私はなぜ、そして何を「考える」か

私は一般的に無益と思われることをよく考える。一般的に皆が考えるのは、仕事や生活のどちらかを問わず、日常を要領よく生きるためには何をすればいいか、つまり「どのように」(how)の問題である。しかし、どのように行うかを問う前提となるのがなぜ行うのか(why)の問題であり、さらにはそもそもなんであるか(what)の問題がすべての前提となる。私は世間の人々はhowの問題にとらわれるあまり、残り二つのwhyやwhatの問題がおざなりになっているのではないかと常日ごろ考えるところである。
 例えば、仕事をするにしても皆は、どうすれば仕事がうまく行くかに関心があるようだが、この問いは仕事を行うことを前提としている。「現状では」個人的に仕事をせざるをえないとしても、とりわけ現代的な形態で人間が仕事を行うのは自明ではない。それゆえに、そもそも、なぜ仕事をしなければならないのかに興味を持つのである。それにこたえるためには、さらに、仕事、とくに近代的な賃労働がいかなるものかが問われねばならない。
 ではなぜ、「なぜ」を問うべきのだろうか。それは、「どのように」が前提とすること、仕事の例で言えば、「仕事をする」という前提が必ずしも正しくないからである。例えば、ブラック労働や過労死の例を挙げるまでもなく、仕事をすることが常に善い事とは限らない。また、AIやロボット技術の発展によって、供給を賄うための労働の必要性も薄れているのである。もし、仕事をすることが悪いことだったら、不必要なことであれば、「どうすれば仕事がうまくいくか」のみを考え仕事を続けることは、要領が良いどころか、全く良いことではないだろう。
このように、日常で問われる「どのように行うか」という問いは、「行うこと」をすでに前提しているのであるから、この前提を吟味しないでは、せっかく要領よく生きるために問うた「どのように」に対する解が、かえって人生を損ねてしまう恐れがあるのである。
私が行う「考えること」とは、以上のように通念に潜む前提を吟味することである。それが結果的に「なぜ」や「なんであるか」という問いの形態をとるのである。