必要について

我々の人生は必要なことで一杯である。基本的な衣食住を必要とするだけではなく、我々を実存的に支える友人、恋人や家族であるとか、時に人生の意味をも必要とする。

(金銭で計れるものに限っても)これらの必要がいかに巨大であるかは、一般的な生涯賃金が少なくとも2億円を超えることを見ればわかるだろう。稼ぎのすべてが必要を賄うために生活費として用いられるわけではないにしろ、我々の日常的な必要は、巨額な負債となってのしかかってくるのである。我々は必死に働いてこの負債をローンで返済する債務者に等しい。

 

1.まず、このような必要が害悪であり、無いに越したことはないと主張しよう。 

 ・必要とすることは、必要とする本人にとって悪である

何かを必要とすることは、それが無い事態に対する絶対的な否定である。つまり、それが無いことが、端的に悪いということである。だが逆に、その何かが存在することは端的に善いというわけではない。その何かがあっても、単に無い場合に比べて相対的に良いに過ぎない。例えばある人が食べ物が「必要である」という場合、その人が食べ物の無いことを避けたいことを意味するにすぎず、食べ物があることが素晴らしいと言っているわけではない。

ゆえに、何かを必要としても、それを得られない苦しみの可能性が生じるだけである。それが得られた場合も、消極的なメリット(苦しみが回避される)があるだけで、何も得るものがないからだ。したがって、何かを必要とすることは本人にとって端的に悪いことである。

 

また、何かを必要とするとは、それなしで済ませられないことだから、すなわちそれを得るために行動せざるをえないことである。しかも、それが欲しいという自発的な意志のためではなく、それが無ければ酷い目に遭うという理由で、行動を強いられるのである。したがって、必要に迫られることは、明らかな不自由である。

 

他者を必要とすることは、その人を手段として見なすことである

誰かを必要とすることは、その人を目的として求めることではなく、その人がいないと困るから、彼を用いて埋め合わせることに他ならない。

例えば仕事で誰かを必要とする時、その人を人として求めているわけではない。あくまで、助けが無くて自分の仕事がうまくいかないという事態を、その誰かを利用して回避しようとしているに過ぎない。

したがって、誰かを必要とすることはその人を手段としてみなすことであり、それは人間の尊厳に対する一種の冒涜である。なぜなら、人間を目的として尊重することが、全て倫理の基礎だからである。

 

2.何事も必要としないに越したことは無いとする態度は、無欲で消極的な態度であるように思えるが、両者は全く異なる態度である。以下では、必要とすることと欲することが、全く別の態度であることを示す

 

何かを必要とすることは、その何かが無い事態を避けようとすることだったが、何かを欲するということは、それを目的として直接追求することである。

したがって、欲することのほうが、必要とすることに比べて肯定的な態度である。なぜなら、満たされなかった場合の苦しか伴わない否定とは異なり、欲は満たされた場合の喜びを主に伴うからである。欲するものが得られなかったとき、確かに少々否定的で残念な気分になるとはいえ、必要が満たされない場合のような甚だしい苦痛はない。

加えて、必要とすることに比べ、欲することは主体的な態度である。何かを必要することは、それが無い事態を仕方なく避けようとする態度であるのに対して、何かを欲することはその何かを自ら意志することだからである。何かを必要とすることにおいて重要なのは、それが無いことを避けるという結果である。対して、何かを欲することの本質はその態度にあり、欲するものを手に入れられるかという結果は付随的に過ぎないのである。

したがって、不自由な必要とは異なり、欲することはどちらかといえば自由な態度である。まず、外的な事物を欲するのは我々の生物としての本性である。欲するよりも、無欲でいるほうが自身の自然に逆らった不自由だろう。

また、欲することは自由を前提とする。何にも不自由していない時にこそ、欲が生まれるからである。例えば、病弱時の無気力のように、精神的・肉体的に不自由している時にまして、我々の欲が衰えることはない。自由に欲するよりも先に、まず不自由から解放されることが必要とされるのである。

 

3.したがって、何事も必要としないに越したことはなくとも、善い事物は欲するに越したことはなく、これらの態度は矛盾しない。それどころか、必要から自由になってこそ、真に何かを欲することができるのである。

例えば、ある人が病気の時鎮痛剤を欲しがるからと言って、彼が真に(自由に)鎮痛剤を欲しているわけではない。むしろ彼は、鎮痛剤を欲しがるように病気に強いられているのであり、それは欲ではなく単なる必要に過ぎないのである。このような不自由とは関係なく求めることこそが、欲すると呼ぶにふさわしいのである。