よく生きること(その2)

よく生きること - 思考の断片

上の記事では、善く生きることは善く経験することであり、それは善く活動することに伴い実現されると述べた。善く活動することについては下の記事で述べたが、まず、これについてより詳しく述べたいと思う。

そもそも、善き生とは何か。また、必ずしもその継続を願うとは限らない、より直接的な理由 - 思考の断片

善く活動するとは自由に、自らの本性や能力に従い活動することである。動物的なレベルで言えば、それは身体の各々の器官がそれぞれの役割に従い動き、健康でいること、つまり動物的自由を阻害する原因がないことである。

それに伴う経験は、痛みのないこととしてしか説明できない。なぜなら健康であるときに、健康はことさら意識されるものではないからである。つまり善き経験は無ということになる。ただ、これは動物的に善く生きることの説明に限られているし、善いと呼ぶには消極的である。

 

もっと一般的な特徴づけを考えよう。善い活動とは逆に、善くは無い活動、つまりごく普通の活動や悪しき活動はどういったものだろうか。

 

生活か仕事を問わず、我々はほとんどの時間は課題に取り組んでいる、つまり理想と現実のギャップがあり、後者を前者に近づけようとしている。仕事がこの類の活動であることは言うまでもないし、生活も、快適や欲の充足という理想に、現実を近づけようとする不断の営みである。

これらの営みが行われる過程では、理想は常に未実現である。理想が現実となるのは活動の目的が達せられた一瞬に過ぎず、理想が実現するやいなや、それは再び未実現の理想でとって代わられてしまう。善き理想が常に実現途中でしかないという点で、これらは善くは無い活動とは言えないだろうか

つまり「善くはない活動」とは、理想と現実のギャップのゆえ、後者を前者に近づけようとなされる活動である。

では、善くはないどころか悪しき活動はどういうものだろうか。それは、「善くはない活動」のうちでも、現実がなかなか理想に近づけられず、理想と現実のギャップに苦しめられ続けるような活動だろう。仕事や生活がうまくいっていない時などがそれである。

このような活動に対応するのは、主観(目的や理想)と客観(手段や現実)に引き裂かれ、両者が対立しあう経験である。課題に取り組むとき、我々は一方では理想や目的を主観において抱き、他方で、理想に従わせるべき現実を、目的を達成するための手段を対象(客観)として意識する。前者の熱意や切実さにも拘わらず、後者は現実のありのまま、なかなか変わらない、ここに対立が生じるのである。そして課題の解決は、現実(客観)を自分の理想に従わせるか、自らの理想を現実に合わせて妥協することにより、主と客の対立が解消されることによってのみ実現される。

 

しかし、我々の経験は、もとから主客の分離および対立に特徴づけられる殺伐としたものであったわけではない。なんの障害や心配もなくぼうっとしているとき、もしくは気ままに遊んでいるとき、このような経験においては、主客の区別がない。安楽や遊びを邪魔する出来事が起こって初めて、その出来事と、それを邪魔に思う経験が分離するのである。

つまり、本来経験は分裂や区別の無い一であり、不自由や不満足の故多に区別される必要が生じる。例えば、痛むからこそ、痛みをもたらす何かを意識して除去する必要がある。足りないからこそ、足りてないその何かを把握して手に入れる必要がある。外的・内的障害があるからこそ、対処されるべき原因として対象が、対処する者として自我およびその目的が措定・意識されるのである。

 

以上の「善くはない経験」の反対は主客(現実と理想)の分離および対立のない、全てが一となって調和している経験である。そこでは、いかなるものも対象として意識されることがない。すべてがあたかも自分の身体の一部であるかのように、自分と調和をなしている。それはまるで、すべてを身体として遊び、踊っているようなものである。

これに対応する活動こそが、なんの障害もなく、自らの本性に従う自由な活動であると言える。そのような活動においては、理想と現実の乖離がない。自分の従うべき本性とは異なるように活動する不自由を強いられてはじめて、自由な活動が当為(理想)として、そして当為と現実のギャップが違和感として同時に意識されるのである。

