死はなぜ快楽主義者の私にとって悪いことでは無いのか

 1.死が恐いのは、死が悪いからではない

 私は死が怖く、それゆえに先延ばしにしている。私にはどうもその私の行動が合理的なものには思えない。つまり、死が私にとって悪いから避けているのではなく、ただ怖くて避けているだけではないかと思われるのである。

ただ、もし死が悪くないにも関わらず、恐ろしいものだとするならば、その恐怖の説明が必要だろう。以下で私がなぜ自身の死を怖いものだと感じているのか説明する。

まず、死そのものではなく死ぬまでの過程は間違いなく苦痛で悪いものである。死ぬまでの過程と、死そのものは全くの別物であり、私は理屈の上では峻別することが出来る。しかし、私が死を怖いと意識するとき、両者はそんなに厳密に区別されていないように思える。頭でわかっていても、死ぬまでの苦痛に対する怖さに引きずられて死を怖いと思っているのではないだろうか。

次に、私は感覚としては、死んだあとどうなるかが分からない。もしかしたら天国に行く可能性もあれば地獄に落ちる可能性もあるのなら、そのリスクを避けたい(先延ばしにしたい)と思うのも自然だろう。しかし、私は理屈では死後が単なる無だと考えている。意識が脳の活動に対応して存在するならば、後者が止まったら前者も無くなるのが道理というものだろう。私の理屈が正しいか否かはともかく、感覚として死後がどうなるかわからないというのは拭えない。だから怖いという感覚が残ってしまうのではないかと思う。

以上の二つの理由によって、私は私自身の死に対する恐怖がある程度説明できるのではないかと思う。(皆の場合はどうだかわからないが)死が怖いのは、死が悪いからである必要はなく、別の理由があるのである。

 

怖いからと言って、死が悪いとは限らないとわかったところで、次に私にとって死が悪くないと考える理由を説明したい。

※ここで、私は「快楽主義者の私にとって」と但し書きを強調したい。快楽主義者の私と考え方や価値観が違う他人にまで、私の考え方は通じるか分からないからだ。

 

2.快楽主義について

私がとる、快楽主義という立場についてまず述べよう。

快楽主義:私にとって善いのは快楽のみであり、悪いのは苦痛のみである。

私の快楽主義について - 思考の断片

上の記事で述べたように、何を快楽と考えるかに関して私は特殊な考え方をしているが、私が快楽主義者であることに相違はない。

 

快楽主義は、あるものを価値あるものたらしめるのは、快楽もしくは苦痛(を含むこと)のみであるとする立場のことである。それによれば、例えば、おいしいものを食べることが善いことなのは、それが快楽を伴うからであって、おいしいものを食べたいという欲求が満たされるからではないのである。また、人生が善いか否かも、どれだけ多くの快楽や苦痛を伴うかで決まるのである。

たしかに我々は快楽以外にも様々なものに価値を見出す。例えば、快楽だけではなく、欲求が満たされることや、有意味であることも善いことではないか、と思う人は多いだろう。快楽主義者も、これらが快楽や苦痛を生み出す限りにおいて、派生的に価値があるものとは認めるだろう。しかし、善悪の最終的な由来は快楽や苦痛のみであるとする点において、彼らは一般の人と考えが異なるのである。

 

3.死が悪いか否かという問題の明晰化

さて、「死が悪いか否か」の問題に戻ろう。これを問う前に、まず概念を明晰にしなければならない。まず、先ほども区別したように「死」は、生きている間死ぬまでの過程ではなく、生から死へと移り変わる瞬間的な出来事を意味するものとしたい。

また、「悪い」というのは「私自身にとって」という利己的な意味における悪である。道徳的な悪でも、残された近しい人にとっての「悪い」ではない点に注意が必要である。

最後に、注意深く考えてみると、死には二つの側面がある。

まず、死は生の剥奪と考えられている。ある時点で死ぬということは、もし死ななければ生きられたであろうその後の人生が無くなることであると言われる。

同時に、そしてよりシンプルに考えれば、死は消滅である。生きていた時に存在していた私がまるごといなくなる、それが死という出来事である。

これら死の二つの側面に対応して、「死が悪いか否か」という問題は二つに分けられる

一つ目は、「より早い死はより遅い死より、多くの生を剥奪するから、結果として相対的に悪いか否か」という問題である

「死ぬほうが悪いから、生き続けたい」という場合は、この意味で「死が悪い」と言われている。厳密には「より早い」死が悪いのであって、このカッコが省略されていると考えていいだろう。

