読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

私の独我論について

我々は、他者の存在を信じて疑わない。確かに身体という物体としては、他人の存在は疑いようもなく知覚される。ただ、我々は単に物体としてではなく、意識を持ち経験をする者としても他人の存在を信じる。

しかし、経験する他者や他者の経験は、経験の中に見出されない。我々が他者の経験という場合、それは単なる自分の想像に過ぎず、他人ではなく自分の経験だからだ。しかし、自分と同じく、しかし別個に意識を持った「他者」の存在を我々は信じて疑わない。疑いえるにもかかわらず。

 

1.なぜそのような非経験の存在を信じて敢えて疑わないのか、そこには敢えて疑わないような理由があってしかるべきだろう。以下で自分なりの説明を与えようと思う。 

 

まず、我々は社会的動物として、人間関係の中に生きようとする存在である。人間関係とは、人と人との対等な関係であるから、自分と同じく意識を持ち、経験する主体としての「他者」との関係である。もし相手が身体という単なる対象に過ぎないのなら、相手は一方的に利用されるだけのモノも同然だろう。互いに、相手に自分と同等の存在資格(主体性)を認め、自分自身と同様に尊重するような関係こそが人間を規定する。

このように、「他者」と尊重しあって関わりたいという社会的欲求には他に何の目的もなく、それ自体が目的である。その理由をあえて言うならば、我々が人間としてそう欲するようにできているからとしか言いようがない。食べ物や水を欲するのと同じくらい、この意欲は基本的なものである。

 

ところで、この人間関係を持つには、上に述べたような「他者」が存在しなければならない。言うまでもなく、関係するためには相手が必要だからである。そして、人間として関係したいという意欲は根本的であるから、「他者」に存在して欲しいという強い要請が生じる。しかし、「他者」なるものは経験の中に見出されない、従って「他者」を措定して一から作り出す必要があり、実際に我々は互いを措定しつつ社会生活を行っているのである。

※措定とは、実際には存在しないものの概念を形成し、それがあると信じる(あるかのような実践的態度をとる)ことである。例えば神を信仰し措定する者は、存在しない神がいるかのように律法を守って生きる。

 

この「他者」という存在は、確かに指示対象が経験の中にない概念に過ぎない。目の前にあるリンゴとは異なり、その存在は空虚である。しかし、我々が人間として生きたい以上、「他者」に存在してもらわないと困るのであり、敢えて疑うことをしようとは思えないのである。このように、「他者」は決して目の前のリンゴのような、客観的な確実性を備えているわけではないが、人間として生きたい我々にとって、主観的には確実この上なく、それゆえに強い実在性を備えているのである。

 

2.以上に述べたのは、私の独我論に関する立場そのものである。

①一方で、私は自分以外の他者の経験が存在することを認めない。あるのは、(本来は他がないのだから「自分の」と限定されるまでもない、)この唯一の経験である。我々が考える他人の経験も結局自分の想像に過ぎず、私の経験とは別の次元に展開される他者の経験というものは、無いのである。

②他方で、私は自分以外に、経験する他者の存在を信じて社会生活を送っている。それは以上に述べたような理由で他者を措定せずにはいられないからである。

 

ここで、①と②の両者が矛盾してはいまいかという疑念が生じるかもしれない

しかし、not①:他者が実際に存在すると考えることと、②他者の存在を信じることとは別である。前者は他者の存在を真だ(経験できる)とする命題的態度だが、後者は他者のことを慮って行動をするような実践的態度を意味するからである。他者が経験されないという立場を取る以上、他者が存在するという偽の命題を肯定するのは矛盾するが、その存在しない他者を尊重してふるまうことは無意味ではない。それは、他者の存在を否定するよりも有意義な生き方だから、我々が好んでとるものである。①と②は両立するのである。

これは、子供の行う人形遊びに似ている。彼は、①'人形に人格が無いと承知しながらも、②'人格があるかのように人形を扱う。なぜか、それは人格があると思った方が楽しいからである。

ただ、傍から見ればこの子供の遊びは滑稽に思えるだろう。彼が必死に人形の気持ちになりきっているにも関わらず、その人形の気持ちは実際には存在しないのだから。つまり、事実に反することがあたかも成り立つかのような前提で行われる実践は、滑稽あるいは不合理なのである。

存在しない他者との関係の中に生きることも同じく滑稽である。しかし人形遊びに熱中する子供のように、その滑稽さにも増して「人間関係ごっこ」にはやりがいがあるのだから、それをやめる理由は無いのである。

 

私は、①の立場を取る点で、無いものを在ると思い込む不誠実を犯していない。そして、②のとおり他者を信仰することで、①の(理論的)独我論が自らの社会性を損なうのを防いでいる。これにより、知的な誠実性と、自身の意欲に対する誠実性を矛盾なく両立出来ていると考えるが、皆はどう思うだろうか。