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観照的に散歩すること

私はツイッターでは「観照的散歩家」というハンドルネームを用いている。この記事では、この造語の意味するところを説明したいと思う。

 

1.「散歩」について

散歩とは、刹那的な趣きに基づく遊びのことである。つまり、目的による作為によるところなく、それが自然だからこそ行われるような活動を指す。私は、人は誰しも、他のものに阻害されなければ従うような本性あるいは自然(nature)を、各々が有していると考える。この自然に従い為される活動を名付けて、散歩と呼ぶのである。

 

2.「散歩」と目的を持った活動との二項対立

散歩に対立する概念は、目的を持った活動である。この典型が、目的地への最短距離、最短時間による移動である。このような目的地に到達するための手段となっては、結果ばかりが問題とされ、過程はないがしろにされがちである。例えば、本来ならば、周りの景色を眺めながら回り道をゆったり歩きたいところ、殺風景な一直線を走ることになりかねない。

目的を持った活動全般についても同じことが言える。本来は自分がしたいような仕方でしていたであろう活動に対し、合理的だが必ずしも意にそぐわない方法で取り組むことを、目的は強いるのである。

ここで、散歩は自由、つまり己の自然に由る活動であるのに対して、目的を有する活動は、活動の外部の目的に強いられたもの、つまり他律的で不自由なものだということができる。

また、散歩はそれ自身が目的として行われるが、他の目的のためになされる活動は単なる手段に過ぎない。したがって、散歩はそれ自体善い活動であるのに対して、手段的な活動の価値は、外的な目的の価値から派生した借り物に過ぎない。それはどこまでも外在的、非本質的な善に過ぎないのである。 

他の目的に従属した活動は不自由であり、その善さもどこまでも第二義的である。対して私が「散歩」と呼ぶ活動こそが、自由と善を兼ね備える。

 

3.善は唯一「散歩」のような活動の内にある

善は、経験されずして善くあることは不可能である。どんなに素晴らしい芸術作品があったとしても、誰もそれに触れることがなければ、その芸術の素晴らしさはないも同然だ。
従って、善は、(金銀財宝などのような)モノ自体の中に存在せず、(財貨の恩恵を享受するような)経験をすることの内にある。この経験も、受動的な知覚と能動的な活動にわかれるが、前者の場合、善が経験の内にあってもその原因はあくまで外部にある。その原因とともに善が内在するのは、活動以外にはない。

従って、先に述べたことから、とくに、散歩のような活動にこそ善は唯一内在する

 

4.観照は、「散歩」の一種である。

よく生きること(その2) - 思考の断片

観照という活動については上の記事で述べた。そこでは様々な特徴づけをしたが、観照とは、自分と対象の境目がなくなるほど美や知に没頭する経験のことを指す。そこには自分と対象を分かつなんの利害関心や目的意識もなく、自分が物自体や美そのものと一体となり遊び踊っているのである。これも、「散歩」の一種と言えるだろう。

 

5.私は、善く生きたいと常々思っているが、そのためには3.より「散歩」のごとく人生を歩むのがいいと考える。この散歩の形態にもいろいろあるだろうが、私の場合は実利を忘れて観照的活動に興じることが一番楽しく面白く、本性に合っているようである。

 

6.以上に述べた考え方は、アリストテレスの影響によるものだと思っている。「人間にとって善とは、生涯を通じての魂の最高の最も優れた活動である」という名言の通り、彼も善や幸福を活動のうちに、そしてもっぱら観照的な活動のうちに認めている。「観照的」に散歩するのだ、とする私のスタンスも、彼に大きく影響されたものだと思う。