異質な快楽の優劣を決める共通の尺度はなんだろうか。私はそれが、「快楽の度合い」だと思う。以下でその説明をしたい。

 

1-5快楽の度合い

「快いということ」が快楽を特徴づけるのであった。快さには度合いがある。多くの人は、快楽の度合いとして実数値を想定するのではないだろうか。たとえばラーメンを食べる快楽の度合いが1、好きな本を読む快楽の度合いが倍の2であるという場合、後者のほうが前者より、二倍快かったということになる。

※「二倍」とはどういうことだろうかと、鋭い人は突っ込むはずである。この点については、私はうまく準備ができていない。あえて定義するならば次のとおりである。
・本を読む快楽の度合いが、ラーメンを食べる快楽の度合いの二倍と言う場合、次を意味する。
(仮に身体を二つ脳につなぐなどして)ラーメンを食べる経験を同時に二つ別個に経験したときの快楽の度合いと、本を読む快楽の度合いが同じである。
現実にそんなことは無理だというのは、重々承知している。あくまで仮想的な想像の話である。

上の例では、ラーメンを食べる経験の快さの度合いを2つ分足せば、本を読む経験の快さの度合いを上回る。しかし私の場合、ラーメンを食べる経験の快楽の度合いをいくら足しても、それが思考に耽る快さの度合いを越えることができないように思える。前者の快さの度合いは、後者の快さの度合いよりも「次元」が高いのである。

これを数学的に表現するならば、快楽の度合いは辞書式順序の入ったベクトル値(x,y)をとる。そして、(x,y)が(z,w)より大きいのは、x>zか、x=zかつy>wの時だけである。先の例では、思索に耽る快楽は(1,0)、ラーメンを食べる快楽は(0,1)の度合いを持つ。ラーメンの食べる快楽の度合いを仮に何倍しても(0,n)になるだけで、(1,0)より大きくならないのである。

 

以上で、快楽の本質についての説明は十分だと思う。

 

 

2.経験の価値=快楽の度合いである

快楽は経験に内在する。私はこの快楽の度合いこそが、経験の価値であると思う。当然、ある人にとっての経験の価値を左右する要素はたくさんある。しかし、それら要素はあくまで快楽の度合いを左右するから間接的に経験の価値を左右するのであって、直接的には左右しない。

 

2-1快楽以外による価値は経験に含まれるか

ある経験の価値を左右する要素を列挙すると、枚挙に暇がない。快楽以外に、欲求の充足、道徳的な善さ、友情、愛、達成感、美的価値、自尊心、知識、個性の発揮、このようにいくらでもあげられる。問題なのは、これらが快楽とは独立して、経験の価値に寄与するのか、快楽の価値を高めるからこそ、経験の価値に寄与するかである。私は後者が正しいと主張したい。つまり、先ほどあげた要素の価値は、欲求が充足したと信じられることに対する快楽の価値、自分が道徳的に善く振舞っていると信じられることに対する快楽の価値…等々に還元されると言いたいのである。全てについて主張していてはきりがないので、最初の二つに絞って主張しよう。

まず、欲求充足の価値の中には、快楽の価値に還元できない要素があるように思われる。例えば、他の人に好かれたいという欲求が充足するためには、単に他の人に好かれていると信じられるような経験をするのではなく、実際にほかの人に好かれなければならない。ここで、後者の価値は快楽の価値に還元できない。なぜなら実際にほかの人に好かれていようといまいと、そう信じてさえいれば快楽に変わりはないからである。

ただ、ここで問題としているのは、あくまで「経験の」価値である。したがって、快楽の価値に還元すべきなのは、欲求が充足されたと信じられるような経験の価値である。欲求が充足したと信じられるのが良い理由は、それに対して満足できるからである。そしてこの満足の価値は、満足により得られる快楽の価値で尽くされるのではないだろうか。

