観照と実践について

よく生きること(その2) - 思考の断片

前回の記事では、善く生きることが観照的に生きることであることを述べたが、観照についての説明がごく限定的だったため、ここで数点を付け加える。

 

・観照は普遍的なものに関する。

観照は主客の境界が除去された境地のことであったが、それは主体と客体の在り様が調和してこそ初めて達成されるものである。例えば、数学的対象について観照するときは、我々自身がその思考そのものも同然となっているし、音楽を演奏するときも、我々自身が音楽として自らを奏でているも同然である。ここで、主観の側も客観の側も、より全に通ずる普遍的な在り方をしていればいるほど、相通じることができ、主客合一の境地は容易に達せられるだろう。

例えば、知的観照は卑近な生活や仕事の上で問題となる特定の個物にとらわれず、その具体的な個のうちに、全てに通ずる普遍を見出してこそ達成される。主観の側の関心も、生活や仕事上の個別的で些細な課題にとらわれず、万物に関する普遍的な問いに基づくものでなければならない。

芸術的観照が可能なのも、芸術が普遍的なものを秘めているからである。確かに芸術作品はそれ自体としては単なる特定の個物に過ぎないが、芸術的才能や審美眼に優れた人は、作品のうちに宇宙の全てを表現するイデアの如きものを見出し、イデアそのものとして光り輝くのである。実際、芸術鑑賞しているとき我々は特殊な限定性とは無縁の境地にいる。そこではいかなる個物に意識を限定されることはなく、経験は美という全体に包まれている。

 

・観照は得意とする活動による

上と同じ、主と客が調和していなければならないという理由により、観照的活動は、その人の得意とするものである。なぜなら、思考そのものになるためには、思考することに適していなければならないし、芸術的な美そのものになるためにも、美に通ずる芸術的才能や審美眼を具えていないといけないからである。

このように客体と合一するには、主体のほうが努めて客体と調和しなければならない。そのためにも、観照の境地に至ることを目的とした非観照的な努力が必要である。事物なり活動なり、何かに精通するためには、創意工夫を行って我々自身が熟練しなければならないからである。

 

・より普遍的なものを対象とし、より卓越した活動によるほど、観照は喜ばしいものとなる。

観照は私が対象と一体化して活動することであり、踊り遊ぶことである。実際、知的観照に耽っている人は、概念を身体のように自由気ままに操っているし、音楽の演奏者にとっても、楽器や曲はその人の身体そのものになったが同然である。したがって、我すなわち対象がより普遍的であればあるほど、そして観照的活動に卓越しているほど、踊りは壮大かつ巧みなものとなり、活動の喜びも増すことだろう。

同じ知的観照と言っても、限定的な真理について思索するよりも、すべてに通ずる哲理に思考をゆだね、宇宙の全てに通ずるほうが遥かに善く観照している。音楽の演奏に関しても、巧みな演奏をするほうが、拙い演奏に甘んじるよりもはるかに善い体験をもたらすだろう。

 

・観照は自由、すなわち自律の最たるものである

観照は一者が踊り遊ぶだけで、他には邪魔するものが何も無い経験である、なぜならそれはいかなる分裂や区別も含まないからだ。したがって観照は、他のいかなる目的のために強制されたものでもなければ、他のいかなる障害によって阻害されるものではなく、いかなる他律にも甘んじない。この観照者ただ独りの遊び、これ以上に自由なものはあるだろうか。

 

 

上記の観照に対立するのが、実践である。実践的活動を特徴づける最たるものは理想と現実、目的と手段の分離であり、それは両者のギャップに伴う苦と敵対を前提としている。以下では実践的活動の特徴を述べる。

 

・実践は普遍ではなく個物に関わるにすぎず、知的活動も限定的にしか行われない。

実践的な活動においては、主観側ではもっぱら特定の事態を目的とし、客観の側でも、もっぱら自分の身の回りの、特殊なものが問題となる。実際生活や仕事は、「これ」を「こう」したいという具合にもっぱら特殊で限定的なものにのみ関わる。

なぜなら、実践者が快適な生存を首尾よく実現するためには、ただ自分の身の回りのものが、自分に都合よくあってくれさえすればよく、彼にとって普遍的な概念の関係のごときはどうでもいいからである。確かに彼が、実践に応用するために普遍的な学問的知見に興味を持つこともあるだろうが、その目的はあくまで限定的な特殊の域を出ないのである。

そこでは、知性の働きも極めて限られており、対象はあくまで目的を実現するのに有用である限りにおいて、認識されるに過ぎない。例えば、文章を書くためにこのパソコンを利用するときに、パソコンという物の構成から原理までの全てを知る必要はない。目的を達成するには、ただどう操作すればどういう結果が返ってくるかという、非本質的・皮相的な理解をするだけでいいのである。

したがって、それは知的観照におけるような物自体、本質への没入には程遠く、対象との関わりはきわめて表面的である。それゆえに主客は一体とは程遠く、あくまで目的と手段の区別で両者は隔てられている。

 

・実践的活動はその卓越性ではなく必要性ゆえに行われる

実践は目的ありきである。あくまで目的が達成されることが必要であるから、手段として活動が行われるのであって、そこでは卓越性は眼中にない。実際、生活や仕事で得意なことができるのは稀有であり、大半は得意でもないことを仕方がなく行うに過ぎないのである。

 

・実践的である限り、活動は決して完全に自由たりえない

実践的活動は二つの意味で不自由である。一つは目的に従属する活動であるがゆえに、それ自体が常に手段の域を出ないからである。それは自分自身が究極的にしたいことではなく、他の目的を達成するのに必要だから行っているにすぎない。必要によりやむを得ず行われることは自由ではない。

二つ目の理由は、実践は現実が理想に近づけることでもあるが、その過程には障害がつきものだからである。自らの実践を阻害するものがある限りでそれは他律的なのであり、完全な自由には至らない。

 

上で述べたように、観照的活動と実践的活動は正反対で、観照が実践よりも貴いというのが私の立場だが、だからといって実践の全てを否定するわけではない。それは、前回述べたように、実践が観照を可能にする手段的な善でありえるからだけではなく、実践も場合によっては自由に近いものとなりえるからである。

同じ実践でも、理想と現実間の対立の力関係に、幾つもの段階がある。例えば、理想が現実的な実現不可能性に押しやられているときは、激しい苦痛や絶望を伴うものだろう。逆に、現実にめげず理想を実現しようとする意志が強ければ強いほど、両者の乖離のもたらず苦しみに増して、経験は活き活きとしたものとなるだろう。

実践は、主体的であればあるほど、それは結果よりもそれ自身の意義のために行われる度合いが強くなり、自由で喜ばしいものとなる。実際、自らの意志から行われた実践は、仮に目的が達成されなくとも、その過程に意義を伴うものである。対して嫌々行うような実践は、結果的に目的が達成された場合も、その過程は苦や虚無感で一杯であるため、結果のためにのみ行われる。

このように、同じ実践であっても、主客の力関係が前者に傾けば傾くほど、観照に近い性質を持ったものとなる。ただ、このような場合にあっても観照と実践はあくまで似て非ざるものである。後者は現実と理想の対立あってこそ可能なのであり、経験の全てが一となって初めて達成される前者と、本質的に性質が異なるものである。