実践の世界と理論の世界

1.実践の世界と理論の世界

これから、以下の記事で紹介した概念(第一次、二次現実)を再定義してみようと思う。

知的反省 - 思考の断片

 

我々の経験する世界は単層的なものではなく、抽象度の階梯のある多層的なものだとお思う。例えば、食べ物を食べたり他人と喋ったりする具体的経験は、数学におけるような抽象的な思考とは異質である。まず、前者と後者を、実践の世界と理論の世界と定義して、多少の説明を加えたい。

 

実践の世界は、その名の通り、生活や仕事などの日常において経験される具体的現実である。その内容は、いつ何を食べただとか、いつまで何をしなければならないだとか、他愛もないことである。世の大半の人はほとんどの時間はこの世界に生きている。彼らは具体的な生活や仕事の現場で何が起きるかに興味があるのであり、抽象的な真理がどうであろうとどうでもいいのである。

しかし、実践の世界でよく生きるためには、そこだけに留まっているわけにはいかない。なぜなら、実践をうまくこなすためには、毎度その場限りで考えなしに行動するよりも、過去の経験から学びそれを活かしたほうがよく、そのためには現実をモデル化(概念に抽象化)し、帰納により様々な規則性を発見する必要があるからである。このような実践的要請から生まれたのが、抽象的な概念や一般法則から成る理論の世界である。

※理論の世界と言っても、ことわざのような日常のちょっとした知恵から、厳密な科学理論にいたるまで、幅広い抽象度の事物を意味するものとして定義する。

 

世の人は、この理論の世界の一般法則を実践における個別的な事例に適用(演繹)することで、理論の世界で得た成果を実践の世界に還元するのである。このように、彼らは実践の世界に住みながらも、時々理論の世界に出稼ぎしては帰って行っているのである。

 

2.実践の世界と理論の世界の相違点

以上に定義した実践の世界と理論の世界は、抽象度以外においても様々な相違点を持っている。

 

まず、実践の世界は何もかもが未知である。例えば、生活や仕事で出くわすどんな課題も新しく、予期不能な側面を備えている。対して理論の世界の登場人物は、全て既知の抽象概念である。

 

実践の世界の未知なるものの最たるものが、即ち他者である。我々にとって他者は想像の域を出ないブラックボックスであり、このように他者を完全に知り尽くしていないためにこそ、他者とのコミュニケーションは成り立つ。

対して、我々の思考の中にある理論の世界の中には、この他者というのが登場しない。なんとなればすべてが「私が考える」概念に過ぎないからである。理論の世界はこのように他者不在の世界である。

 

実践の世界は絶えず未知で新しいものが出てくるがゆえに、常に例外であふれており、一括りにはできない難しさがある。いくら過去の傾向を帰納法により一般化できても、その一般化は過去に対して成り立つにすぎず、将来にわたっても同じ傾向が成り立つというのは信念の域を出ない。対する理論の世界では、ナマの現実ではなく、抽象され理想化されたモデルを扱うがゆえに、普遍的な原理で全てが説明できる。理論家が理論を美的に好むのは、この普遍性や煩いの無さがゆえだろう。

 

最後に、実践の世界に関する思考は(多くの個別的なケースから一般法則を推測する)帰納思考であるのに対して、理論の世界に関する思考は(一つの原理から多くの帰結を導く)演繹思考である。前者は絶えず新しいことを発見する思考である、対して後者は原理で言いつくされたことを言い換えるに過ぎない思考である。

 

 

3.両方の世界に対する私の態度 

はっきりいって、私は実践の世界を軽蔑している。つまり、私がいつ何を食べるかだとか、誰と喋るかとか言ったことは、知的価値のない個別的な些事に過ぎず、顧慮に値しないと考えているのである。理論の世界に存在する普遍的な真善美にこそ価値はあると考えており、だからこそ真善美に触れ、時には一体化する観照という活動を好んでいるのである。

 

また、私は実践の世界を不快な場所だと思っている。そこは確かに新しい刺激に溢れているところではあるが、未知に対する不安で一杯でもある。また、何を考えるにも例外に溢れていて、思考が心地よくない。雑多な事実や例外と格闘する泥臭い帰納よりも、数学の証明のようにエレガントな演繹思考を私は好むのである。

 

上記の理由により、理論の世界を棲家にしてしまったようである。世の人とは正反対に、理論の世界で観照的な思考に耽るのが目的となり、そのために必要な時間や資源を獲得するために、仕方がなく実践の世界に赴き、生活や仕事を嫌々こなしている次第である。

 

 

4.3.の帰結、その問題点

さて、理論の世界を棲家としてしまったことの帰結は次のとおりである。

 

まず何よりも、他者不在の世界を棲家としてしまったため、独我論が私の思考基盤になってしまったことが影響として挙げられる。他者の存在はあくまで実践の世界で生きるために仕方がなく要請された信仰の域を超えないものとなってしまった。世の人がそうであろうように他者の存在は当たり前の出発点ではなく、別世界で生きる際の約束事に成り下がってしまったのである。

※この独我論を背景に、私は生の善さに関する主観主義(mental state theory)や、(客観的な存在を否定する)諸々の反実在論の立場を取っているものと思われる。

 

次に、私は退屈にさいなまれるようになってしまった。なぜだろうか。それは、理論の世界には既知のものしかなく、そこでの思考(演繹)も何ら目新しいものを生み出さないからである(数学は例外だが)。変化がなければ新たな思考が刺激されることもなく、既知の物事と、決まった真理だけの世界は静的であり、退屈である。

 

私は、二点目の退屈は問題視しているが、一点目の独我論そのものは問題視していない、しかし「私だけがいる→私が正しいと思えば正しい」というような思考停止に陥ることは、退屈にもつながるのではないかと懸念している。

したがって、理論の世界を棲家にしてしまったことは仕方がないとしても、もっと実践の現場に前向きに赴き、日常や他者との会話等から新たなコンテンツを持ち帰ることで、(私の)理論の世界を豊かにしようと思うのである。