安楽死について

 自殺に対する世間の印象は悪い。自殺は迷惑だと考える人もいれば、自殺は本人のためにもよくないと考える人もいる。しかし、私は自殺が道徳的に容認される場合や、本人のためになる場合もあると考える。また、それでもなお自殺が非道徳的で、非合理的な場合も多いため、これら自殺の問題点を解決するため、世に言う積極的安楽死の制度を導入すべきだと考える。

 

1.自殺は本人にとって良い場合もある

 死ぬことは本人にとって悪いことだと考えられがちである。どんな死も葬式で悔やまれる。しかし、こういう世間の常識とは反して、どんな場合も生き続けたほうがいいとは限らない。臨床状態で苦に満ちた人生しか残されていない場合がそのいい例である。この例ほど極端ではないだろうが、自殺志願者について、生き続ける人生のほうが、今すぐ死ぬ人生よりも悪い可能性は原理的にありえるだけではなく、現実的にも多いのではないだろうか。

 確かに、生きることは無条件で常にいいことだ、という価値観も可能性としてはありうるだろう。そう考える人は、できる限り長く生きればいい。しかし、生きることがいいのは、人生の内容に正の価値がある場合だけである、という考え方もある。人生の内容は快楽や幸福などの良いものから、苦痛や不幸などの悪いものまで様々だが、後者が前者より多い可能性は理論的にだけではなく、現実的にも無視できない。こういう考え方をする人にとっては、幸福より多くの不幸を回避できるという理由で、死を選ぶことは本人にとっては良いことだといえるのではないだろうか。

 ただ、自殺志願者が、本当に自分が生き続けた場合、幸福と不幸のどちらが多いか、正確に比較できることはほとんどないだろう。正常な状態でもこれは困難であり、その大半は精神疾患を患っている自殺者の場合はなおさらである。自殺志願者は、過度に悲観的になって死を選ぶ傾向がある以上、死んだほうが自分にとっていいと考えていても、本当は死なないほうが良かった可能性があるからだ。だが、だからといって、本当に死んだほうが良かったという可能性が無くなるわけではない。

 

2.自殺の合理性 

 自殺が本人にとって本当は良くはないかもしれないという疑念が生じる理由の一つに、自殺の合理性に対する疑いがある。中でも良く指摘されるのが、死ぬことでどうなるかがわからないという点である。我々は普段、合理的に行為を選択する場合、どの行為が最善の結果をもたらすかに基づいて判断をしている。しかし生きるか自殺をするかを選択する場合、生きる結果はある程度予想がつくが、自殺した場合はどうなるかがわからない。したがって、自殺は日常的な意味で合理的だとは言えないのではないだろうか、という意見である。

 

①生き続けることの不合理性

 しかし、もし死がわからないとすれば、生き続けることも合理的とは言えなくなってしまう。生き続ける選択肢のことはわかっても、もう一つの選択肢である死が生と比較してどれくらい悪いことなのか、わからないからである。したがって、生きるという選択肢が最善かどうかも、死に劣らずわからないことなのである。自殺だけを、不合理であるという理由で批判することはできない。

 

②死後についての憶測に基づく合理性

 また、本当に死について何もわからないのだろうか。ノンレム睡眠を行うとき、我々の脳のほとんどが活動を休止する。このとき、我々に意識はないことを我々は知っている。死後にも我々の脳は休止どころか、分子レベルに分解されてしまう。したがって、死後には意識はないとある程度類推することはできないだろうか。

 こう信じる場合、死後の無意識と、生き続けた場合の人生を比較して、後者に負の価値がある時に自殺することは不合理ではないと思われる。もちろん上の類推が間違っている可能性は多分にある。しかし、日常的な判断も、仮に100%正しい情報に基づいて行われなくとも、合理的と言われる。

 例えば、天気予報で雨だと言われたからと言って、必ず雨が降る証拠にはならない。しかしその情報に基づいて傘を持っていくのは、確かに合理的なのである。自殺の場合も確度が違うだけで、合理的である点には違いがないのである。

