死に寛容な幸福主義

1.常に幸福=善とは限らない

私の幸福観について - 思考の断片

上の記事では幸福が何であるかを定義してきたつもりである。この記事では、幸福がどういう場合に自分にとって善いものかを問題としたい。

こう言うと、幸福が善いのは当たり前のことだから、これは問いとして無意味でなのではないかと思う人もいるだろう。しかし、幸福であることと、自分にとって価値があることというのは、別の概念である。もし両者が一致するのなら、例えば次のような主張が語義矛盾になってしまうが、実際はそうではない:「私は確かに幸せだ、しかしこんな空虚な幸せは、私にとっては無価値だ」

したがって、どういう場合に幸福は善いのか、ということを問題にするのは無意味なことではない。私はそれをしようと思うのである。

 

2.幸福はどのような場合に善なのか

まず、道徳的に善い幸福や真正な幸福というのがあって、そういう幸福にしか価値は無いという立場がある。これによれば、例えば次のような幸福に価値はない。

1.悪人が、悪事を働くことに見出す幸福

2.映画マトリックスに出てくるような経験機械に与えられた幸福

1.に価値がないとするのは、道徳的価値と、本人にとっての価値を混同しているからだと考えられる。そのような幸福は不道徳だが、本人にとって善いものであることに変わりはない。むしろ、不道徳な幸福も本人に価値があるからこそ、ほんとうは価値が無いんだなどといって、不道徳な幸福の追求をやめさせることが道徳的に必要となるのである。

2.は、主観的な幸福感があるだけで、客観的な実態が伴わない例である。これに関しては、以下の記事で述べた理由から、自分自身にとっての価値は主観だけで決まり、従って2.の幸福にも価値があるとする立場をとる。要するに、私の主観から独立した客観的な世界の在り様などというものは確かめようがない、確かめようがないものに左右される幸福などというものを追求しても仕方がないではないか、という主張である。

生の善さは主観的な経験だけで決まるものか - 思考の断片

 

では、幸福は常に価値あるものなのだろうか。私はそうは思わない。次のような幸福に価値は無いと考えるからだ。

・私が明日死ぬとした場合、仮に明日以降生きていれば得られたであろう幸福

なぜなら、明日以降の幸福は、明日以降生きる私がいるから必要なのであって、いなければ不要であるからである。不要なものに価値は無い。

 

対して不幸はどうだろうか。

・私が明日死ぬとした場合、仮に明日以降生きていれば被ったであろう不幸

幸福と同様、明日以降の不幸は、明日以降生きる私がいるから避けるべきものなのであって、いなければ避ける必要もないといえるだろうか。

もし不幸の程度が低ければ、そういえるかもしれない。しかし、たとえば極めて大きい病苦のような重大な不幸の場合、かりに私が明日死ぬとした場合も、明日以降の不幸を避けられてよかった、とは言えないだろうか。

 

3.死に寛容な幸福主義

私の立場は次のとおり定式化される。

CE:実際は私が時点tまで生きることになるにも関わらず、私が時点t以降も生きる仮想的な人生の幸福や不幸の価値を考えるとしよう。そのとき、幸福や一定水準U以下の不幸は、時点tまでのものにしか価値はないのに対して、一定水準U以上の不幸は時点t以降のものにも負の価値がある。

あるいは次の通り言い換えられる。

CE':仮に私が時点Tまで生きた場合の人生の幸福(一定水準U以下の不幸)の価値は、もし私が実際には時点tまでしか生きないならば、時点0から(Tでなく)tまでの幸福度(不幸度)の総和である。対して、一定水準U以上の不幸の負の価値は、時点0からTまでの不幸度の総和である。

 

 

つまり、ある仮想的な人生の善さを計る場合、実際にいつの時点で死ぬことになるかによって、尺度が変わるのである。

しかしそうなると、例えば50歳で死ぬ人生と、80歳で死ぬ人生のどちらがいいか、直接は比較できなくなる。前者を基準にすれば、50歳までの幸福にしか価値がないのに対して、後者を基準にすれば80歳までの幸福に価値があり、計る尺度が違うからだ。結局どちらがいいのだろうか。

