否定について

我々は、よく否定という言葉を口にする。自己や現状の否定だとか、否定的(ネガティブ)だとかよく言われることがあるが、そもそも否定とはどういう意味なのだろうか。
否定の原義は、ある命題が真でない、つまり偽であると主張することである。地球が平たいという命題を否定するとは、地球が平たくないと主張することに等しいし、うわさを否定するとは噂の内容が事実と異なると主張することである。
しかし、否定的に評価するだとか、ネガティブな性格等という場合、否定の意味は少し違ってくる。ある事態を否定的に評価するとは、それが事実ではないと主張することではない。むしろその事態が事実であることを認めつつ、そうあってはならないと主張することが、否定的な評価の意味である。
ある人がネガティブな性格であるというのも、全ての命題に対して偽ではあるまいかと疑いにかかる懐疑主義のことではなく、あらゆることに対して、そのありのままを認識しつつも否定的な評価を下す態度の事である。

ここでいう否定は、「~ではない」という論理的な否定とは異なる意味のもので、どちらかというと「~であってはならない」とする倫理的な意味合いの強い態度であるといえる。その倫理的な性格から、否定は悪しとする価値判断を帯びる。「~であってはならない」と考える人は、その事態を悪いものだと評価し、その事態が無くなることを望む。
逆に、肯定にも、ある命題を真だと認める論理的な意味もあれば、倫理的な意味もある。否定が「~であってはならない」とする態度ならば、肯定は「~であってもよい」、もしくは「~であってよかった」とする是認の態度だろう。何らかの事態を肯定することは、それが善い、もしくは悪くはないとする価値判断を含意するのである。


ただ、善悪といっても、絶対的に善い/悪いのか、何か他の事態に比べて相対的に善い/悪いのか、二つの意味があるだろう。絶望や苦悩に喘ぐ事態は、マシな事態を引き合いに出すまでもなく端的に悪いのに対して、平凡な食事をしているという事態は、ご馳走にありつける事態と比較して悪いに過ぎない。このような悪の意味の違いに応じて、否定にも絶対否定と、相対的に過ぎない否定がある。

うち、後者の相対的な否定は、場合によっては肯定的ですらある。今の食事が贅沢なご馳走に比べて悪いということは、現状を改善できる可能性が残されているということである。もし、今の質素な食事を否定するだけではなく、料理の手間をかけるなど、否定から逃れる(改善の)ための努力を伴うならば、それは現状改善のきっかけでありむしろ望ましいものである。
対して、前者の否定はどこまでも憂鬱である。後者のように改善の可能性が意識されなければ、現状の劣悪さ、煩わしさは希望を削ぐばかりであり、終いには「こんなにひどい現実は改善するに値しない」という更なる否定にもつながってしまうだろう。

肯定も同様である。相対的な現状肯定は、現状を他の事態に対して望ましいとする現状満足に他ならない。この態度が行き過ぎると改善がなされなくなるだろう。対して絶対的な肯定は、「このように素晴らしい現実に生きていてよかった」とする現実に対する感謝や愛とでもいうべきもので、幸福の源泉ですらある。

 

ここで注意すべき点がある。
①否定することは、それ自体不快で残念なことである。例えば、もっと美味しい料理があるのに…と思いながら食事をしようならば食事の美味しさが失われるだろうし、より幸福に見える他人と自分を比較するのは、それ自体が不幸の原因である。
逆に、人の不幸で慰めを得る人のように、自分の現状が他と比較してマシであるとする肯定は、それ自体が幸せの足しになる。

②絶対的な肯定と相対的な否定とは両立する。それはつまり、現状は素晴らしくとも、なお改善の余地があると考えることであり、現実が愛せるほど素晴らしいから、さらに良くしようとする好循環である。この、肯定をベースとした部分的な否定の態度が、幸せに生きるのに最も適した実践的態度といえる。逆に、現状が他に比べれば最もマシだと考えながら、それでも不満を抱く人は、救われようのない不幸の人だろう。