※なお、以上の話は、仮に死後が無だと信じておらず、天国や地獄に行く、もしくは輪廻転生をする可能性があると信じている人の場合も同じである。彼は、それぞれのシナリオに対して主観確率を仮定し、シナリオの良し悪しとの積を合算した期待値が、生きる場合の期待値より高い場合に自殺をすればいいのである。

 

③たとえ不可知な死後があっても

 ②では、死後が無であることを前提に話を進めたが、私は、仮に死後があって、それが全く不可知だとしても自殺の合理性は揺るがないと思う。30歳で自殺するか、60歳の寿命まで生きるかに応じて、次の二つのパターンが考えられる。

・30歳で自殺する:30歳までの人生+死後1

・60歳の寿命まで生きる:30歳までの人生+30~60歳までの人生+死後2

 生きることによるメリット・デメリットを考えると、死後2の価値 - 死後1の価値 + 30~60歳までの人生の価値である。ここで、死後1と死後2のいずれについても、完全にわからないのだった。ならば、死後1の価値は死後2の価値の期待値と同じであると仮定していいだろう。(死後1が30年長いなどということも、知りようがない。死後は永遠かもしれないし、一律一定の期間かもしれないのである。)

 したがって、生きることのメリット・デメリットの期待値を取れば、30~60歳までの人生の価値の期待値が残る。ここで、もし、30~60歳の人生の価値の期待値が負ならば、つまり生きるに値しない可能性が高いならば、生きることによってデメリットを被る可能性が高いことになる。不可知な死後があるとしても、生前の利害にもとづき、自殺を合理的に選択することは可能なのである。

 

 もちろん、全ての自殺が、②や③に述べたような、死後に関する合理的な計算に基づいて行われているとは限らない。衝動的に自殺をする人や、精神疾患が原因で自殺をする人も多いだろう。ただ、すべての自殺が非合理的なわけではないことは示せたと思う。

 

3.自殺が道徳的に容認される場合もある

自殺はいくつかの理由で不道徳だと言われる。

 

①自殺はエゴだ

 まず、自殺は他者の悲しみや社会に与える損害を考えないエゴだと批判されることが多い。確かに自殺は利己的動機からなされることが多い行為である。しかし、エゴという点では、止めようとするほうも等しくエゴである。自殺が本人のためになる場合、道徳的な人であれば本人のために自殺を望むはずである。にもかかわらず、自分が悲しいから自殺を止めるというのも同じく、本人の死にたいという意向を軽視するエゴではないだろうか。しかし、自殺を止めることは批判されることはない。エゴだからというだけでは、批判する理由にはならないのである。

 

②命を粗末にするな

 次に、ある人の命には道徳的価値があり、自殺はそれを損なうから悪いことだという意見がある。

 ではそもそも、ある人の命そのものに道徳的価値があるのはなぜだろうか。私は、命が本人や家族にとって大切だからと言いたい。

これに対しては、次のように反論されるかもしれない。例えば、(ある人の有する)自由や人権といった抽象的な理念には、その人自身が大切に思おうと思うまいと、重んじられるべき価値がある。「いのち」という理念についても同様ではないだろうかと。

 しかし、命は人権や自由といった作り物の理念ではなく、リアルな具体物でもある。ある人の命は、「いのち」などという理念を措定するまでもなく、確かに実在しているからだ。そして自殺でなくなるものは抽象的な「いのち」ではなく、この具体的な命である。ある人が自殺するかということは、「いのち」の尊厳がどうのこうのという抽象的な話ではなく、その人の日々の営みが終わるか終わらないかという、大変リアルで深刻な問題なのである。

 以上より、命としては「いのち」という理念ではなく、具体的な命を問題にすべきである。さて、命に限らず、具体物に道徳的価値があるのは、かならず誰かにとって価値があるからである。誰にとっての価値もない具体物には、守るべき道徳的理由がないためである。

