反出生主義の試論

1.出産することと、しないことの比較の特殊性

私が好物を食べることと、苦手な食べ物を食べることでは前者のほうが後者よりも望ましい。いうまでもなく、この比較関係は私が実際に好物を食べることになった場合も、苦手な食べ物を食べることとなった場合も変わらない。これが普通の場合である。

 

しかし、出産は特別なケースである。例えば、極端に不幸な子供が生まれることと、そもそも誰も生まれないことのどちらが望ましいだろうか。実際に極端に不幸な子供が生まれた場合、そもそも彼が生まれてこない事態のほうがましだったと言える。しかし、実際に子供が生まれない場合、生まれてくるはずだった子供そのものの利害がないのだから、彼が生まれなかったほうが良かったとする理由もなくなるのではないだろうか。

出産の場合、子供が生まれる場合は生まれる子供の利害を考慮してものの良しあしを決めなければならないが、子供が生まれない場合は彼の利害を考慮する必要がないため、双方の場合で良しあしを決める基準が異なるのである。

以上を一般化すると、事態AとBのどちらが起こるかによって、AとBのどちらが望ましいかが変わってしまうわけである。未だA(子供が生まれる)かB(子供が生まれない)のどちらが起こるか決まっていない場合(子供を生むか否か迷っている場合)、AがBよりも善いといえるのはどういう場合だろうか。

 

2.私が考える比較の基準

私は次のように考える。AがBよりも善い(BがAよりも悪い)ということは、仮にAが起こるとした場合、AよりもBのほうが善かったとする不満がなく(考え直す理由がない)、仮にBが起こるとした場合に、BよりもAのほうが善かったとする不満がある(考え直す理由がある)ということではないだろうか。

もし、AとBのどちらが起こるか決めることのできる人がいたとすると、彼はBを選択するやいなや不満を覚え、Aを選択しなおし、Aで満足するのである。 これこそが、AがBよりも善いことの特徴づけではないだろうか。

これはすなわち次を意味する。

α:事態AがBよりも善い⇔・仮にAが起こった場合、BがAよりも望ましいわけではない かつ ・仮にBが起こった場合、AがBよりも望ましい

 

3.反論および再反論

これに対して、次のように異議を唱える人がいるだろう。「上の考え方では不満を基準に考えているが、喜びを基準に考えるべきである。つまり、AがBよりも善いというのは、Aが起こった場合に、BよりもAで良かったと喜び、Bが起こった場合は、Bで良かったという喜びが無いということである」と。まとめると次のとおりである。

β:事態AがBよりも善い⇔・仮にAが起こった場合、AはBよりも望ましい かつ ・仮にBが起こった場合、BがAよりも望ましいわけではない

なるほど、Aが実際に起こった時に、Aで善かったと考えることは「AがBよりも善い」ことの積極的な特徴づけではあるかもしれない。しかし、後者、つまりBが起こった場合、単にBで善かったという喜びがないだけで、Bに対する不満がない(満足してしまっている)ことは、「AがBよりも善い」とはもはや言えないのではないだろうか。βは基準としては不適切である。

 

もし彼らの言い分を譲歩して、前者のみ受け入れるとすると、次の基準が考えられる。

β’:事態AがBよりも善い⇔・仮にAが起こった場合、AはBよりも望ましい かつ ・仮にBが起こった場合、AがBよりも望ましい⇔AはBよりも常に望ましい

これはシンプルで魅力的な基準である。しかし私は、これは出生をめぐる価値判断にはそぐわないと思う。以下に理由を示す。

仮に、子供を生むと、先天的に極端な苦痛を伴う障害を持って生まれることが決まっているとする。ほとんどの人が、この子供が生まれないことが、生まれることよりも善いことだと認めるだろう。しかし、仮にこの子供が生まれないとした場合、この子供の利害が存在しなくなるのだから、子供が生まれないことが生まれるよりも望ましいことにはならない。したがって、β’によれば、この子供が生まれないことが、生まれることよりも善いことではなくなるのである。これは背理である。

したがって、私は出生をめぐる価値判断には、β’よりもαの基準を採用すべきだと考える。

 

