道徳について(その2)

以下では、道徳に対する私の考えや姿勢を述べる。

1.利害の主体

道徳は、善や悪を規定するものである。ここで、善や悪というのは突き詰めれば必ず「何者かにとって」の善や悪であり、主体を離れて存在しない。では、善悪を見出す利害の主体はいったい何者だろうか

まず、もっとも大きい単位としては集団が考えられる。例えば、ある政策が国民全体の利益になる、という場合がある。しかし、誰もが賛同すると思うが、この場合、国民全体という集団が利害の主体として存在するわけではなく、国民全体の利益というのは、一人一人の国民の利益を形式的に総和した概念にすぎない。「国民全体」という集団は抽象的に仮構された主体にすぎない

では、集団ではなく個人が究極的な利害の主体なのであろうか。私はそれすら間違っていると思う。では、私個人にとっての善悪を二通りに定義しようと試み、どちらの場合も私は利害の主体として存在しないことを示そう。

一つには、ある時点の私にとって善いと捉えられることだとする考え方がある。しかし、すぐわかるように、ある時点の私にとっては善いと感じられたものも、別の時点の私にとっては悪いと感じられることがある。例えば、今日お金を使うことは、今日の私にとっては善いことかもしれないが、明日以降の私にとっては使えるお金が減ることになるから悪いことである。

この場合、今日お金を使うことが善という今日の判断と、悪であるという明日以降の判断のどちらが正しいのだろうか。おそらく正解は無く、どちらも、私個人にとっての善悪と一致しないだろう。一つ目の考え方はうまくいかないようである。

もう一つには、各時点の私にとっての善悪を総和した値こそが、私個人にとっての善さ(悪さ)であるとする立場がある。先ほどの例で説明すると、今日お金を使うことによる今日の利益と、明日以降使えるお金が減る明日以降の不利益を足し合わせて、全体がプラスになれば、私という個人にとって、今日お金を使うことは利益となる。

しかし、この「総和した善悪」は本当に私個人にとっての価値なのだろうか。というのも私個人という主体が、「総和した善悪」という価値を、直接ある対象に見出したわけではないからだ。対象に直接価値を見出す主体は、あくまで各時点の私であって、私個人にとっての「総和した善悪」というのは、各時点の私が直接見出す価値を足した間接的・形式的な価値にすぎない。

以上からわかることは、厳密には「私個人」というのも利害の主体としては存在せず、利害の主体は各時点の私であるということである

 

2.利今主義

価値判断の主体はあくまで各時点の私やあなた(彼ら自身にとっては「今の私」)である。そして、価値判断に基づいて最善な行動や判断をするのも同じ彼ら自身(「今の私」)である。したがって、どの時点のどんな人も、その時のその人(「今の私」)の利益を最大化するように行為するのである。この行動原理を、「利今主義」とよぼう

こういうと必ず、「いやいやそんなはずはない、私は今だけではなく将来の私自身のことを考えるし、他の人のことも考える」と反論されるだろう。そのとおりである。しかし、「将来の私の利益」や「他人の利益」を考慮するというのは、結局、それらを、「今の私の利益」として追求することではないだろうか。

「将来の私の利益」を「今の私の利益」として追求することを合理的、「他人の利益」を「私の利益」として追求することを道徳的と呼ぼう。

我々は(利今主義的であるのに加え)程度の差こそはあれ、だれしも合理的または道徳的である。あまり合理的でなく、今を将来に優先させる人は、俗に刹那主義者と呼ばれ、あまり道徳的ではなく、自分を他人に優先させる人が利己主義者と呼ばれるのである。

 

 3.合理性・道徳性の内在と外在

以上に述べたように、我々は利今主義でありながら、まさしくその利今性の一部として、(合理的・道徳的だからという理由で)合理的かつ道徳的に振舞う。これを、道徳性が利己性に(合理性が利今性に)内在している、と呼ぶことにしよう。

この対義語は外在である。道徳性に限っては、利己性に対して外在の関係にもある。これはどういうことだろうか。例えば、内的な動機は別としても、表面的には道徳的に振舞ったほうが、自分自身の利益にもなることが多い。道徳性が利己性に対してこういう打算的な外的関係にあるとき、道徳が外在すると呼ぼう