 ある人の命に道徳的価値があるのも、やはり本人や家族にとってそれが大切だからだろう。決して、命に道徳的価値があるから、命ある人が自らの命を大切にすべきなのではない。もしそうだとしたら、我々は命の価値の主人よりも奴隷になってしまうだろう。命ある人がその命を大切にするからこそ、命に道徳的な価値があるのである。

 もし、命ある人にとって自らの命が重荷であり、かつ家族にとって命を支えるのが重荷である場合、命は道徳的に価値があるどころか、ないほうがいいものである。

 

③命はあなただけのものじゃない

 以上の考え方に対して、本人以外に社会の観点も必要ではないかという意見もあるだろう。例えば、命や身体は自己だけではなく、同時に社会も所有していて、本人の意思では勝手に処分していいものではないという意見がある。

私は、仮に一般論として社会が個人の命を所有するという前提を認めるとしても、社会は自殺志願者に対しては例外的にその所有権を主張できないと思う。なぜだろうか。

 社会が個人の命や身体を所有する場合、個人が最低限度の尊厳を持った人生を歩めるよう、保護する責任を負うはずだ。それは、ちょうど飼い主がペットを所有するとき、同時にペットを保護する責任が生じるのと同様である。もし、ペットが最低限度の尊厳も保てないようであれば、飼い主は所有権をはく奪されてしかるべきだろう。同様に、生きていたいと思える程度の最低限の尊厳も、社会が個人に対して保障できないならば、社会はその個人に対して所有権を主張することはできないはずだ。

 もし社会が個人に対して所有権を主張できない場合、個人は自己の命に対して所有権を主張してもいいはずだ。その場合彼は、自己の命を守る権利だけではなく、放棄する権利も主張できるだろう。

 

④自殺は社会や家族に迷惑だ

 最後に、自殺が経済的な負担や心理的な苦痛を、他者(とくに家族)に与えるという意見もある。しかし、生き続けたほうが社会や家族ともに大量の医療費がかかり、家族には心労がかかるといった場合もある。その場合、自殺をしたほうが心理的にも経済的にも、周りにかかるコストが少ないだろう。それ以外の場合でも、生きる苦が、周囲の悲しみや社会の損失を上回る場合は、功利主義の立場をとれば、自殺は正当化可能であるように思われる。

 

4.現行の自殺の問題点

以上の主張にも関わらず、現行の個人的な自殺には問題点がある。

 まず、鬱や衝動により、まだまだ合理的に行われていない自殺も多く、本当は本人のためにならない自殺も多いと考えられる。彼らには、冷静に考える機会や相談相手が必要だろう。

 他方で、逆に自殺をしたほうがいいのに、自殺に踏み切れない人たちもおり、彼らにとっては自殺という手段が不十分である。彼らには最小限の苦痛や心理的な抵抗で自殺ができる手段が必要である。

 また、どんな手段を取っても、自殺は周囲に迷惑をかけることが多い。電車飛び込みや高所からの飛び降りはもちろん、首つり自殺であっても、処分費用や不動産価値の下落など、かなりの手間とコストを周囲に強いる。彼らには、できるだけ周囲への負担が少ない自殺の手段が必要である。

 

5.積極的安楽死について

3.の問題点等を解消するために、私は下記の積極的安楽死を導入すべきだと考える。

 流れとしては、まず本人がカウンセラーや家族に対して希死念慮を表明する。カウンセラーは別の選択肢を提示し、家族は希死念慮をなくすサポートを行う。また、家族と本人の間で互いの気持ちを理解するためのコミュニケーションを十分にとる。それでもなお、一定期間後なお継続的に死にたい意思がある場合、医師が薬物投与して安楽死させるというものである。ただし、次の条件をつける。

 まず、社会へ与えるコストや機会損失の対価として、数百万程度の料金や、臓器ドナーの義務を課す。あと、当然犯罪者や債務を抱えた人は利用不可とする。

 また、安楽死を幇助する医師は決して強制されず、自由意志で行うべきである。(志願者がいない場合は制度を凍結すべきである)

 