 

では、どういう活動や経験が以上に述べたものに該当するのだろうか。

一つには、すでに挙げた、何事にも気を乱されない安楽の境地がある。しかし安楽の場合、そこに主客の区別がないどころか、経験そのものの内容が非常に希薄だろう。意識がもうろうとしていたり、寝ているときの経験もこれに類するものである。これらの経験は確かに悪いものではないが、最初に述べた健康の経験のように、善、または活動と呼ぶにはやはり消極的に過ぎる。

積極的に善いと呼べるのは、観照的な活動だろう。観照とは何かを主観を交えないで観ずることである。しかし、それは決して「客観的に観る」ことではない。そもそも、観ずる何かと観る自「分」、客観と主観とを引き裂くような形で認識を行わず、主客未分のままその何かになりきることで直観することに他ならない

例えば我を忘れて知的探求に没頭するような営みがそれである。そこでは認識主観と客観の別すらなく、「何かについて思考する」という経験があるのみである。例えば、赴くがままに数学的対象について思考する場合、そこには自我はなく、対象についての思考そのものがあるのみである。意識の全てがその数学的対象に占められていて、対象とその思考、そして思考する自分の区別がないのである。

観照は知のみならず美にも及ぶ。例えば、音楽に聴き入ったり、演奏する営みも、芸術的な観照である。ここでも、音楽と、音楽に聴き入ったり演奏する私の区別は消失しており、自分が音楽の美そのものとなって、輝く過程だけが存在している。

観照の語義を外れるが、運動や趣味的な工芸など、その過程を楽しむために行われる活動も、上記の観照に類するものである。運動をするときや、趣味に興じるとき、我々の経験を占めるのは、純粋に運動すること、(何かを)創ること、描くことであり、創ったり描く何かは、もはや私と分離された客体ではない。主客分離なき原初的な経験を伴うという点において、これら活動は観照と共通している。

 

主客の区別がないからといって、観照の経験は決して静的な無でも、非主体的な受動でもない。言うまでもなく、数学的思考や音楽鑑賞も極めて活発で動的な経験なのであり、時間が過ぎるに従い目まぐるしく変遷する。また、数学的思考は決して静的な思考内容(数学の命題)ではないし、音楽に没入する経験も単なる音のデータではない。それらは、思考すること、音楽そのものとして躍動することであり、観照は「対象と一体化した私」のれっきとした活動なのである。

 

このように、観照とは、自我と対象からその区別が消失し、(元はそうであったように)一の経験をすることである。しかも観照は、実に活動的な経験であり、一つ目の例としてあげた安楽や休息のような経験とは対照的である。積極的な活動である観照こそが、善とよぶにふさわしいだろう。善く生きる、つまり善く経験するとは、極力観照的に生きることに他ならない

 

この観照的な経験の特徴は、自己目的であり、意味を必要としないことである。観照の経験は主客分離、目的と手段の分離を伴わないのだから、観照的活動はいかなる目的の手段たりえないのである。実際、我々は何か他の目的のために音楽を聴いたり、知的探求に没頭することはなく、それらの活動は他の目的を引き合いに出すまでもなくそれ自体で善いものなのである。

確かに何らかの学問的成果を出すために知的探求が行われることもあるだろう。しかし、成果を出す手段として行われる時点で、それはもはや観照ではないのである。そこには(名声やアカデミックなキャリアのために)何かを言わんとする目的意識と、なかなか言いたいことが成り立ってくれない対象の対立がある。例えば、何らかの命題を証明したくとも、論理や事実により反証される場合にその対立が顕在化する。観照に類するものとして述べた運動や趣味的な制作も、体を鍛えるためだとか、制作物を売ったり評価してもらうだとか、他の目的のために行われるようになった時点で、観照とはかけ離れたものになるだろう。

