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よく生きること

世間の人が、(要領)よく生きるために「どのように」に関して思考するのに長けているが、その前提を問うことを怠ることでかえって人生を損なうことがある、ということについては既に述べた。

私はなぜ、そして何を「考える」か - Silentterroristの日記

彼らは善く生きることに対しても、「どのように」という手段をもっぱら問う。就職、結婚、子育て等、幸福(=善く生きること)のモデルケースに自分がどうやってはまるかを考えるばかりで、それらがなぜ善く生きることにつながるか、そしてそもそも善く生きるとは何かについては考えない。

確かに、原理や理由を知らずして、方法を知るだけでうまくできることはある。例えばこのパソコンの操作がそれである。しかしパソコンの操作法とはことなり、人生の生き方はあまりにも多様だし、善い生き方が人それぞれであるため、方法を与えればうまく出来る類のことではないことは明らかだろう。

したがって、なぜ善く生きるのか、善く生きるとはどういうことなのかについて考える必要がある。

うち、前者は後者に答えることで答えられるように見える。というのも、生きることは、生きようとすることを含意するように思われるからだ。一般に我々は何かをしたいからするのであり、何かをするからしたいと思うに至るわけではない。しかし生きることは一つの例外である。生存欲求よろしく、我々は生きている限り、生き続けようとする傾向にある。また、その場合は、単に生存するだけではなく、出来るだけ幸福に生きようとするだろう。ただ、傾向に例外はつきものであるし、上記はなぜ我々が善く生きたいと欲するかの説明にはなっても、なぜ善く生きるべきかの説明にはなっていない。したがって、前者も後者とは別に答えが与えられるべき問題ではある。

ただ、まずは、善く生きることは何かを問題としよう。生きるとは何だろうか。生命活動という言葉からわかるように、それは活動である。活動とは、字義通り活発に動くことである。我々の身体は絶えざる生体反応により動いている。しかも、外的な力だけではなく、それ自身をも原因として動いている。栄養摂取等、外的な作用を受けることですらも、自らが進んで行為した結果なのである。外的な要因を主として動かされるのは、点滴を受けている植物状態の人間のように、生きるよりも生かされていると表現したほうがいいだろう。確かに外的な作用あってこそ我々は生きることが出来るとはいえ、受動性よりも能動性が生きることを特徴付ける。

これだけならば動物として生きることの定義に過ぎない。我々人間はさらに、互いのため、互いに協力して様々なことを成し遂げる。つまり、他者との関わりの中で行われる社会的活動を通じて我々は人間として生きるのである。そしてさらに、我々は固有の個性に基づき活動する。言うまでもなく、同じ人間と言えども、その活動の内容は動物的よりも人間的なものであればあるほど、異なったものとなる。人間的な活動にも芸術、学問等の様々なものがあるが、これら多種多様な活動が、個人の性格や才能に応じて、個人の上に別様に現れるのである。このように、生きると一口に言っても、様々な種類やレベルの活動から成る。

しかし、上記は生きるという活動を、生理的現象ないし社会的な言動として外面的に記述したものに過ぎない。意識を持たない哲学的ゾンビですら、生命活動はもちろん、外面では人間らしく社会的に振る舞うことはできるため、上の規定はみたすだろう。しかしそのような機械的なモノは到底生きていると言える代物ではない。したがって、上で行った生の外面的な規定はごく限定的なものに過ぎないと言える。

生命活動は客観的に見れば物理的ないし社会的な現象だが、それと同時に主観的な経験でもある。例えば我々の脳で絶えず生理的反応が生じるのに伴い意識が継続的に生起しているし、社会的な言動をとる際もそれに伴い意識の上でその体験をしているのである。したがって、生きるとは、自然界における動作という現象のみならず、意識の上でその「動作すること」を経験することが表裏一体となった営みである。

生きることのこの二つの側面、外的な活動と、内的な経験の関係がいかなるものだろうか。観念論者の私は前者は後者に内包されると主張したい。いかなる物理的現象や社会現象も、誰かに経験されてこそある。例えば私自身の生命反応は、五感や諸々の観測(医療)装置を通じた私や他人の経験としてこそ生じているのであり、観測者なき物理現象は完全なナンセンスである。この点については、つまり意識から独立した外的(物理的)世界が存在するか否かについては意見が分かれるところだろうが、ここで論じるつもりはない。

上に述べた立場を取るとすれば、生きるとは第一義に経験することである。経験については、別記事ですでに述べた。

経験について - Silentterroristの日記

善く生きるとは善く経験することであり、それは善く活動することに伴い達成されるのである。善く生きることについてはこの記事以外にすでに下の記事で説明しているが、この記事は後者の善く(自由に)活動することについて、限定的ではあるが述べたものであった。

そもそも、善き生とは何か。また、必ずしもその継続を願うとは限らない、より直接的な理由 - Silentterroristの日記

それでは善く活動することにより達成される、善き経験とは何かが説明されなければならないが、それはまた別の機会に行うとしよう。