反出生主義の試論2

私は反出生主義として、子供を生むことは道徳的に悪いことだと主張してきた。対して、当記事では、子供を生むことが不当であることを示したいと思う。

 

1.生きる努力について

世の人は当たり前のように、自分にとって最善の結果をもたらすための努力ができる。彼らは例えば自分自身のコンディションを維持するために、体の手入れや適度な運動を欠かさず行うことができるし、放置すると余計に面倒になる行政の手続きを面倒くさがらずに行うことができる。また彼らは生活のためには大変な仕事ですら平然とやってのける。これらに共通するのは、長期的な利益のために、意に反して嫌なことをする努力ができるという点である、私はこれを生きる努力と呼びたい

 

しかし私は、大人になった今でも総合的に見ていい結果をもたらすことでも、面倒くさくてできないことが多い。そのため、親にはこの歳になってもやるべきことをやれと注意されることが多い。私はそういう時いつも思うのである、嫌なことを避けて通れればどれだけよかったと。そして、嫌なことを避けてはろくな人生が歩めない人生の仕様がいかに理不尽なものかと。

 

2.生きる努力と生の善さについて

ところで、世間の人は、大半の人の人生は全般的に見て善いものだと考えているように見受けられる。彼らは特段の厭世的思考に陥っていないし、子供を生む際も、生むのを躊躇しないほどには子供が幸せになると信じて疑わないのである。確かに彼らの言う通りなのかもしれない。実際、生まれないほうが良かったと嘆く人はごく少数であり、最近の世論調査からわかるように大半の人は生活に満足しているのである。

 

しかし彼らの善い人生は、彼ら自身の不断の生きる努力で勝ち取られていることも忘れてはいけないだろう。もし彼らが上述の「生きる努力」を怠る場合は、彼らはろくな人生を送れないことに、世の人も同意するだろう。それどころではない。生きる努力の中でも最たるもの、仕事をしなければ生きることすらかなわないだろう。もしくは、生きる努力を拒むために自殺をするという究極の選択肢も一応ある。これらは悲惨な生を送るよりも悲惨な顛末であるように思われる。

だからこそ親たちは、躾を通じて「生きる努力」ができる「大人」に育て上げようと試みるのである。

 

ゆえに、人生は生きる努力を行って善き生を手に入れるか、努力をせずに悲惨な人生を送るか(もしくは自殺するか)の二択である。とはいえ、多大な苦痛を代償とするため、後者を選ぶ自由は実質上無いも同然であり、努力をなんとかして行おうとする前者以外の選択肢は実質的に無い。つまり、嫌な努力を強いられているといえる。

 

3.生きる努力が強いられる人生の不当性

さて、生きる努力を強いられることは理不尽だと私は考える。全体的に利益になるからといって、なぜわざわざ毎日風呂に入って歯を磨き、身だしなみを整えなければならないのだろうか。なぜ生活のために仕事をすることを強いられなければならないのだろうか等々、様々な不満がある。果たして私の主張は正しいのだろうか。

 

これまで述べた人生の仕様は例えば次のようにモデル化できる。

 

a.生きる努力(100の苦痛=コスト)の労を払えば、200の喜びに満たされた人生を送ることができる。(人生は全般的に善いものと仮定しているため、喜びのほうが大きいとする)

b.生きる努力をしなければ200の苦痛に満たされた人生を送る(もしくは自殺する)ことになる

c.以上a.b.は生まれる人の同意なく、生まれる人に強いられる

 

まず、上で言ったように、b.にもかかわらず、大きい苦痛200は避けなければならないため、実質的に生きる努力をしない選択肢はない。だから、①を強いることは②を強いることと等価である。

 

a'.生きる努力(100の苦痛=コスト)をせざるを得ず、その代わり200の喜びに満たされた人生を送ることができる。

c. a'.は生まれる人の同意なく、生まれる人に強いられる

 

この事態は不当だと言えるだろうか。a'では苦痛を上回る喜びが保証されていると仮定している。だからこれは不当どころか恵まれたことだと多くの人が主張したくなるに違いない。しかし、話はそう単純ではない。これには二つの理由がある。

 