このように、観照的もしくはそれに類する活動は、純粋に活動を楽しむために行われ、アウトプットを目的としない。知的探求や趣味的制作などアウトプットの伴う活動においては、逆に活動を楽しむためにこそ、善きアウトプットが必要となるのである。より高度な思索が出来た方が知的探求は楽しいものだし、より巧くできたほうが音楽の演奏も楽しいからである。しかし、アウトプットはあくまで活動を行うための媒体に過ぎず、手段に過ぎない。

 

ただ、観照は他に目的を持たずとも、目標を必要とすることはある。数学的思考を行うにも、何らかの命題を証明することを目標とする必要があるし、楽しく制作活動に興じるためにも、目標とする完成形が必要である。このように時には計画や目標設定を行い、それに従う必要があるという点で、観照的な活動も不完全である、つまり目的(活動)と手段(目標)の分離があることは否めない。

観照的な活動は散歩で例えられる。散歩も、景色を楽しみながら歩く過程それ自体を楽しむ経験であり、目的地を持たない。しかし、絶景スポットもあれば殺風景な場所もあり、どこを歩いても散歩を楽しめるわけではない。そのため、時には散歩を楽しむがために計画的に目標地点を決め、散歩をする際も完全に赴くままに歩くのではなく、その目標を念頭に置いて歩く必要がある。散歩といえども、完全に気の向くままに歩くことはできないのである。

 

このように、いくら究極的な善であるとはいえ、現実には観照的な活動だけを行うわけにはいかず、観照的な活動を可能にするためにも、同時に目的意識を伴った非観照的な努力が必要なのである。したがって、このような努力も、観照を可能にする限りにおいて、第二義的な善だと言わねばならない。

また、観照はあまりに非日常的で、人間生活の現実をかけ離れているという指摘があるだろう。確かに、我々人間は生きるためだけでも、あまりにも多くの物事を必要としすぎており、日常の大半は、必要なモノや条件を得るための努力、つまり家事や仕事に忙殺されている。対して、上に述べた観照は、生存の条件がクリアされて初めて可能となるほんの一時の贅沢に過ぎない。まさにアリストテレスが述べたように、観照は自己充足した神の善である。

しかし、時々とはいえ、神が人間に宿ることもあるのであり、その限りで我々は観照の善に限定的にありつくことが出来るのである。そして人間が自身を神のごとき自由と完全性に高める努力こそが、人間的な善だと言わねばならないだろう。

 

では、こうした努力はどういうものだろうか。上で述べたような観照を可能にする目標の設定や追求のみならず、究極的には我々が仕事や生活で自己の生存のために行う全ての努力、またその努力を最小化しようとする努力である。例えば思索や音楽、趣味を楽しむためにも閑暇が必要だからである。閑暇を確保するには、快適に生存することはもちろん、それが最小限の時間と労力でなされなければならない。したがって、必要最小限の労働(賃労働のみならず家事も含む)は行い、その必要をさらに最小化しようと個人的・社会的に創意工夫をすることが必要となる。例えば労働の効率化・機械化や、労働をしたい人がするだけで済むように変えるBI等の社会設計の模索が挙げられるだろう。

このように、生存するためにしなければならないことを極力減らし、生存しているからこそしたいことをする余地を増やすこと、これが人間的な善の最たるものである。しかも、この善は個人的に追求するには限りがあり、社会全体の政治的な協力あって初めて十分に追求できるものである。これを人「間」的な善と呼ぶのは、人間の不完全性ゆえに必要であるからだけではなく、このゆえでもある。

 

さて、以上に述べたように、善く生きることには、二つの側面、つまり神的な観照をして生きることと、それを可能にすべく協力しあって人間的に生きることがある。両者は目的と手段の関係にあるとはいえ、いずれも欠かせないものである。両者をバランスよく追求し、不完全な人間ながら極力神のように生きようとすることこそ、善く生きることだといえる。