次に、道徳的に善いことをする価値は、快楽の価値に還元できるだろうか。確かに道徳的に善いことをすると気分が良い。これは快楽の一種である。しかし、道徳的なことをする経験には、自己満足にとどまらない、道徳的価値があるのは言うまでもないだろう。ただ、ここで問題としているのは経験の「本人自身にとっての」価値である。道徳的行為の利己的な価値は、道徳的な行為をした満足感ですべて尽くされるのではないか。

議論が不十分ではあるが、経験の価値を左右する、快楽以外の主要な二要素について、結局快楽の価値に還元されると主張した。

もし、他の候補も快楽の価値に還元されるなら、経験の価値は快楽の価値でしかないと言える。しかし、快楽の価値が快楽の度合いだけで決まるかはまだ定かではない。

 

2-2快楽の価値は、経験の内容に依存するか

まず、快楽の度合いが同じでも、「高尚な」快楽と「低級な」快楽には、経験する本人にとっての価値の差があるといわれるかもしれない。快楽の度合いだけではなく、どういう内容の経験に快楽を見出すかが重要というわけである。例えば、仮に、クラシック音楽を鑑賞する快楽と、泥にまみれて遊ぶ快楽が同じくらいの度合いの快楽でも、前者の快楽の価値のほうが高いではないかと主張されるかもしれない。

私の場合に限って言えば(そしてほとんどの人に場合もそうだろうが)クラシック音楽を鑑賞する快楽の次元は、泥にまみれて遊ぶ快楽の次元より高い。だから、泥にまみれて遊ぶのがいくら楽しいと仮定しても、仮にも両者の快楽の度合いが一致することはなく、上記の反論はそもそも成立しない。上記の仮定はほとんど成り立たないことに注意すべきだ。

それでも、私以外の人で、両者の快楽の次元と度合いが同じ場合もあるだろう。そういう人の場合は、快楽の価値は同じだと主張したい。問題としているのは、経験する本人にとっての主観的な価値であることに注意すべきである。クラシック鑑賞が泥にまみれるよりも良いという先入観のある我々が外からみる場合、泥にまみれることによる快楽は惨めなものに思えるかもしれないが、クラシック鑑賞と泥にまみれることを同列に置くような人自身にとって、泥にまみれる経験は確かにクラシック鑑賞と同等に有意義なものである。それを傍から見てくだらないと断じるのは、上から目線のエリート主義だし、想像力が足りないと思う。

 

2-3快楽の価値は本人にとって相応しいかに依存するか

2-2の反論にも関わらず、まだ納得いかない人がいるかもしれない。問題にしているのは本人にとっての価値だと承知の上で、いや、だからこそクラシック鑑賞の快楽のほうに価値があるのではないだろうか。泥にまみれる快楽の価値が低いのは、経験の内容もさることながら、前者に比べて後者が豚みたいで、人間にはふさわしくないからではないだろうか、と。

しかし、私は泥にまみれる快楽の価値が低いとは思わず、低いと錯覚されているだけだと思う。ここで、自分が不相応にも泥にまみれる経験をしていることに不満足を覚える場合と、覚えない場合に分けて考えよう。

前者の場合、本人が泥にまみれる経験それ自体に快楽を感じるだけではなく、人間である自分が豚のように泥にまみれているという、事実そのものに苦痛を感じている。泥にまみれる快楽が本人にとって、クラシック鑑賞の快楽より価値が低いように一見思えるのは、この反省的な苦痛で快楽が減殺され、全体としてはあまり快くないからとして説明ができる。(しかし、泥にまみれる快楽それ自体はクラシック鑑賞と同等に価値があるのである。)

後者の場合、つまり自分が不相応にも泥にまみれていることに対して本人が全く何も思わない場合(それくらい真剣に泥遊びをしているとき)、同程度の快楽があるクラシック鑑賞の快楽と価値が違わないように思える。

つまり、快楽が本人に相応しくない(相応しい)だけで、本人がその事実に苦痛(快楽)を見出さない限りは、経験の相応しさは価値に影響しないのである。

 