私は、50歳と80歳どちらを基準にしても、50歳の人生がより善い場合のみ、50歳で死ぬ人生は80歳で死ぬ人生より善い(逆も同様)と考える。だから、50歳と80歳までの人生のどちらも善くはないこともあると考える。

 

この帰結はどういうものだろうか。まず、もし時点tで私が死ぬことになる場合、それは時点t以後も生き続けて幸福を得ることに比べてほとんど(※)悪くはないと言える。なぜなら、私が死ぬ時点t以後に得られたであろう幸福に価値は無いから、生き続けたところで生涯全体の幸福の価値は増えないからである。

したがって、時点t以後も生き続けることは、時点tで死ぬよりほとんど良くはない。

※ほとんど、と言ったのは、時点tで死ぬ場合は、生き続ける場合に比べて、時点t直前に、死ぬことによる不幸を被るからである。しかし、生き続けて後に死ぬ場合も、いずれ同様の不幸は被り、この不幸はUを上回ると思うため、幸福とは異なりカウントされるものと考える。だから、やはりほとんど悪くない。

 

次に、時点tより前の時点sで死ぬ場合は(一定水準U以上の)不幸が減ると仮定しよう。その場合、もし時点tで私が死ぬことになる場合、不幸が減るため、時点tで死ぬよりも時点sに死んだほうが望ましいということになる。もし時点sで私が死ぬことになる場合も、一定水準U以上の不幸が減るため、時点tで死ぬよりも時点sに死んだほうが望ましい。

したがって、時点tよりも早いsで死んでしまったほうが善いのである。

 

 

以上より、時点tより長生きすべき理由はほんのわずかであるのに対し、正の確率で一定水準U以上の不幸が予測される場合は時点tより早く死んだほうがいいと言える。つまり早い死はほとんど無害であるだけでなく、時々有益なこともあるのである。これは、死に寛容かつ友好的な幸福主義だと言えるだろう。

 

 では、なぜ私が早く死んでしまわないかと問われるだろう。私がまだ自殺をしないわけは三つある。

1.ひとつは、一定水準U以上の不幸を経験する可能性が低いか、不幸を経験する前に自殺を選択できる可能性が高いと考えているためである。例えば、拷問や重大な事故により耐えがたい苦痛を被る可能性は、きわめて小さいだろう。病気の末期に苦痛を被ることは確率としては高いが、先に自殺をすることで避けることが可能である。

2.また、自殺をする場合も、断末魔の苦しみや、すぐ死んでしまうという恐怖がある。死ぬ苦しみはいつ自殺しようと同じかもしれないが、後者の恐怖は年齢とともにある程度克服できるのではないかと考えている。自殺を先延ばしにすることで、自殺そのものによる(一定水準Uを超える)不幸を軽減できるのではないかと思っている。

3.最後は、利「今」的な不合理性である。今すぐ死んだほうが、時間を通じた連続体である「私」のためにはなるかもしれないが、今すぐ死ぬことによる苦痛は、今の私の不利益になる。今の私も、「私」全体の利益を考慮はするものの、やはり今の私の利益を最優先してしまうものである。結果として、自殺が「私」のためであっても、今の私のために延命してしまっていると考えられる。

 

結果として、本来私は今すぐ死ぬのが合理的であるにもかかわらず、60歳くらいまでだらだら生き続けてしまうのではないかと考えている。したがって、60歳までの幸福を最大化することが、不合理性を踏まえたうえで、私にとって最善であると言える。

 

4.まとめ

私の幸福主義は、内容によらず幸福は善であるとしつつも、早死にによる幸福の機会損失に価値は無いが、一定水準以上の不幸の機会利益に価値はあるという立場である。これは早死には損にはならないが、得になることはあると主張する点で、死に親和的である。にもかかわらず私が早く死なないのは、結局は、今を優先する私の不合理性ゆえである。