3-1.(努力しない)自由の剥奪

まず、相当の努力が強制されているという点に注意すべきである。②と次の場合③とを比較をしてみよう。

 

a''.(生きる努力をするもしないも自由だが)必ず100の苦しみと200の喜びに満たされた人生を送ることになる

c. a''.は生まれる人の同意なく、生まれる人に強いられる

②と③で結果的に被る苦しみと喜びはともに同じだが、③は生きる努力をするかしないかの自由がある。その分、③のほうが②よりマシだと考える人は多いだろう。意に反して生きる努力をしない自由が奪われているという点で②は③に比べて悪いのである。

さらに、②は③より悪い以前に、それ自体として不当であるとも主張できる。(意に反することを)何もしない自由は、数ある自由の中でも最も基本的なものである。なるほど、何か義務がある場合、この自由は正当に制限されることにはなる。しかし、生まれる前に何か悪いことをしたわけでもないのに、なぜ労働の義務等に縛られ、自由が生まれつき損なわれなければならないのだろうか。少なくとも私には正当な理由が思い当たらない。

 

3-2.苦痛の強制

次に、苦痛を与える悪が、喜びを与える善で相殺できるとは限らない。もし両者が互いに同じ量で相殺されるとしたら、③を強いることは④を強いることと等価である。

 

a'''.(生きる努力をするもしないも自由だが)必ず100の喜びに満たされた人生を送ることになる。

c. a'''.は生まれる人の同意なく、生まれる人に強いられる 

しかし、喜びから苦痛を差し引いた値が同じでも、苦痛のない④を強いることのほうが③を強いることよりも善いと同意する人は多いだろう。同じ量の喜びを同時に与えるだけでは、苦痛を与えることは不当なのである。したがって、200の喜びを与えるからと言って、100の苦痛を与えることが正当とは限らない。

 

※それだけではなく、私はさらに、いくら多くの純粋な喜びを与えたからといって、苦痛を強いることは許されないと考える。つまり、同時に与える喜びが1000だろうと、10000だろうと、100の苦痛を強いる不当を正当化する理由にならないということである。

確かに、同意がなくとも、十分な利益を与えれば苦痛を与えることが正当化されることはある。例えば火災現場で瓦礫に腕がはさまって、しかも意識を失っている人がいるとする。腕を切除することが、彼を助ける唯一の方法だとすると、同意を得ずにそうすることは不当ではないだろう。また、子供に対する躾も、それ自体としては子供にとって苦痛である、しかし将来のことを考えればそれ以上の利益があるから正当化される。だが、以上の例における利益はいずれも、(火災で命を落とすだとか、大人になって困るだとか)より大きな苦痛あるいは損失を避けるという消極的なものである。

対して、例えば、より優れた身体能力を得られたり、より長い寿命を得られるといった純粋な利益の代償として、少しの苦痛を伴う薬物の注射を同意なく行うことはやはり不当なのである。喜びというのも、同様に純粋な利益に違いないのであり、そのために苦痛を強いることは同様に許されないのである。

 

4.3.のまとめ

さて、以上の議論の結果をまとめよう。

まず、不当ではないと確実に言える事態は④のみである。私は、③は④と比べて悪いだけではなく、※にて③が不当であるという議論も示した。

そして、②は③よりさらに悪い。しかも、②は、自由が損なわれているという理由で、比較によるまでもなく不当であるといえる。

以上の理由により②(①)の事態は(本人がそう考えているとしても)恵まれているとは限らず、むしろ不当な事態であると言える。

 

5.人生のリスク

以上では、仮に生きる努力をすればそれを上回る恩恵が得られると前提しても、その努力を強いられることが不当であると論じた。しかし、実際はそのように楽観的な前提は成立せず、努力がもともとできないもしくは、努力が報われないことは往々にしてある。生きる努力と同時に、生きる努力が報われないリスクも強いられることは、ただでさえ理不尽な人生をさらに理不尽にする。

 

6.最後に

人生の理不尽は押し売りの不当性になぞらえることができる。仮に押し売られた側が結果的に満足しても、押し売りが不当なのは1)コストを強いるから、2)買わない自由を侵害するから 3)買わされた側が満足しないリスクを強いるからである。1)は③の不当性、2)は②の不当性に対応しているだろう。3)は、5.で述べた人生のリスクに対応していると考えられる。

子供を生むことは、生きる努力の対価と引き換えに人生を押し売られた被害者を生み出すことであり、押し売りと同様に不当であると私は主張する。