2-2と2-3により、快楽を見出す経験の内容や、経験に快楽を見出すことが主体にふさわしいか否かのいずれも、快楽の度合いに影響することを通じて間接的にしか快楽の価値に影響せず、快楽の価値があくまで快楽の度合として決まることが結論づけられる。2-1より経験の価値は快楽の価値なのだから、経験の価値も快楽の度合いである。

 

 

3.人生の価値は経験だけで決まる

2.では、経験の価値が快楽の度合いで決まると主張した。私はさらに、人生の本人にとっての価値が経験だけで決まると主張したい。

 

3-1経験機械の思考実験

人生の価値が経験だけで決まるという主張に対しては、有名な経験機械の反論がある。

 

・人物Aは科学者で、重病の治療薬を開発する研究に一生を捧げた。彼は新薬を見事開発して一生を終えたとする。

・人物Bは、生まれたときから、仮想現実を経験できる機械にプラグインされ、生まれてから死ぬまでAと全く同じ経験をしたとする。

①AとBの経験は全く同じである。

②しかし、Aの人生のA自身にとっての価値は、Bの人生のB自身にとっての価値より高い。

③したがって、人生の価値は経験だけでは決まらない。

 

①が正しいことおよび、①+②より③が導出できることに疑いはない。私は②に反論したい。

そもそも、②にみんなが同意する理由はなんだろうか。それは新薬を開発するという「達成」が、AだけにありBには欠けているからである。確かにBはAと同様、新薬を開発したという達成感は得ている。しかし我々は、達成感がほしいのではなく、達成を果たしたいのである。達成には、単なる達成感、そして経験から独立した価値があるように思われる。

 

3-2自身の人生の価値に関する無知

私は、「本人にとっての価値」という概念について以下の要請を行う。

・自らの人生の「本人にとっての価値」は、本人自身がある程度は知ることができなければいけない

確かに、完全に知ることはできないかもしれない。例えば、ある人が親友だと思っていた人が、実はその人を利用していただけかもしれない。その場合、その人の人生の価値は本人が考えていたより少しは劣るかもしれない。しかし、その人自身が相当良い人生だと思っていたものが、実は無意味だったというようなことは無いと思うのである。その人の人生の価値の判定者は本人自身である、その本人が分からないというようなことはあってはならないのである。

ところが、上にあげた達成という価値は上の要請を満たさない。なぜかというに、もしある人が経験機械につながれているとしたら、この達成という価値は損なわれ、そもそも経験機械につながれているか否かを本人は知りようがないからである。

例えば、上のAは、自身の人生がBのような経験機械による夢である可能性が、無視できるほど小さいとする根拠を持たない。もし新薬を開発したという達成そのものに価値があるとすると、この可能性次第では、Aの人生は大変価値あるものか、それとも無意味なものか、変わってしまう。しかしそうは思えない。Aの人生の実際の価値は、 A自身が考えていた価値と大差はないはずである。

したがって、上の要請を行い、そしてどんな人も、自分自身が実は経験機械につながれているという可能性がある程度高いことを否定できないとすると、(経験から独立した)達成は、ある人の人生の、本人自身にとっての価値には含まれないと主張できる。

 しかし、人生の価値は不可知なのだと上の要請を否定したり、経験機械に実はつながれている可能性など無視できるほど小さいと言い張る人がいるかもしれない。その場合、私はまた別の理由を考える必要があるだろう。

 

3-3想像力の欠如による説明

我々がBにとってのBの人生の価値を考えるとき、仮に我々がBだったときに、Bの人生がどういうものなのかを想像するだろう。しかし、我々がBの人生を想像するとき、本当にBになり切れているのだろうか。

Bは自分が実は新薬を開発していないんだということは一切知らず、達成感にひたっている。対して、我々はBの人生を想像するとき、「それでも本当は新薬を開発していない」という思念を持ち込んではいないだろうか。その場合、想像した人生はBではなく、薄々自分の人生が夢であると気付いている別人B’の人生である。わずかでも、すべては夢であり、実際は新薬を開発していないのではないかという思念を抱いている以上、B’の新薬を開発したという達成感はBに比べて低いだろう。

