善く生きるとは何かを問うのはなぜか

私は長らく、よく生きることは何かという問いに興味を持っている。よく生きるとは、自分にとって幸せだといえるような生き方をすることだ。例えば、私が好きな食べ物を今日食べることは、わざわざ嫌いな食べ物を食べるよりもよく生きることだし、おそらく仕事をすることも無職でいるよりはよいことなのだろう。

 

このような例を挙げると、よく生きることは一見、やりたいことや欲しいものをひたすら追求する当たり前のことだと思われ、そもそもなぜ問いが生じるのか疑問に思うかもしれない。しかし、実際はそう単純ではなく、欲しいものをなんでも追求することは最善とは限らない。以下でいくつかの理由を述べる。

 

まず、そもそも欲求の充足が全て善いこととは限らないからである。

・偽の欲求

例えば子供のころ、今振り返ってみればいらなかったものが欲しかった経験をした人は多いと思う。また、大人になっても、欲しかったものを手に入れても心が満たされないことは往々にしてある。

・外的に刷り込まれた欲求

CMなどを見て欲しいと思ったものを入手したところで、それは善いと思わされたものにすぎず、自分にとって本当に善いものとは限らないのではないか。

・遠隔の欲求 

仮に私が電車の中の苦しそうな見知らぬ病人の病気が治ることを欲したとして、その病人の病気が私が知らずして治ったところで、私にとって善いことだろうか。

 

また、善いものを正しく捉えた欲求でも、ひたすら追求してればいいというものではない。

・欲求は満たされると善いものだが、逆に満たされなければ悪いものである。実現可能な欲求は追求するに越したことはないが、実現が困難な欲求は、追求するよりもあきらめたほうが、欲が満たされない悪を避けられることが往々にしてある。

 

 

だからこそ、今私が求めているものが本当に善いのか、そして追求するべきかという実践的な問題や、そもそも善いこととは何なのか、という哲学的な問題が生じるのである。この問題こそ、私が生涯かけて考えていくべきものだと思っている。