6.積極的安楽死のメリット

上記の積極的安楽死には確かなメリットがあると思われる。

 まず、カウンセラーや家族と相談し、自己の気持ちや考えを整理したり他者の考えを聞くことにより、非合理的な自殺を減らせる。

 さらに、自殺のハードルが下がり、以前は苦しみながらも死ねなかった人も、手軽に死ぬことができ、苦痛を回避できるようになる。それだけではない。これにより、死にたい理由の一つであった、苦しくてもすぐ死ねないことに対する苦痛が解消される。二重の意味で、希死念慮を抱く人の苦痛は減るのである。

 最後に、自殺場所の管理ができるうえ、死体の処置が楽になり、社会的なコストが最小限で済む。

 

7.積極的安楽死合法化に対する反論と再反論

以上に述べたメリットにも関わらず、積極的安楽死を導入すべきだとする意見にはいくつかの反論が考えられる。

 まず、いくら社会的なコストが減っても家族等の悲しみはなくならない(それゆえに道徳的に正当化されない)という点がある。確かにそのとおりである。しかし自殺したい本人の気持ちを家族がくみ取り、自殺したほうが本人のためになることがわかれば、少しでも悲しみは軽減されるのではないだろうか。それでもなお、自殺志願者が死ぬのが悲しいのならば、心理的なケアや金銭的な援助を行う等、なにがなんでも自殺させない手だてを家族等は取るはずである。

※以上にも関わらず、やはり家族の悲しみはなくならないだろう。しかし、死ぬ人にとって、積極的安楽死は自殺の代替なのだから、その是非を考える際は、死なない場合に比べて安楽死がどれだけ悪いかではなく、自殺する場合と比べて安楽死がどれだけマシか、を考えるべきである。少なくとも自殺に比べれば、家族の悲しみは軽減されることは間違いはないのである。

 次に自殺のハードルが下がることにより死ぬ人が増えるという懸念が考えられる。しかし、仮に死ぬ人が増えたとしても、それが必ずしも悪いこととは限らない。死んだほうがその人のためになるような人もたくさんいるのである。また、苦しくてもすぐ死ねないことに対する苦痛が解消されることで、希死念慮が弱まるという効果もあると考えられるため、自殺も加えた死亡者数は全体として減る可能性もある。

 最後に、本当は死にたくない人が、社会的な圧力等により事実上死を選択させられる可能性を懸念する人が多い。これに対しては、カウンセリングで、患者自身が家族や社会の負担になっていると感じているかについても調査を行い、該当する場合は本人の意思に関わらず安楽死を控える等の配慮が可能である。

 このような配慮を行っても、まだ不十分だといわれるかもしれない。私は、ここまで配慮して、かりに死にたくない人が死を選ばざるを得ないという弊害が万が一生じても、それは死にたいけれども死ねない人が多数存在する現在の弊害よりは、軽いものだと考える。

実際、安楽死の選択肢のない現状では、生きたくないけれども、自殺の周囲への迷惑を考えたり、自身で自殺をするほどの精神的・身体的余力がなく、生を選択せざるをえない人がいる。生きたいという意思のみを尊重するばかりに、安楽死制度に反対し、そのために生きたくないという意思が犠牲にされている現状を肯定するのは不当である。

 

8.まとめ

 自殺が本人にとって良く、道徳的にも容認される場合はある。しかしそれでも、現行の自殺は非合理的で不道徳な場合も多い点は否めない。ただ、上に述べたとおり、積極的安楽死という制度で自殺という手段を補完することで、その非合理性や不道徳性の大部分は軽減できると思う。もちろん、積極的安楽死は悪用される懸念がある以上、運用は慎重に行うべきだと思うが、この制度は、そのリスクを補ってあまりある利益を、希死念慮を抱く人および社会全体に与えるものだと思う。

 今の日本では、生きたいという意思や権利が神聖不可侵として扱われている。もちろんこれは重要である。生きている限り、生きたいという根源的な利害は尊重されてしかるべきである。しかし、死にたいという意思も、生そのものに関わる以上、生きたいという意思に劣らず根源的で尊重されてしかるべきではないだろうか。