こうして、Bの人生のBにとっての価値が低いと我々に思えるのは、我々のBの人生に対する想像が不完全で、誤ってB’の人生を評価しているからだと説明することができる。それはBの人生の価値が実際に低いからではなく、想像力の欠如によりBの人生を、額面通りに評価できていないからなのである。 

 こう主張してもなお、B’とBの人生の価値の差は、我々がAとBの人生に対して見出す価値の違いを説明しないと思う人はいるだろう。彼らを説得するには別の理由が必要だ。

 

3-4当為的な価値と、実現的な価値の違い

「本人にとっての価値 」という概念には、実は二つの意味がある。一つは、(本人の厚生のために)目的として追求すべきものとしての価値であり、もう一つは、本人にとって良い当のものとしての価値である。前者を当為的な価値、後者を実現的な価値とよぼう。

我々は、例えば友情は良いものだという場合、友情を目的として追求すべきということを意味するのと同時に、友情があれば自分にとって良いことを意味する。ここでは、当為的な価値と実現的な価値は一致しているのである。

しかし、両者が異なる場合もある。幸福感がその一例である。幸福感は、我々にとって良いことは間違いない。しかし、幸福感を目的として追求すべきとは限らない。幸福な感情そのものを目的として追求することは、かえってむなしく、不幸ではないだろうか。実際に幸福感に恵まれていると思われる人を見てみればいい。彼らは幸福感を強く意識することもなければ、直接幸福感を追求しているわけでもない。彼らは幸福感そのものを追求するのではなく、したいことや、やるべきことをやっているのである。したがって、幸福は実現的な価値ではあるが、そこまで当為的な価値ではないのである。

同じことが(良い)経験についても言えないだろうか。私は、良い経験が、そして良い経験だけが本人にとって良いもの、つまり実現的な価値の全てだと考える。しかし、それは必ずしも、良い経験だけを目的として追求すべきだということを意味しない。むしろ、何かを本当に達成することを目的として追求したほうが、充実感や達成感のような良い経験が豊富に得られるものだと思う。つまり、当為的な価値は良い経験よりも、達成なのである。

さて、経験機械の反論の②が正しいと思われるのは、当為的な価値として、達成を含むAの人生の価値を求めるべきだと考えているからだと説明できる。これは正しいと認めよう。

しかし、私は実現的な価値のほうを問題にしたい。実現的な価値において、Aの人生の価値はBの人生の価値と同じであると主張することは、なんの矛盾もないのである。  

 

4.なぜ快楽主義をとるか

この記事では、快楽の本質を明らかにし、人生の本人にとっての価値(well-being)に関する快楽主義を全力で擁護した。とくに私が重点をおいたのは、3.で主張した、人生の価値が経験で決まる点である。これは(well-beingについての)経験主義と呼ぶことができる。

私は、快楽主義は経験主義の一形態に過ぎず、もしかしたら2.で述べた快楽主義は誤りで、経験の価値が快楽以外で決まるかもしれないと思う。しかし経験主義について譲るつもりはない。人生とは徹頭徹尾経験であり、経験に違いがなければ人生に違いはなく、従って人生の価値に違いもない。

なぜここまでかたくなに経験主義に肩入れしているかというと、私が存在論的な経験主義、つまり(私の)経験こそが存在するすべてだと信じているからである。経験から独立して存在する外的世界や他者というのも、私に想像される限りでしか存在しない。だから、「実際の」達成や友情というのも結局は経験に還元されてしまうのである。

この立場は独我論的だと批判されるかもしれない。よろしい、他者の経験も認めよう。それでも、私は他者の経験と私の経験は独立した世界をなしていて、互いに関わることがないと思っている。したがって、私の人生のすべてが私の経験の系列でつくされることには変わらない。

このように、私の経験主義は、独我論的、孤立的な人生観の帰結ということができるだろう。どうやら私はこの人生観をとることにアイデンティティを見出しているため、経験主義を何としてでも守りたいようである。