道徳に結果的に従う人には二種類いる。道徳的だから、という内在的な理由で従う人と、道徳に従うことが自己利益になるから、という外在的な理由で従う人である。我々は前者を道徳的に賞賛し、後者を打算的だと非難する。

このように、道徳には常に、それ自身を内在化(内面化)させようとする強力な力がある。そして、道徳を尊重すべし、道徳を目的とすべし、しまいには道徳的によく生きることが個人的にも最善なのだ、という間違った説教をする始末である。

 

 4.道徳が外在している人の行動指針

この圧力を前に、道徳を完全に内面化できていない人(道徳が外在している人)はどうすればいいのだろうか。 

まず、道徳性を内面化する(心から道徳的でありたいと思う)ことがもし出来るならば、利己的にもそうしたほうがいい場合が多い。道徳的であればあるほど、他人と利害が一致し、協力によるメリットを得られる見込みが増えるからである。

過度に道徳的な人は馬鹿を見る、とする意見もあるだろう。そのとおりである、自分だけが他人のことを考えて、他人が自分のことをそれほど考えてくれないとすれば、自分が一方的に損をすることもある。しかし、忘れてはいけないが、その自分にとっては、多少は損をしても道徳的に振舞うことそれ自体が「得」なのである。我々が考える以上に、道徳的な人というのは「得」をしているといえるだろう。

とはいえ、完全に道徳的になることは最善とは限らない。何事においても中庸が重要であり、ある程度は道徳とは距離を置くのが利己的には最適なのである。

道徳を完全に内面化しない場合、「守りたくない」道徳の領域が発生する。この領域についてはどうするのが自己利益につながるだろうか。

まず、道徳を守ったほうがいいのだろうか。ここで、道徳を本当は守りたくないのに「守るべきだから」守るというのは、すでに道徳が内面化されている人のすることである。リスクが高い場合は、「道徳的な制裁を受けるのが危険だから」守ればいいのだし、リスクが低い場合はこっそり破ってしまえばいい。道徳を内面化した道徳主義者は、常に道徳にしたがえというが、そんな説教に耳を貸す必要はないのである。

では次に、道徳を守るべきだと主張したほうがいいだろうか。場合によると思うが、私は多くの場合はしたほうがいいと思う。他者が道徳的に振舞うことは、結果的に私の利益になることが多いからだ。そして、道徳的な主張をすること自体が自分に対する道徳的賞賛につながることも多い。ただ、これは当然道徳を結果的に守るか、道徳を守っていないことが知られていない場合だけだ。道徳を守っていないことがばれていたら、言行不一致の非難を受けるだろう。

 

 

5.私自身の道徳性、合理性に対する態度

私は4.に述べたように道徳性をなるべく内面化しようと試みつつも、あくまで道徳性と利己性、合理性と利今性は別物だという自覚をもち、(前者を含むものとして)後者を目的に生きていきたいと思っている。

なぜなら、そもそも他者の利益を考慮する道徳的善や、将来の自分の利益も考慮する合理的善は、いずれも他人を含む集団や、各時点の私達の利益を総和した、抽象的かつ間接的な善にすぎないからである。それらの善は、あくまで今の私にとっての直接的な善と内在的または外在的に一致する限り、追求したい。

だから、私自身が不道徳であっても、そして非合理的であっても、仕方がないこととしている。(おそらく多くの人も敢えて言わないだけで、同じではないだろうか。)

例えば、私は反出生主義者で、人間の子供のみならず、動物も生むべきではないと考えているが、動物を殺すために誕生させる畜産の恩恵に、不道徳にもあずかっている。これは、ちょっとした味覚の楽しみや、動物を犠牲にすることを意識的に避けることが面倒という利己的な利益が、道徳的なコストを上回っているからである。

また、私は今すぐ死ぬのが私自身にとって最も合理的だと考えているが、今すぐ死ぬ恐怖と苦痛を味わうのが嫌だからという理由で、死を先延ばしにしている。

言行が一致していないため、他の人には、私の立場や価値観は道徳的な説得力や魅力に乏しく見えるだろう。しかし、そもそも道徳性や合理性について、言行が一致する必然性はないし、完全に道徳的・合理的になれない以上は、その矛盾を生きるしかないと思うのである。