4.反出生主義の導出

もしαの基準を採用する場合、極端に不幸な子供が生まれないことは、生まれることに比べて善いことである。もし仮に生まれなかった場合、生まれたほうが良いわけではないし、もし仮に生まれる場合は、生まれなかったほうがマシだったからである。

では逆に極端に幸福な子供が生まれることは、生まれないことに比べて善いことだろうか。もし仮に生まれた場合は、確かに生まれなかったほうがいい理由はない。しかし、もし仮に生まれなかった場合は、この子が生まれるべき理由はないのである。したがって、極端に幸福であっても、子供が生まれることは生まれないことに比べて善いことではない。

以上から、αを採用すれば、不幸な子供が生まれることは、子供が生まれないよりも悪いことであるのに対して、幸福な子供が生まれることは、生まれないよりも決して善いことではないといえる。したがって、

γ:子供を生むことは悪いことになる場合はあれ、善いことになることはない

という反出生主義の結論が導かれる。

 

※4の推論に対して論点先取を指摘する人は多いだろう。つまり、結論である反出生主義γは、幸福の存在よりも、不幸が無いことを善しとする否定的な立場であり、前提であるαも、満足の有ることよりも不満が無いことを善しとする否定的な立場であるからだ。

私も前提に結論に類するものが含まれていることは否定しない。しかし、不人気な反出生主義の主張γよりも、αのほうを受け入れる人が多いので、4の議論には価値があるものだと思っている。

 

5.以前に述べた反出生主義との比較

私は一年前、以下の記事でも反出生主義の立場を表明した。

私の反出生主義について - 思考の断片

しかし今回の主張は、上の記事で述べた主張とは前提が異なるものである。

上の記事で述べた主張をより明晰に表現することで、両者の相違点を明らかにしたい。

 

まず、出生と非出生の比較の基準として、β’を採用する。

次に、価値判断の前提として、1.子供が幸福になることと(一定の範囲内で)不幸になることは、子供が実際に生まれる場合にのみ、望ましいもしくは悪いことであるとしよう。(これは誰もが受け入れることであろう。)

最後に、2.子供が一定以上の水準で不幸になることは、(子供が実際に生まれることがない場合でも)常に悪いことであるとしよう。

以上の前提から反出生主義が導かれる。

 

β’より、出生することがしないよりも望ましい(悪い)のは、仮に生まれたとしても、生まれなかった場合も、出生が望ましい(悪い)ときに限られる。すると、1.より子供が生まれなかった場合は子供の利害が存在しない以上、幸福な子供の出生は望ましいことではないため、幸福な子供が生まれることは生まれないことに比べて善くはない。

対して、上の記事では、2.一定以上の不幸については、(子供が仮に生まれない場合も)絶対にあってはならないとする価値判断を仮定している。子供が一定水準以上に不幸になる場合は、子供が生まれた場合も、生まれなかった場合も、そもそも子供が生まれないのが望ましいと主張でき、β’より、一定水準以上に不幸な子供が生まれることは、生まれないことよりも悪いことである、と主張することが出来る。

以上より、幸福な子供が生まれることは善いことではないが、一定以上に不幸な子供が生まれることは悪いことであるとする反出生主義の主張が導出される。

 

対して、今回述べた反出生主義では、比較の基準としてαを採用し、また1.のみを仮定している。(2.は仮定していない)これらが両者の相違点である。

 

6.最後に

もし、不満なきことを善しとするαの基準をネガティブすぎるとして今回述べた反出生主義の議論を拒絶する人がいても、代わりにシンプルで同意の得られやすいβ’を勧め、価値判断2.について説得を試みることができるだろう。

では、2.にはいかほどの根拠があるだろうか。有力なものとしては、一定以上の不幸は人の尊厳を損なうものであり、人の尊厳は無条件で尊重されるべきであるとする主張が考えられる。仮にそういう人間が実在しなくとも、人間が拷問で苦しめられる事態が悪いことに変わりはない。それは、実際には存在しない人間の利害に反するからではない、実在しない人間のものであっても、尊厳が踏みにじられることは断じてあってはならないからである。

私としては、基準αを擁護するのと、価値判断2.を擁護するのと、二段構えで反出生主義を展開していきたいところである。