二つ目は、「死は(遅かれ早かれ)、私自身がまるごと消滅するから、それ自体として絶対的に悪いか否か」という問題である

足を骨折することは、(先延ばしに出来たほうがいいかもしれないが)それが早くても遅くてもそれ自体として悪いことだろう。死もこのような意味で悪い出来事を構成するか否か、というのが、二つ目の意味である。

両者の違いは、次からわかる。(仮に悪いとした場合)一つ目の悪は、死を先延ばしにすることにより避けられるが、二つ目の悪はいくら先延ばしにしても避けられない。また、一つ目の意味で死が悪いとしなくても、つまりいつ死が降りかかっても善し悪しに変わりがなくとも、なお死が悪いという可能性がある。逆に、死そのものが悪くないとしても、人生を楽しめないぶん早い死のほうが悪いという可能性があるだろう。

さて、私は、いずれの問いに対しても否、と答えたい

 

4.二つ目の意味で、死は悪くないことの説明

4-1.annihilation account

まず、二つ目の意味で死が悪いと考えられる説明として、次を挙げたい。

1.私は生存したいという強い欲求選好を持っている。

2.死という出来事は私を消滅させるため、この欲求を挫く。

3.1.と2.ゆえに死そのものが私にとって、端的に悪いことである。

これは死の悪さに対する「消滅による説明(annihilation account)」と呼ばれる。

 

4-2.annihilation accountに対する反論

1.は当てはまる。2.も否定しようがなく正しいだろう。しかし快楽主義者である私は、3.の推論を受け入れない

なぜだろうか。まず、快楽主義が悪いと考えるのは苦痛のみで、生きたいという欲が挫かれることは、本来的に(intrinsically)悪いことではない

ただし、通常、欲が挫かれることは、苦痛を伴う。例えば、水や食べ物が欲しいという欲求が満たされなければ、渇きや飢えによる苦痛が生じるし、より一般に、したいことが出来ないというのは苦痛である。

しかし、生存したいという欲求は一つの例外である。生きている間はこの欲が挫かれることはない。そして欲求が挫かれる死の瞬間もしくは死んだ後は、その欲が挫かれたこと、そしてそれによる苦痛を経験する私がそもそもいない。ゆえに、生存したいという欲求が挫かれることにより、私が苦痛を経験することはない(※)のである。したがって、生きたいという欲求が挫かれることは、派生的にも(derivatively)悪いことではない。

以上より、快楽主義者の私が生きたいという関心を持ちつつも、死ぬことはなお私に悪いことではないことが分かるだろう。そんなのナンセンスだという人がいるかもしれないが、それが私にとっての「悪」の意味である、悪とはあくまで苦痛が経験されてこそ悪なのである

 

※強いて言えば、将来死ぬと「知る」ことで苦痛を被ることはあるかもしれない。将来死ぬと知ることには二つの意味がある。一つは「すぐ死ぬ」と知ること、もう一つは遅かれ早かれ「いずれ死ぬ」と知ることである。

まず、すぐ死ぬからといって、すぐ死ぬことを知る必要はない。突然の事故や暗殺により、知らずして死ぬこともありうる。だからすぐ死ぬこと(による苦痛)と、すぐ死ぬと知ること(による苦痛)は全くの別物で、後者はあっても前者はないと考える。

対して、いずれ死ぬと知ることは、いずれ死ぬこととは切り離せないだろう。いずれ死ぬことは確定している以上、いずれ死ぬと知ることは避けられない。したがって、いずれ死ぬと知ることによる苦痛を、いずれ死ぬことによる苦痛に含めて考えるのもおかしくはない。ただ、この苦痛は無視できるほど微々たるものである

 

5.一つ目の意味で、死は悪くないことの説明

 

さて、先ほど述べたように、仮に二つ目の意味で死が悪くないとしても、一つ目の意味で死が悪くないとは限らない。その議論を以下に述べる。

 

5-1.Deprivation account

快楽主義の仮定から、次を述べていいように一見思われる。

1.快楽は常に善であり、善の度合いは快楽の量に一致する。苦痛は常に悪であり、悪の度合いは苦痛の量に一致する。

 

