独我論と他者実在論はいかに両立するか

独我論と他者実在論、利己主義と道徳性はしばしば対立するものだと考えられている。しかし私の中では、それぞれが異なるレベルで両立している。それがいかに可能かを以下で説明したい。

1.素朴独我論

全ての実在は経験である。例えば、知覚はもちろん、認識、想像、感情、思考などの精神的活動、およびこれらの対象(客観、イメージ、好き嫌い、命題、言葉)全てが経験である。経験は意識と言い換えてもいい、しかし意識する主体、つまり私は経験されず、ただ意識されるものだけがあるのである。

これだけならば、この(私の)意識がすべてであるという素朴独我論が成り立つ。しかしこの素朴独我論の世界には、他者どころか、それと対比される私という概念すら居場所がない。私は、確かに私は素朴独我論は正しいと思うが、世界がそれだけしかないのは不満である。そんな貧相な世界の中で完結して生きていたくはないのである。したがって、私は以下に述べる類推により世界を拡大したくなる。

 

2.身体と経験の対応関係

よく注意してみると、経験の中でも、特殊な経験がある。身体、それものちに「私の」身体と呼ぶ唯一のものに関する認識がそれである。それはどういう点で特殊なのだろうか。

たとえばそこらへんの石ころが真っ二つに割れたとする。それでも、石ころに関する知覚の経験が少し変わるだけで、ほかの経験に何の影響もないだろう。それに対して、この身体、例えば手が少しでも傷つくだけで、痛いという強い経験が引き起こされる。手の機能が停止するほど傷ついたら、手を通じて得られていた知覚経験そのものが無くなってしまうだろう。さらに類推すると、身体活動が停止してしまえば、この経験の全体もすっぽり消えてしまうと考えられる。

経験の一部をなすに過ぎないこの身体(特に脳)の活動が、経験の全体に対応している。こんな不思議なことがあるだろうか。しかもそれだけではない、外から見ればこの身体とほぼ同じ構造、機能をしている他の身体が無数にあるのだ。

 

3.他者の措定

もしこの経験がこの身体に対応しているのならば、他の身体に対応する別個の「経験」があると類推することができる。この経験を私の経験、別個の経験を他者の「経験」と呼ぶ。

経験について - 思考の断片

上の記事で説明したとおり、この他者の「経験」は確かに経験ではない。言うまでもなく、他人が感じたり、考えることをそのまま知ることはできないし、そのような精神活動の主体としての他人そのものも認識できないからだ。

私の独我論について - 思考の断片

しかし、この記事に述べたように、他者を尊重するような人間関係の中で生きたい私には、この他者の「経験」というのはどうしてもなくてはならない要請なのである。もし他者に「経験」が無ければ、他者は石ころ同然のモノ、単なる身体にすぎないだろう。そんなたかがモノとの関係では私は満足しないのである。

それゆえに、無いはずの他者の「経験」を私は経験として在るかのごとく措定する。それは命題として『他者の「経験」が存在する』ことが正しいと信じることではない、態度として他者の「経験」があるかのごとく、振る舞うことである。

他者の「経験」があるかのごとく振る舞うとはどういうことなのか、説明しよう。まず、他者不在の時の私はどのように振る舞うだろうか。他者がいないとなると我々は自分内部の経験だけを考えて行動するはずである、つまり自分の経験で自分にとって善いものを追求し、悪いものを忌避する。例えば喉が渇いていると、私の渇きが癒えるという善い事態を引き起こすため、水を飲みに行くという行為を取る。

しかし、もし他者の「経験」があると考えれば、私の経験以外に、他者の「経験」でも、私にとって善いものと悪いものがあるはずである。例えば、大切な人が苦しむという他者の「経験」は私にとっても悪いものだから、大切な人に協力してその事態を避けようとするだろう。逆に憎い人が苦しむという他者の「経験」は私にとって善いものだから、それを引き起こすように意地悪をするかもしれない。

つまり、他者の「経験」があるかの如く振る舞うとは、その「経験」を私にとっての善として追求したり、悪として忌避する態度のことを言う(※)のである。

 

※ある事態を善いものとして追求することが合理的であるためには、その事態がある(ありうる)と信じていなければならないだろう。例えば、幸せになりようもないと分かっているのに、意識のないロボットに、幸せになってもらうよう努力するのは全くの不合理なのである。他者の「経験」が「ある」かの如く…という場合の「ある」は、倫理的実践の前提となる信念なのである。

 

 

4.道徳の成立

私の経験が私にとっての善悪を持つならば、他者の「経験」が他者自身にとっての善悪も持つと考えるのが自然だろう。善悪も経験同様、私にとっての善悪と、他者にとっての「善悪」の二種類があり、後者は厳密には経験とは言えないものである。しかし、後者の「善悪」を全く無いものとして無視することは、私にはできない。それは完全に冷酷なエゴイスト、非人間にしかできない所業であろう。

他者にとっての「善悪」を、あたかも自分にとっての善悪であるかのように追求もしくは忌避する態度、これこそが道徳的態度である。この意味では、私を含め、我々は誰しもある程度は道徳的である。(※)

 

※しかし、私も皆も、「完全に」道徳的ではない。

道徳について - 思考の断片

この記事で定義したとおり、「完全に」道徳的とは、他者にとっての「善悪」を私にとっての善悪と「等価なものとして」追求もしくは忌避する態度のことである。誰だって、自分が一番かわいいのであり、自分にとっての善悪は、他者にとっての「善悪」に優先する。皆が実際には完全に道徳的ではないからこそ、当為としての道徳がある。私は当為としての道徳に従おうとするという意味では、道徳的とは言えない。

 

以上のとおり、(最初の意味であれ、当為としての意味であれ)道徳は他者を措定するからこそ成立するものであることがわかるだろう。もし他者がいないのだとしたら、他者のことを慮るというのは完全に無意味になる。他者不在でもなお成り立つ倫理といえば、己を意識するまでもない、利「己」主義くらいではないだろうか。独我論者の倫理は必然的に利己主義である

 

5.それでも独我論・利己主義

上記のとおり、私は、他者の「経験」と他者にとっての「善悪」を措定しており、それらに一定の実在性を認めている。しかも私はある程度道徳的である。しかしそれでもなお私自身は根っこでは理論的には(素朴)独我論者で、倫理的には利己主義者ではないかと思っている

前者の理由は、実践上は他者の存在を前提としていても、理論上は、存在するのは(私のものと後に呼ぶ)この経験だけであるという確信があるからである。他者も、私自身がよく生きるための要請から私が作ったものにすぎず、私の経験の一部に過ぎないのである。この意味では私は他者に実在性を認めていない。

後者の理由は、いくら私が道徳的であるとはいえ、結局は自分が生きたいように生きるために、道徳的態度をとっているに過ぎないからである。他者にとっての「善」を追求したいというのも、広い意味で言えば、私自身のためである。この広い意味で言えば、私は「ある程度道徳的な」利己主義をとっていると言える。

以上に説明した通り、私は、独我論・利己主義と他者実在論・道徳性は異なるレベルで両立すると思っている。ただ、前者のほうがより根本的であることは強調したいと思う。私の都合でこそ他者は措定されたのであり、私のためにこそ、他者のためを思うのである。