③相対的な否定や肯定は、事態の良し悪しの問題であるのに対して、絶対的な否定や肯定は、どちらかというとその人の態度の問題である。例えば、誰でも、最低限度の衣食住が賄える暮らしよりも、贅沢な暮らしが出来るほうが良いゆえ、前者を相対的に悪いものだと否定するだろう。対して、否定的な人は最低限の暮らしでは満足せず不幸に感じるのに対して、肯定的な人であれば前者のような暮らしでも感謝して遅れることだろう。まさに、コップに水が半分しか入っていないのか、半分も入っていると捉えるかのごとき違いである。

 

②で言ったように、原則として肯定的な態度を保てる人が最も幸福である。にもかかわらず、ネガティブな人が数多くいるのはなぜだろうか。


まず、彼らがそもそも幸福を追求していないという理由が考えられる。「不幸であるにも関わらず」強く生きることに意義を見出す人、生を呪詛する人生に生きがいを感じている人等様々な人がいるだろう。彼らの生き方は確かに面白いが、大変であるばかりか自己憐憫の気も感じられ、少なくとも私には魅力的ではない。

その他の、幸せになりたいのにネガティブな人は、③で述べた通り性格や気質に負うところが大きいだろう。だが、そればかりではなく、以下に述べる「無用な比較」により現状を否定している人が多いのではないかと思う。


相対的な否定は改善につながればむしろポジティブなものであることは述べたが、もし改善のしようがなければ①で述べた通り、それ自体がネガティブな感情の原因になる。「無用な比較」とは、改善につながらない、不可能な空想と現状の比較である。
例えば、遺伝的に身長が低いなど、変えようの無い身体的なコンプレックスがそれである。彼は、自身の身長が低いという現状を、背が高い他人と比較して否定する。しかし、彼自身にとって、比較対象の事態、つまり彼が他人並みの身長になることは不可能であり、彼は現状を無理な理想と比較しているのである。解消が不可能もしくは困難なコンプレックスの大半は、こういった不可能な理想との無用な比較という形態を取る。

この類の否定的な感情は、無の否定と呼んで差し支えないと思う。背が低かったり、髪が薄かったり、恋人がいなかったり…これらは、それ自体としてはなんら苦痛を生み出さ「ないこと」である。にも関わらず、背が高く、髪がふさふさで恋人がいる…というような「有ること」と比較されることで否定され、苦悩が生み出されるのである。

食料や水が無い結果としての飢えや渇きは、確かに有る感覚であり、これらを否定することは理に適っている。しかし、そもそも何の苦しみも伴わないことを、否定する理由はどこにあるだろうか。無の否定とは一種の迷いであり、この迷いゆえネガティブな劣等感を自ら作り出してしまっているのである。

我々はいかにこの迷いから自由になれるだろうか。それは、何かが無い現状を、有る理想と比較するのをやめなければ達成できない。ではそもそも、なぜ我々は現状を実現できもしない理想と比較するのだろうか。それは、実現不可能性の認識が確固としていないからである。
我々はしばしば、世の大多数が手にしているものを自分が持ちえないことに対して劣等感を感じる。しかし例えば、我々は大富豪の贅沢と己を比較して、富に恵まれぬ己自身に劣等感を抱きはしない、彼らが我々とあまりにかけ離れ、比較の範囲を超えていると感じるからである。前者の場合に劣等感を感じるのは、普通の人が手にしているものを、自分が手にしてもおかしくないとする錯覚から、自分と普通の人とを(無意味にも関わらず)比較してしまうからだろう。

したがって、自分に無いものが、絶対に手に入れられないのだとする諦めを徹底することが、この迷いから抜け出る唯一の方法だろう。諦めというと一見否定的に聞こえるが、否定を克服するという肯定的な意義も備えているのである。

 

無の否定とは異なるが、過去に対する後悔のあまり、現実の過去や現在を否定するのも無用な比較の一種である。この場合も、現実とは異なる選択を過去に行った場合に実現されたであろう現在は、今の私が生きる現実と断絶されているという認識が甘いからこそ、盆に返った覆水を夢見て覆水を嘆くのである。

 

上記は少ない例に過ぎないが、否定的態度は迷妄や誤謬をしばしば原因とする。したがって、現実の必然性と可能性をありのままに正しく認識することが、その克服につながり、幸福に生きることに大いに資するのである。