次に、

2.私の人生が全期間を通じて快楽で満たされていると仮定する

すると、

3.2.より、s<tとすると、時点sで死ぬ場合、時点tで死ぬ場合に比べて私が経験する快楽は減る。

したがって、

4.時点sで死ぬことは、時点tで死ぬよりも、結果として相対的に悪いことである。

 

要するに、2.を仮定すればの話だが、時点sで早めに死ぬことは、時点tまで生きれば得たであろう快楽の善を「奪う」がゆえに、より悪いというのである。これは死の悪さに対する「剥奪による説明(deprivation account)」と呼ばれる。

 

5-2.Deprivation accountの仮定に対する反論

もっともらしい説明である。しかし、少し違和感がある。時点sからtまでの快楽の善が「奪われた」というが、いったい誰から奪われたのだろうか。私が時点でsで死んでしまうと、時点sからtまでの快楽を経験したかもしれない主体の私すらいないのである。被害者不在の剥奪というのは、果たして悪いことなのだろうか、そうは思えない

あと、もしこの説明を受け入れると、より多くの快楽を経験するためにより長く生きるべきということになる。しかしこれは逆であって、より長く生きるからこそ、より多くの快楽を我々は必要とするのではないだろうか。生の器があるからこそ、それが快楽で満たされるのが望ましいのであって、より多くの快楽を満たすために、大きい(長い)生の器を用意するというのは本末転倒ではないだろうか。

では上記の議論のどこがおかしいのだろうか。1以降の推論は私も正しいと思う、したがって私は1.そのものがおかしいのではないかと思っている。

快楽は本当にどのような場合も善いものなのだろうか。快楽を経験する主体が存在しない限り、善くはないものではないだろうか

例えば、仮に実際には私がいなかったとしよう。その場合、私が快楽を経験しているという仮想的な事態は善くも悪くもないはずである、その人にとって善いまたは悪いと言えるところの私が存在しないからである。

同様のことは、私の死についても言えると思われる。実際に時点sで私が死んでしまったとしよう。その状況を基準にすれば、時点tでもし私が生きていれば経験したであろう快楽になど、何の価値もないのではないだろうか

※対して、基準を変えれば、つまり時点tで私が生きている状況を基準にすれば、時点tまでに私が経験した快楽は価値のあるものである。どの状況を基準に考えるかによって、ものごとの善しあしは変わるのである。

 

5-3.議論の修正

以上を踏まえると、1.は次のように訂正される。

1’.時点tの(私が経験したであろう)快楽は、私が時点tで実際に生存する場合に限って善いものである。その場合、善の度合いは快楽の量に一致する。苦痛は常に悪であり、悪の度合いは苦痛の量に一致する。

そうすると、もし実際に私が時点sで死ぬ場合2.を仮定して3.が成り立っても、4は成り立たない。なぜならば、死んだs以降の快楽は善ではないからである。

4’.時点sで死ぬことは、時点tで死ぬよりも悪いことではない。

 

※以上は、実際にWs:私が時点sで死ぬ場合を基準とした場合の比較で、実際にWt:私が時点tで死ぬ場合を基準にすれば、Ws:時点sで死ぬことはWt:時点tで死ぬことより悪いではないか、と反論されるだろう。もちろんそうである。

しかし、事態WtがWsよりも善いと言えるためには、Wsを基準にしてもなお、Wtが善いと言える理由がなければならないのではないだろうか。そうでなければ、Wsでも構わないことになってしまい、WtがWsよりも善いとはいえない。

ゆえに、事態WtはWsより善いとは言えない。つまり、仮に人生が快楽で満たされていても、遅く死ぬことは、早く死ぬよりも善いとは言えないのである。

 

長くなったが、以上より一つ目の意味でも死が私にとって悪くないことが示された。

 

6.まとめ

私にとって、死はそれ自体として悪いわけではないし、より早く死ぬことが遅く死ぬより比較的に悪いわけでも無い。したがって、私にとって死ぬべきでない理由は無いことになる。では逆に死ぬべき理由はあるかと聞かれると、(議論は割愛するが)あると答えるだろう。つまり、合理的に言えば、私は自殺をするのが最善なのである。

にも関わらずそれを先延ばしにしているのは、偏に私の不合理性ゆえだろう。人生はやめてしまったほうがマシだが、それでもやめられないものである、というのが私の死生観である