思考の節約について

1.思考は私にとって快楽である

世の人には、思考が嫌いな人も多いようである。彼らは思考をもっぱら日常生活に成果を還元するための手段とみなすようである。対して、私は思考すること自体が好きであり、思考で得られる結果とは関係なくその過程が好きなのである。

 思考といってもいろいろある。一つのことについて多くの事柄を考える個別的な思考もあれば、多くのことについて普遍的なことを考える哲学的な思考もある。限られたことについて、いろいろなことが言えるのは当たり前である。対して、多くのことについて同じことが言えるのは非自明で驚くべきことである。したがって、私は後者の思考をすることに対してより大きな満足や達成感を抱くようである。

 

2.思考の希少性

 しかし、社会人である私が思考に使うことのできる時間は限られている。私の人生はせいぜい80年しかなく、その大部分が労働に占められている。余暇に恵まれている時ですら、思考が回る時間はわずかしかない。また、思考に使えるハードウェア、知能や素養や(ワーキング)メモリや記憶も、全てがきわめて限られていて、希少である。

 以上に述べた思考のリソースの制約にもかかわらず、私が思考すべき世界はあまりに多くの物事で溢れている。我々の世界は、ただですら取り留めがないほど莫大なのに、日を追うごとに新しい物事がどんどん追加されていく。日々押し寄せる新しい事実の荒波に、圧倒されんばかりである。

 それでもなお、世界全体について十分に考えるには、思考の節約が必要となるだろう。思考の節約とは、出来るだけ少ない思考のリソースで、出来るだけ多くの事実を考えることである。

 

3.思考の節約の例

 例えば、多様な事物を一つの概念で把握することが思考の節約術の一つである。我々一人ひとりを人間という概念でまとめて把握することがあるだろう。これにより、例えば私の足が二本あり、あなたの足が二本あり…という無数の命題を、人間の足は二本である、という一言でまとめて考えることが出来る。抽象化は、時間、能力やメモリーの観点から考えて、極めて有効な思考の節約である。

 また、多数の命題を一つの原理から演繹的に説明することや、多数の概念を一つの概念で定義することも思考の節約になる。例えば、ニュートン万有引力を発見する以前は、アリストテレスの伝統にしたがい、恒星の運動と地球の重力による自由落下は別の原理によるものとされていた。しかしニュートン万有引力という共通の原理で両者を説明した。これ自体が偉大な発見であるが、思考の節約という観点から見ても、従来は別々の原理を念頭に置かなければ理解できなかったものが、一つの統一的原理を知れば説明できるようになったのだから、メモリーや記憶の節約となり、大きな進歩であるといえる。多種多様な概念を一つの概念を用いて定義するというのも、念頭に置くべき要素を減らすことができ、より思考がシンプルになるという点で思考の(メモリーの)節約であるといえるだろう。

 

4.思考の節約のデメリット

 しかし、思考の節約は時に思考の正しさや細かさを犠牲にする。例えば、先の例で挙げた「人間の足は二本である」という言い方をしてしまっては、足を失った障碍者について誤りをおかすことになる。我々一人一人を人間という一般概念で代表させることは、思考の効率と引き換えに精度を犠牲にしているのである。

 思考の節約とは、一種の近似である。必ずしもすべてに当てはまるとは限らない概念を用い、原理を仮定することで、思考を簡便にする近似式のようなものなのである。数学で近似を用いるときは、いつも誤差がどれくらいの範囲に収まるか評価するものである。思考の節約においても、近似化の粗さには常に自覚的であり、粗が目立つようであれば近似式を見直す用意がなければならない。間違っても、近似式に現実を当てはめようとする誤謬は犯してはならないのである。

 思考の節約による近似で特に見過ごされがちなのは、細部に宿る違いである。美学ではこれが致命的になる、建築家の残した、神は細部に宿り給う、という格言のとおりである。思考の節約は、どのような分野でも有効であるとは限らない。

 

5.思考の節約の重要性

 ただ、我々のいかなる思考も言葉を使う以上、ある程度の一般化は免れない。どんな思考も100%正しいということはありえず、いくばくかの単純化・近似化を含む。思考の節約は何も特別なことではなく、程度問題なのである。扱う事物の性質によって、つまり細部が重要なのか、それとも細部は非本質的で大枠が重要なのかに応じて、近似の度合いを変えることが必要であるといえるだろう。

 また、思考の節約を行うからと言って、思考の正しさや精度を追求することをずっと怠るわけではない。簡便な方法で物事について一通り考えてから、余った思考のリソースを後から理論の改善に充てることも出来るのである。最初から正しく細かい思考を心掛けるよりも、最初は簡便で近似的な理論を措定してから、徐々に改善・洗練させていくほうが思考を網羅的に、そして効率的に行うことができるのである。

 以上より、思考の節約にはデメリットはあれ、余りある多大な効用があること、そして我々がすでに日常的に行っていることが示せたと思う。私は積極的に、しかし自覚的かつ注意深く思考の節約を活用していこうと思っている。

 

6.思考の節約の実践

 ではいかなる方法で思考の節約を行おうか。私は、例で挙げたような、演繹的な説明が出来る理論体系をこしらえることで思考の節約を行いたいと思う。演繹という一から多を説明する操作は、思考力は消費するものの、記憶力やメモリーの節約になる。しかも、この理論は極力登場する基本概念が少なく、明晰であるのが望ましい。これは、複雑な思考を避けるためである。先ほど述べたように、もちろん世界はそんな単純ではない。数少ない概念と仮定からすべてを説明するのは無理があるだろう。

 それでも、そういう世界の多様性や複雑性を、単一な原理や概念を用いて明晰に説明しようとしてこそ、(思考の節約になるのみならず)知的な価値があると私は考えている。もともと世界が多であるのは当たり前なのである。それをいかにまとめて説明するかという点でこそ、我々の知性は試されているのではなかろうか。

 また、多様性が単一な原理や概念で説明されるということは、美しくもあると思う。多様な自然界が、一つの波動方程式で説明されるということや、少数の公理から、数々の非自明な定理が導出されるのは、それ自体が美しい奇跡ではなかろうか。

 以上より、思考の節約という観点以外からも、私が目指すところは価値あるものであるように思われる。世の人は正しいことが真理だと考えているようだが、私に言わせれば理論性、シンプルさ、明晰さも、正しさや深遠さに劣らず真理の価値に寄与するものなのである。